「 ティキ・タカの心臓 」 シャビ・エルナンデス ( スペイン )
卓越した技術とセンス、熟達のプレービジョンでゲームをコントロール。ボールを失わない抜群のキープから、一瞬の間隙を突くキラーパスでチャンスを生み出した。ポゼッションサッカーを極めた「ティキ・タカ」の心臓として、最強時代を築いたバルサとスペイン代表を支えたのが、シャビ・エルナンデス( Xavier Hernández Creus )だ。
バルセロナのカンテラで育ち、グアルディオラの後継者としてピポーテ(ゲーム展開の軸)の役割を担った。中盤底から試合を操り、ロナウジーニョ、エトー、アンリ、メッシらのクラック(最高級の選手)にボールを配球。チャンピオンズリーグ優勝4回、リーグ制覇8回など、バルサの主軸としてチームに数々のタイトルをもたらす。
代表でポジションを確立するのは遅かったが、ユーロ08では大会MVPの活躍でスペイン11大会ぶり2度目の優勝に貢献。ポゼッションサッカーの要としてチームを引っ張り、10年南アW杯優勝、ユーロ2012制覇と、メジャー大会3連覇の偉業をなした。
シャビは1980年1月25日、バルセロナのテラッサにエルナンデス家の三男として生まれた。父ホアキンは1部リーグでのプレー経験もある元サッカー選手。代々一家は熱狂的なクレ(バルサのサポーター)で、シャビは3人の兄妹とともにサッカー漬けの毎日を送る。
5歳で地元のサッカースクールに通い、9歳で父が育成スタッフを務めるテラッサFCに兄たちとともに移籍。体が小さくフィジカルも弱かったシャビだが、それを補って余りある少年の才能は名門クラブの注目を引いた。
10歳となった91年にはFCバルセロナにスカウトされ、“ラ・マシナ” と呼ばれる全寮制のカンテラ(育成組織)に入団。このときクラブの伝説的プレーヤーであるヨハン・クライフに接する機会を得て、大きな影響を受ける。
“ラ・マシナ” の1年目で右MFとして優秀な成績を残すと、2年目は飛び級となる12歳のカテゴリーでプレー。壁にぶつかりながらもバルサの精神と伝統を身につけ成長、やがてグアルディオラの後継者と目されるようになる。
“ラ・マシナ” で3年を過ごしたある日、シャビの噂を聞きつけたグアルディオラがカンテラの練習を視察。シャビのプレーを見届けると、「あの子は特別な選手だ。4、5年もすれば間違いなく自分のポジションを脅かす存在となるだろう」と言ったという。
その後、プジョルとともにバルサBの中心選手として2部リーグ昇格に貢献すると、98年5月のカタルーニャ大会でトップチームデビュー。同年8月のマジョルカ戦でリーガデビューを果し、18歳でグアルディオラとロッカールームをともにする。
1年目の98-99シーズンは、バルサBを兼ねながら公式戦26試合2ゴールの成績。チームのリーグ2連覇に貢献し、リーガ最優秀新人選手賞に選出される。そして2年目の99-00シーズンは、膝の故障に苦しむグアルディオラに代わってバルサ伝統のピポーテを務める機会が増え、公式戦38試合2ゴールの成績を残した。
00-01シーズンは復調したグアルディオラとの併用で36試合2ゴール。バルサは2季連続タイトル無冠に終わる。シーズン終了後、チームの支柱であるグアルディオラがバルサを退団。21歳のシャビは後継者としての実力を試されることとなった。
17歳でアンダー代表入りし、99年4月にはナイジェリア開催のワールドユース選手権(現U-20W杯)に出場。初戦でロナウジーニョ擁するブラジルを2-0と破るなど順調にG/Lを勝ち上がり、劣悪な宿泊環境に苦しみながらも決勝へ進出。
決勝は「黄金世代」の日本を寄せ付けず、4-0と圧倒してスペインが大会初優勝を飾る。シャビは2得点を挙げるなどMVP級の活躍でチームを引っ張った。
2000年9月にはシドニー五輪に出場。G/Lはサモラノ率いるチリに1-3と敗れるも、グループ2位でベスト8進出。準々決勝は優勝候補のイタリアを1-0と下し、準決勝ではアメリカを3-1と撃破。初の五輪決勝へ進んだ。
決勝の相手は、エムボマ、エトーの2トップを擁するカメルーン。開始1分、シャビがFKを決めてスペインが先制。前半ロスタイムにも追加点が生まれ、2点をリードしてハーフタイムを折り返す。
しかし後半の58分、エムボマの折り返しが味方DFに当たってオウンゴール。その5分後にはエムボマのクロスからエトーのゴールを許し、2-2と追いつかれてしまう。
試合終盤にはスペインの2選手が退場。数的劣勢の中、プジョルを中心に守り切って延長PK戦に持ち込むも、疲労で力尽きたスペインが3-5の敗戦。惜しくも金メダルを逃してしまった。
同年11月、オランダとの親善試合でプジョルとともにフル代表デビュー。このあとグアルディオラがケガから回復するとしばらく代表に呼ばれなくなってしまうが、02年のW杯本番を目前にして復帰。コンディションの戻らないグアルディオラに代わり、W杯メンバーに選ばれる。
02年5月、Wカップ日韓大会が開幕。初戦でスロベニアを3-1と下し、続くパラグアイ戦も3-1とリードした終盤の85分、シャビはバレロンに代わってW杯初出場。主力温存となった最終節の南アフリカ戦で初先発を果し、3-2の勝利に貢献する。
トーナメント1回戦のアイルランド戦で出番は無かったが、地元韓国と戦った準々決勝は0-0で進んだ終盤の93分に交代出場。試合は延長PK戦となり、シャビは3人目のキッカーとして成功。しかし4人目ホアキンのPKが止められてしまい、スペインはベスト8敗退に終わった。
01-02シーズンはリーグ戦35試合4ゴールの成績でレギュラーに定着。しかし低迷するバルサは3季連続でタイトルを逃す。02-03シーズン、フランク・ライカールトが監督に就任。フィジカルを重要視する新指揮官によりシャビはベンチへと追いやられるが、すぐに己の価値を証明してレギュラーに復帰する。
03-04シーズンはロナウジーニョとダーヴィッツが加入。するとチームはにわかに活気を呈するようになり、リーグ戦ではバレンシアに競り負けて2位に終わるも、久々の好成績。シーズン終盤に戦ったアウェーでのエル・クラシコでは、シャビの決勝弾でマドリーに勝利を収めた。
04-05シーズン、エトー、デコ、ラーションら新加入の攻撃陣が活躍。またシャビやプジョルに加え、イニエスタ、ビクトル・バルデスといったカンテラ出身の選手もチームの中核を担うようになり、戦力を整えたバルサは快進撃を始める。
シャビは好調なゲームメイクで攻撃陣を支え、バルサ6シーズンぶりのリーグ制覇に大きく貢献。その活躍によりリーガ・エスパニョーラの最優秀選手賞に輝く。
翌05-06シーズン、バルサはリーグを2連覇。チャンピオンズリーグもチェルシー、ベンフィカ、ACミランといった強豪を撃破して14年ぶりの決勝に進出する。そして決勝ではエトーのゴールなどでアーセナルを2-1と下し、悲願となる2度目の優勝。
しかしシャビは晴れ舞台のピッチに立つことなく、ベンチで優勝の瞬間を見届けることになった。CL決勝の半年前、練習中に脚をひねって左膝前十字靱帯断裂の重傷。懸命のリハビリでチームに復帰するも、この時はまだベンチ入りするのが精一杯の状態だったのだ。
04年6月にはポルトガル開催のユーロ大会に出場。しかし好調バレンシアの中盤、アルベルダとバラハの牙城を崩せず、1試合も起用されることなく大会を終了。スペインは1勝1敗1分けでG/L敗退となった。
ユーロ終了後にルイス・アラゴネスが代表監督に就任すると、シャビは新指揮官の信頼を得てレギュラーに定着。左膝の重傷によりW杯の出場が危ぶまれるが、アラゴネス監督は半年のリハビリを経て回復したシャビを、無条件でW杯メンバーに選出する。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/Lの初戦はシェフチェンコ率いるウクライナと対戦。開始13分、シャビのCKをシャビ・アロンソが頭で決めてスペインが先制。このあとシャビを中心とした華麗なパス回しでウクライナを圧倒する。売り出し中の2トップ、フェルナンド・トーレスとダビド・ビジャも爆発し、4-0の圧勝を収めた。
第2戦もシャビとシャビ・アロンソの展開力を起点とし、トーレスとラウルのゴールでチュニジアに3-1の快勝。最終節はシャビら主力11名を休ませながら、サウジアラビアを相手に1-0の勝利。3連勝で決勝トーナメントに進む。
だが怪我から復帰したばかりでシャビの体調は万全ではなく、トーナメント1回戦のフランス戦ではプレーに精彩を欠いて後半の72分に交代。勢いを失ったスペインは1-3の逆転負けを喫し、ベスト16敗退。シャビにとって悔いの残る結果となった。
豪華な戦力を揃えて黄金期を築くかと思えたバルサだが、06-07シーズンは主要タイトル無冠。07-08シーズンはアンリの加入、メッシの成長など攻撃陣に厚みを加えるも、またもやタイトル無冠に終わる。選手の慢心、主力の故障、不協和音を生むエトーの発言など、まとまりを欠いたチームは意外な脆さを露呈してしまったのだ。
ライカールト監督の手腕には疑問の声が上がるようなり、08年5月のエル・クラシコで1-4と惨敗した試合の翌日、シーズン終了限りでの解任が発表。この時バイエルン・ミュンヘンからの誘いに傾いていたシャビだが、グアルディオラの監督就任を聞いて残留を決める。
新指揮官は選手に対してチームへの忠誠と規律を要求し、方針にそぐわないと考えたロナウジーニョとデコを戦力外通告。代わりにカンテラ育ちの選手を積極的に登用し、サッカーに対する自分の哲学と情熱をチームに浸透させた。
そしてクライフの精神を受け継ぎ、ボールポゼッションの高さと攻撃的なプレッシングによるスペクタクルなサッカーを展開。そのバルサの心臓となり、クラブ伝統 “ティキ・タカ” のエレガントなパス回しの軸となったのが、シャビだった。
08-09シーズン、新生バルサは開幕から勝ち星を重ね、圧倒的強さで3季ぶりのリーグ優勝。09年5月のエル・クラシコではシャビの4アシストで6-2の大勝を収め、1年前の雪辱を果した。
さらにコパ・デル・レイも制して国内2冠。そしてCLも3年ぶりに決勝へ進出し、マン・オブ・ザ・マッチの活躍でマンチェスター・ユナイテッドを2-0と撃破。スペイン初となるトレブルの偉業を達成に貢献する。大会7アシストを記録したシャビは、CLの最優秀MF賞に選ばれている。
翌09-10シーズンもリーグを2連覇。リーガ・エスパニョーラ賞ではメッシ、C・ロナウドに続く3位。FIFAバロンドール賞でも同僚のメッシ、イニエスタに続く3位に入り、名実ともに世界を代表するMFとなった。
08年6月、スイス/オーストリア共催のユーロ大会に出場。スペインは中盤にシャビ、イニエスタ、シャビ・アロンソ、ダビド・シルバ、セスク・ファブレガスと豊富な人材を揃え、2トップのビジャとトーレスも好調。バルサスタイルの “ティキ・タカ” をベースとした華麗なパスサッカーで、G/Lを全勝突破する。
準々決勝は、守護神カシージャスの好守でイタリアをPK戦で下してベスト4進出。準決勝はシャビの先制点でロシアを3-0と打ち破り、44年ぶり2度目の決勝に進んだ。
決勝の相手はドイツ。スペインは大会4得点のビジャが累積警告で欠場。エースの代わりにセスクが先発起用され、シャビら「クアトロ・フゴーネス(4人の創造主)」と呼ばれる中盤が初めて姿を現した。
ほとんど初めてと言える決勝の大舞台に硬さの見えたスペインだが、前半の33分、シャビのスルーパスに反応したトーレスが先制弾。後半は「クアトロ・フゴーネス」を中心としたポゼッションサッカーで圧倒し、ドイツに1-0の勝利。得点王のビジャとともに優勝の立役者となったシャビは大会MVPに選出され、ここからスペイン「無敵艦隊」の時代が始まる。
10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕。ユーロ08後に就任したデルボスケ監督は、バルサで活躍するピケやブスケスといった若手を加えてさらに戦力を強化。シャビをトップ下に置いた布陣でW杯欧州予選を10戦全勝と圧倒的強さで勝ち抜き、優勝候補の本命に挙げられていた。
しかしG/Lの初戦は、堅守を誇るスイスに0-1と敗れてまさかの黒星スタート。これまで第1戦を落としたチームが優勝した例はなく、スペインはいきなり窮地に追い込まれた。それでも第2戦はビジャの2ゴールでホンジュラスを下し、最終戦も難敵チリに2-1の勝利。無事1位突破を果した。
トーナメント1回戦は、シャビのマン・オブ・ザ・マッチとなる活躍で隣国のポルトガルを1-0と下し、準々決勝はパラグアイと対戦。前半はパラグアイの果敢なプレスに自慢のパスワークを封じられ、後半の56分にはPKを与えてしまうピンチ。カシージャスのナイスセーブで難を逃れるが、直後に得たPKを今度はシャビ・アロンソが失敗する。
だが次第にペースを取り戻した終盤の83分、シャビのヒールパスからイニエスタが中央をドリブル突破。ポスト直撃のこぼれ球をビジャが叩き込み、1-0と勝利したスペインが準決勝に進む。
準決勝は、ユーロ08ファイナルを戦ったドイツとの対決。11人中7人をバルサの選手で固めたスペインは、司令塔シャビを中心としたパスサッカーで主導権を握り、ドイツのカウンターを抑えながら幾度も相手ゴールを脅かした。
そして相手に疲れの見えてきた後半73分、シャビの左CKからプジョルが豪快にヘッドで決めて先制。このまま逃げ切って1-0と勝利し、ついにスペインが初の決勝へ勝ち上がった。
決勝の相手は、共にW杯初優勝を狙うオランダ。スペインはボール支配率で上回るも、オランダの激しい当たりに阻まれ前半は0-0。後半に入ると互いに決定機を迎えるが、両キーパーの好守連発で得点は生まれなかった。
決勝は延長戦に突入。延長も無得点のまま後半まで進み、PK戦がちらつき始めた109分、オランダDFが警告2枚で退場。優位に立ったスペインは勝負を決めにいく。
116分、ゴールキックの流れからヘスス・ナバスが右サイドをドリブル突破。ボールはイニエスタ、セスクと繋がり、延長後半に投入されたトーレスが中央へクロス。一旦クリアされたこぼれ球をセスクが拾ってスルーパスを送ると、イニエスタがシュートを叩き込んで決勝点。1-0と勝利したスペインが8番目の世界王者に輝いた。
シャビは大会中669本と誰よりも多くのパスを出し、その成功率は驚異の91%。文字通り 「ティキ・タカの心臓」となって悲願の初優勝を支えた。
12年6月、ポーランド/ウクライナ共催のユーロ大会に出場。イタリアとの初戦はキレがなく衰えを感じさせたが、全6試合に先発出場。決勝ではパフォーマンスを取り戻し、再びまみえたイタリアに4-0の圧勝。史上初となる2大会連続優勝を果すとともに、10年W杯を含むメジャー大会3連覇の偉業を達成する。
14年6月、Wカップ・ブラジル大会に出場。初戦は4年前のファイナルを争ったオランダに1-5の惨敗。前回王者のスペインはこの敗戦のショックが尾を引き、まさかのグループ敗退。早々と大会から消えていった。
ふくらはぎを痛めていたシャビの出番は第2戦以降なくなり、敗退後に代表からの引退を表明。15年間の代表歴で133試合に出場、13ゴールの記録を残す。
15年5月、カンテラ時代を含めて24年を過ごしたバルサを退団。名門クラブの主力としてリーグ優勝8回、国王杯優勝3回、CL優勝4回、クラブW杯優勝2回など、数多くのタイトルを手にした。
このあとカタールのアル・サッドで4シーズンをプレーし、19年5月に39歳で現役を引退。引退後アル・サッドの監督を2年務め、21年11月に古巣バルセロナの監督に就任。経営立て直しを図る名門クラブで、切り札としての重責を担うことになった。
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