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《 サッカー人物伝 》 スティーヴン・ジェラード

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「 リバプールの英雄 」スティーヴン・ジェラード( イングランド )

強靱な肉体から放たれる破壊的なミドルシュートで、相手ゴールを脅かしたセントラルMF。ダイナミックな動きと正確な中長距離のパス、激しいタックルで攻守に躍動。その闘う姿勢とリーダーシップで幾つもの奇跡を起こしたリバプールの英雄が、スティーヴン・ジェラード( Steven George Gerrard )だ。

リバプール生まれのリバプール育ちとして地元サポーターから絶大な人気を誇り、00-01シーズンにはユース時代からの仲間であるマイケル・オーウェンとともにFAカップ、リーグカップ、UEFAカップの3冠獲得に貢献。23歳の若さでキャプテンを任されると、05年のチャンピオンズリーグ決勝ではACミランに奇跡の大逆転勝利。クラブの伝説となった。

イングランド代表には20歳で選出。ベッカムスコールズ、ランパードらと豪華な中盤を形成し、3度のW杯と2度のユーロ大会に出場するが、期待されたほどの結果を残せずに終わった。14年間の代表歴で刻んだ114キャップは同国歴代4位の記録である。

ヒルズボロの悲劇

ジェラードは1980年5月30日、マージーサイド州リバプールのウィストンに生まれた。地元のジュニアチームで本格的にサッカーを始め、才能の輝きが認められて9歳の時にリバプールのユースアカデミーへ入団する。

ちょうどジェラードがアカデミーに加わった頃の89年4月、FAカップ準決勝のリバプール対ノッティンガム・フォレスト戦で、「ヒルズボロの悲劇」と呼ばれる大惨事が発生する。

ヒルズボロ・スタジアム警備員の誘導ミスにより、ゴール裏にある3千人収容のテラス(立ち見席)にリバプールサポーター2万人が押し込められて96人が圧死。重軽傷者を合わせて860人あまりもの犠牲者を出した、イングランドスポーツ史上最悪とされる事故である。

亡くなった犠牲者の中にはジェラードの1歳上だった従兄弟も含まれており、スティーヴン少年はこの事故で心に深い傷を負うことになる。この「ヒルズボロの悲劇」は85年の「ヘイゼルの悲劇」とともに、強豪リバプールを地盤沈下させる要因となった。

リバプールの若きキャプテン

ユース時代は半年早く生まれた「神童」マイケル・オーウェンと切磋琢磨し、彼に遅れること1年半後の98年11月、ブラックバーン戦の後半に途中交代でトップチームデビュー。右SBのポジションで主に守備の選手として12試合に出場する。

99-00シーズンはポール・インスの移籍によりセントラルMFへコンバート。リーグ戦29試合に出場してプロ初ゴールを記録するも、新しい役割への適応と鼠径部の怪我に苦しみ、伸び悩んだ2年目となってしまう。

3年目の00-01シーズン、ゴールへの意識を高めたジェラードは、公式戦50試合に出場して10ゴールとブレイク。オーウェン&ヘスキーの強力2トップとのホットラインで、CL出場権の得られる3位確保に貢献する。

さらにFAカップとリーグカップを制し、UEFAカップ(現EL)も25季ぶり3度目の優勝。攻守の活躍でカップ・トレブル達成に大きな役割を果したジェラードは、PFA(プロ選手協会)選定のベストイレブンと最優秀若手選手賞に輝き、オーウェンと並ぶチームの看板選手となった。

01-02シーズンは再び鼠径部の故障に苦しみ、リーグ戦28試合3ゴールの成績に終わるも、プレミア発足後(92年)最高順位となる2位に貢献。02-03シーズンは34試合5ゴールとパフォーマンスを取り戻すが、CL出場権を得られるリーグ4位を懸けた最終節のチェルシー戦で、不覚にもレッドカードを貰って1-2の敗戦。5位に沈んだリバプールはCL出場を逃す。

翌シーズン途中の03年10月、ジェラール・ウリエ監督はベテランのサミ・ヒーピアに代えて23歳のジェラードを新キャプテンに指名。それまで試合中に熱くなりすぎるなど未熟さも見かけられたジェラードだが、若くしてのキャプテン就任は、プレーの質向上と精神的成長を促すことになった。

しかしマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの2強に加え、新興勢力のチェルシーが台頭。「ビッグ4」と呼ばれながら、リバプールは上位の壁を破れずにいた。

代表デビュー

00年5月の親善試合ウクライナ戦で代表デビュー。このまま翌6月に開催されたユーロ2000(ベルギー/オランダ共催)のメンバーにも選ばれ、G/Lのドイツ戦で後半61分にオーウェン代わって初出場。1-0の勝利に貢献する。しかしイングランドは3位でグループ敗退となり、ジェラードの出番はこの1試合にとどまった。

このあとW杯欧州予選に参加し、01年9月にアウェーで行なわれたドイツ戦では、得意のミドルシュートを炸裂させて代表初ゴールを記録。この試合ではオーウェンがハットトリックを決めるなど、ドイツ相手に5-1と歴史的勝利を収める。

予選最終節のギリシャ戦では、ロスタイムにベッカムが劇的FK弾を叩き込んで2大会連続のW杯出場を決定。だがジェラードはシーズン最終戦で怪我を負い、手術のため日韓W杯出場を断念せざるを得なくなった。

04年6月にはポルトガル開催のユーロ大会に出場。イングランドは中盤にジェラード、ベッカム、スコールズ、ランパードの4人を揃え、2トップには新旧ワンダーボーイのオーウェンとウェイン・ルーニーを並べるという豪華な布陣。ベスト8進出を果すも、地元ポルガルにPK戦で敗れて準々決勝敗退となる。

チャンピオンズリーグの快進撃

04-05シーズン、チームのエースでリバプールの顔でもあるオーウェンがレアル・マドリードへ移籍。もう一人のエース、ヘスキーもチームを離れ、ジェラードにもチェルシーからの好条件によるオファーが届く。

ここ数年優勝どころか4~5位に甘んじる状況にクラブの本気度を疑い、移籍へと気持ちが傾きかけたジェラードだが、新しく就任したラファエル・ベニテス監督との話し合いにより思い留まることになった。

だがリーグ戦では故障者の多さやエースの不在もあって3強の後塵を拝し、チャンピオンズリーグでも苦戦。CLグループステージ1試合を残して3位にいたリバプールは、首位に立つオリンピアコスとの最終戦で、2点差以上をつけて勝つことがグループ突破の必須条件となった。

ホームのアンフィールドで行なわれた最終戦は、前半26分にリバウドのゴールで先制されるも、後半の47分に同点。終盤の81分にようやく勝ち越し点が生まれ、終了間際にジェラードの弾丸ミドルで3点目。1-3と勝利したリバプールはオリンピアコスを引きずり落とし、決勝ステージに進む。

このあとレバークーゼン、ユベントス、チェルシーといった強敵を接戦で制し、ついに20年ぶりとなる決勝へ進出。決勝の相手は世界屈指のスター軍団、ACミラン。ここまでバルセロナ、マンU、インテルといった強豪を危なげなく下して決勝に勝ち上がっており、前評判はリバプール不利とされていた。

イスタンブールの奇跡

トルコのイスタンブールで行なわれた決勝は、開始1分にピルロのFKをマルディーニにボレーで合わされ早くも失点。39分にはシェフチェンコの折り返しからクレスポの追加点を許し、43分にもカカのスルーパスからクレスポが追加点。リバプールは3点のビハインドを背負って前半を終える。

そのハーフタイム、主将のジェラードが「笑い者になりたくない」と魂のスピーチ。チームに奮起を促すと、後半54分にジェラードのヘディングで1点を返して反撃を開始。その2分後にスミチェルがミドルシュートを決め1点差。60分にはキーパーと1対1になったジェラードがガットゥーゾに倒され、PKを獲得する。

シャビ・アロンソの蹴ったPKは一旦ジダの好セーブに防がれるが、素早く詰めたアロンソがこぼれ球を叩き込んで3-3。リバプールはわずか6分間で試合を振り出しに戻した。

このあとDFギャラガーを中心に、ミランの猛攻を凌いで試合は延長戦に突入。延長では守護神デュデクがシェフチェンコの決定的な2本を止め、勝負はPK戦へと持ち込まれる。

PK戦はデュデクが相手を惑わす動きでミランの3本を阻止し、3-2と制したリバプールが21年ぶり5度目の優勝。「イスタンブールの奇跡」と呼ばれるCL史上最大の逆転劇だった。

主将としてビッグイアーを掲げたジェラードは、勝利者インタビューに答え「こんな夜のあとに、どうしてチームを去ることができるんだ!」と絶叫。かねてから噂された移籍を否定し、生涯リバプールを誓った。

移籍騒動を経て

CL優勝の立役者となったジェラードはUEFA年間最優秀選手賞に選出、リバプールのレジェンドとして認知された。だが「イスタンブールの夜」の6週間後、クラブへチェルシーへの移籍志願を出したことが伝えられる。

実はジェラードを高く評価していたチェルシーのモウリーニョ監督が、断られても諦めることなく3度の熱いラブコール。対してリバプールとは契約問題ですれ違いが起き、感情を爆発させて移籍を希望したのだ。

この話が事実だと分かると、リバプールの街中がショックと怒りで騒然。かつてフーリガンでも知られた過激なサポーターたちがクラブに押しかけて抗議運動を起こし、経営幹部、そしてジェラード本人や家族も身の危険を感じるような騒動へと発展した。

こうした事態にジェラードは移籍志願を撤回、クラブも譲歩の姿勢を見せて契約延長が成立する。この騒動に懲りたジェラードは、以降キャリアの晩年を迎えるまで移籍を口にすることはなかった。

残留を決めた05-06シーズンは、公式戦53試合23ゴールの好成績。FAカップ決勝のウエストハム戦では、2-3とリードされた後半ロスタイム、35mの距離から火を噴くロングシュートで同点。PK戦を制してチームに2度目の優勝をもたらし、初のPFA年間最優秀選手賞を受賞する。06-07シーズンは2季ぶりのCL決勝へ進出するが、ACミランにイスタンブールの雪辱を果されて準優勝に終わった。

07-08シーズンは新戦力のフェルナンド・トーレスが24ゴールと爆発するが、3強の牙城を崩せずリーグ4位。08-09シーズンはトーレスやディルク・カイトとともに躍動し、久しぶりに優勝争いを演じるが、終盤マンUにかわされてリーグ2位。

09-10シーズンは、組み立て役のシャビ・アロンソを放出したことが裏目に出てリーグ7位。6季を務めたベニテス監督はシーズン終了を持って退任し、ここからしばらくリバプールの低迷期が続くことになる。

イングランド代表の停滞

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。各ポジションにタレントを揃えたイングランドは、優勝候補の一角にも数えられていた。ジェラードはG/Lで2ゴールを挙げて決勝トーナメント進出に貢献するが、準々決勝でポルトガルにPK戦で敗れてベスト8敗退。このPK戦では相手キーパーにコースを読まれてシュートを失敗している。

08年のユーロ大会は、クロアチア、ロシアに後れを取って思わぬグループ予選敗退。イングランドは本大会に進むことが出来なかった。

このあと「優勝請負人」の異名をとるファビオ・カペッロ監督のもとで代表チームは立て直し、08年9月から始まったW杯欧州予選では圧倒的強さを見せて突破。10年W杯への期待は高まった。

大会本番が近づいた10年2月、代表キャプテンであるジョン・テリーの不倫疑惑が発覚。チームメイトでもある親友の恋人を寝取ったというスキャンダラスなゴシップは世間を騒がせ、テリーはキャプテンの座を剥奪。W杯本番を直前に新主将のファーディナンドが負傷離脱してしまったため、キャプテンマークはジェラードに託されることになった。

10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕。ゴール欠乏症に陥ってしまったイングランドは、G/Lの3戦でわずか2得点(うち1ゴールはジェラード)を奪っただけ。それでも組み合わせに恵まれ、アメリカに続く2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦の相手はドイツ。2点をリードされた前半の37分、ジェラードのクロスにアップソンが頭で合わせて1点差。その1分後、Pエリア前の混戦からランパードがループシュート。ボールはクロスバーに当たってライン内側に落下するが、素早くフィードしたノイアーのフェイクにレフェリーが騙されてノーゴールの誤審。

これでイングランド反撃の気勢がそがれ、後半は前掛かりになった裏を突かれて1-4の敗戦。前回を下回るベスト16の成績に終わった。大会中、新旧キャプテンのジェラードとテリーは険悪な関係に終始。攻守リーダー2人の反目が敗因のひとつとなった。

痛恨のスリップ事件

13-14シーズン、ルイス・スアレスとスターリッジの2トップによるゴール量産が起爆剤となり、ジェラード獅子奮迅の働きもあってプレミアの上位を快走。第25節で首位アーセナルを破って勢いを加速させると、そこから破竹の11連勝。3試合を残して単独首位に立ち、リバプール念願のプレミア初制覇が目前となった。

勝てばほぼ優勝が決まる大一番となった第36節のチェルシー戦。0-0で迎えた前半のアディショナルタイムに、サコからの横パスをジェラードがコントロールミス。慌ててスリップしたところを、デンバ・バにボールを奪われて痛恨の失点。0-2と大事な一戦を落としてしまった。

続く第37節のクリスタル・パレス戦も、3-0とリードしながら終盤に追いつかれるという失態。キャプテンのミスで失速したリバプールは、猛追をかけてきたマンチェスター・シティー首位をさらわれ、あと一歩で優勝に届かなかった。千載一遇の優勝チャンスを逃したジェラードにとって、悔いても悔やみきれないチェルシー戦のミスとなった。

英雄のセカンドキャリア開始

代表ではユーロ12のベスト8進出に貢献。14年6月には自身3度目となるWカップ・ブラジル大会に出場するが、イングランドは同組のイタリアとともに番狂わせのグループ敗退。ジェラードはウルグアイ戦で2失点に絡むなど不調、代表では奇跡を起こせずに終わった。大会終了後、代表からの引退を表明。14年間の代表歴で114試合に出場、21ゴールを記録した。

リバプールではワンクラブマンを貫くかと思えたが、15年1月にシーズン終了限りでの退団を発表。年齢による衰えで出場機会が減り、活躍の場を求めての決断だった。

それでも17シーズンを過ごしたクラブへの愛情は薄まることなく、「リバプールと戦いたくない」との理由でMLSのロサンゼルス・ギャラクシーに移籍。アメリカで2シーズンをプレーし、16年11月に36歳で現役を引退する。

引退後の17年にはリバプールのアカデミーコーチを務め、18年にはレンジャーズの監督に就任。20-21シーズンはスコティッシュ・リーグを制して監督としての初タイトルを得た。21年11月にはアストン・ヴィラの監督に就任。下位に沈んでいたチームを立て直し、プレミア残留に成功。さっそくその手腕を発揮している。

(追記: 22年10月20日、成績不振によりアストン・ヴィラの監督を解任)

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