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《 サッカー人物伝 》 シャンドール・コチシュ

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「 マジャールのゴールデンヘッド 」 シャンドール・コチシュ ( ハンガリー )

177㎝とそこまで大柄ではないものの、「黄金の頭」と呼ばれるヘディングの強さ、上手さでゴールを量産。フットワークにも長け、両足を操るテクニックとゲームの流れを読むインテリジェンスで攻撃をリード。50年代に無敵を誇ったハンガリー代表の点取り屋としてその名を馳せたのが、シャンドール・コチシュ( Kocsis Péter Sándor )だ。

プスカシュ、ヒデクチ、チボールらとともに、50年代前半のヨーロッパを席巻した「マジック・マジャール」攻撃の中核として活躍。52年のヘルシンキ五輪で、6ゴールを挙げてハンガリー初の金メダル獲得に貢献。大本命とされた54年W杯では、5試合11ゴールの活躍で大会得点王に輝くも、決勝で西ドイツに敗れて世界一の栄冠を逃してしまう。

ハンガリーの名門フレンツバロシュで頭角を現し、優秀な選手が集められた軍隊クラブ「ボンベド」の創設期にも参加。チームメイトとなったプスカシュとは毎年のように得点王を争った。56年のハンガリー動乱で母国を離れ、チボールとともにスペインのバルセロナへ入団。2度のリーグ優勝と国王杯優勝、チャンピオンズカップ準優勝に貢献する。

ブダペストのサッカー少年

シャンドール・コチシュ(コチシュ・ペーテル・シャンドール)は1929年9月21日、当時ハンガリー王国の首都ブダペストに生まれた。

父親はケンフェルトのチームでプレーするサッカー選手だったが、大成しないまま現役を引退し、テレキ広場の夜警の仕事に就いていた。小さい頃のコチシュは、父親の黙認のもとテレキ広場で友達と一日中サッカーをして遊ぶ日々を過ごす。

10歳の時に第二次世界大戦が勃発。クバンヤイTCの下部組織でプレーしていたコチシュは、野外でサッカーするには難しい環境に置かれるが、建物の壁を相手にリバウンドボールを正確に返すヘディング技を磨く。

終戦後の46年、ハンガリーの名門フェレンツバロシュに移籍。16歳6ヶ月でトップチームデビューを果す。この時チームのエースFWとして活躍していたのが、のちにFCバルセロナでもチームメイトとなるラディスラオ・クバラである。

クバラはこのあと父親の故郷であるチェコスロバキアでプレー。48年にはハンガリーに戻るが、共産党独裁体制となった49年に西側へ亡命している。

ボンベドの2大エース

コチシュはクバラがチームを去ったあとヘディングの得意なFWとして頭角を現し、48-49シーズンは30試合33ゴールの活躍でクラブ8年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌49-50シーズンも30試合30ゴールの好成績を残し、ハンガリー屈指の点取り屋として認められるようになった。

49年に共産党政権によるハンガリー共和国が成立すると、古豪キシュペストFCを基板とした陸軍クラブ「ボンベド」が創設される。国内の有力選手を徴兵で集め、ハンガリー代表の集中強化を図る目的でつくられたチームである。

結果ボンベドにはコチシュを始め、フェレンツ・プスカシュ、ゾルタン・チボール、ヨーゼフ・ボジク、ジェラ・グロシチ、ラースロー・ブダイといった代表級選手が集結。50年代前半のリーグタイトルを独占し、黄金期を築いていった。

そしてボンベドの2大エースとして君臨したのが、コチシュとプスカシュ。二人は毎年のように得点王を争い、コチシュは51年、52年、54年の3回、プスカシュは50年、53年と2回(キシュペスト時代を合わせれば4回)のタイトルに輝いている。

ハンガリーの点取り屋

ハンガリー代表には18歳で選出され、48年6月に行なわれたバルカンカップのルーマニア戦でデビュー。さっそく2ゴールを挙げて9-0の勝利に貢献。翌49年11月のスウェーデン戦では初のハットトリックを記録する。

ハンガリー代表を率いるグスタス・セベシュ監督は、選手の役割が固定されていた当時において、一人が複数のポジションをこなす「ソーシャル・フットボール」(トータル・フットボールの原型)を提唱。ボンベドの選手をベースとしながら、MTKブダペストのナンドール・ヒデクチをCFに据えてのWMフォーメーションを採用する。

だが実際はヒデクチが深いポジションに下がってスペースをつくり、左右のコチシュとプスカシュをフリーで走らせチャンスメーク。MMフォーメーションと呼ばれるスタイルが確立された。

それに加えて両ウィングのチボールとブダイ、ハーフのボジク、GKのグロシチと欧州屈指のタレントを揃えて部類の強さを発揮。クラブでも一緒の彼らのコンビネーションは完璧で、その破壊力は対戦相手を震え上がらせた。

50年6月の親善試合でポーランドを5-2と破ると、以降は無敗の快進撃でハンガリーサッカー界初のオリンピックとなる52年ヘルシンキ大会に出場。

1回戦はチボールとコチシュのゴールでルーマニアを2-1と下すと、2回戦もコチシュの得点などでイタリアを3-0と撃破。準々決勝はコチシュとプスカシュがそれぞれ2ゴールを決め、トルコを7-1と粉砕。準決勝もコチシュの2得点により、地元スウェーデンを6-0と圧倒。初出場のハンガリーが驚異の得点力で決勝進出を決めた。

決勝は同じ共産国のユーゴスラビアと対戦。一進一退の攻防が続いた後半70分、プスカシュがドリブルで2人を抜いて先制点。終了間際にもチボールの追加点が生まれ、2-0の勝利。ハンガリーが初の金メダルを獲得する。

決勝でゴールが生まれなかったコチシュは1点差で得点王を逃すものの、チーム最多の6得点を挙げて金メダル獲得に貢献。抜群の強さ、上手さで得点を叩き出す彼の頭は「ゴールデンヘッド(黄金の頭)」、または「クラウドヘッド(雲に届く頭)」と名付けられた。

世紀の試合

ハンガリー代表がさらにその名を轟かせたのが、FA(英国協会)創立90周年を記念して53年11月にウェンブリースタジアムで行なわれた招待試合。対戦相手のイングランド代表はその長い歴史の中で、ホームゲームでは大陸チームに一度たりとも敗戦を喫した(49年に同じFAのアイルランドに1敗しただけ)ことがなかった。

だが試合は序盤からハンガリーが圧倒、美しいまでのボール捌きとパス回しはサッカーの母国を大混乱に陥れた。開始早々の1分にヒデクチのゴールで先制すると、20分にもヒデクチが追加点。このあとプスカシュが立て続けにゴールを決め、前半だけで4得点を記録する。

後半もボジクが追加点を挙げ、最後はヒデクチのハットトリックとなる6点目で仕上げ。イングランドはドリブルの名手、スタンリー・マシューズの奮闘で3点を返すのが精一杯だった。

聖地ウェンブリースタジアムでイングランドの不敗神話が破れたという知らせは世界を激震させ、「世紀の試合」呼ばれた。翌54年5月にイングランドをホームに迎えて行なった親善試合でも、コチシュの2得点などで7-1と返り討ち。ハンガリー代表は「マジック・マジャール(魔法使いのハンガリー人)」の異名で欧州列強に恐れられた。

ワールドカップの激闘

54年6月、Wカップ・スイス大会が開幕。ハンガリーは4年前のポーランド戦から大会直前に行なわれたイングランド戦まで、27戦23勝4分けと無敵の強さ。しかも1試合平均4.5得点という爆発的な攻撃力を誇り、優勝候補の大本命に挙げられていた。

グループリーグはシード2チームがノンシード2チームと対戦する(シード、ノンシード同士は戦わない)という変則的な形で行なわれ、第1戦は初出場の韓国を9-0と一蹴。コチシュはさっそくハットトリックを記録し、プスカシュも2得点を挙げた。

第2戦の相手は西ドイツ。敗戦国の西ドイツは国際大会に復帰したばかりで、ノンシード扱いとされていた。試合はコチシュの4得点などで8-3と圧勝。楽々とベスト8進出を決める。しかし控え選手主体で臨んできた西ドイツは初めからから勝つ気はなく、主将のプスカシュが激しいタックルを受けて足を負傷する。

このあと西ドイツはグループ2位決定戦でトルコを7-2と破りベスト8進出。この大会の決勝トーナメント組み合わせは、各組の1位と2位が別々の山に分けられるという不可解な形式が採られており、西ドイツにとってもくろみ通りの2位突破だった。

怪我のプスカシュを欠いた準々決勝は、前回準優勝のブラジルと対戦。「ベルンの戦闘」と呼ばれる大荒れの内容(乱闘とラフプレーで3人が退場)となったが、2ゴールのほかコチシュが全得点に絡む活躍で4-2の勝利。苦しみながらも準決勝に進んだ。

準決勝の相手は前回王者のウルグアイ、負傷の癒えないプスカシュはまたも欠場となった。ハンガリーはチボールとヒデクチの得点で前半を2-0とリードするが、終盤にスキアフィーノのスルーパスで2失点を喫して追いつかれてしまう。

試合は延長戦に突入。その後半の111分、ウルグアイDFのアンドラーデ(ホセ・アンドラーデの甥)が治療のためピッチを離れた隙に、コチシュが得意のヘッドで勝ち越し弾。終了間際にもコチシュがヘディングによる追加点を決め、4-2の勝利。ハンガリーは今大会ベストゲームを制し、無敗記録を31試合までに伸ばした。

雨中の決勝戦

決勝の西ドイツ戦は雨のベルンで行なわれた。主将のプスカシュが完治しないまま戦列に復帰、疲労の色が濃いブダイが代わりにラインナップを外れた。ユーゴスラビア戦を2-0、オーストリア戦を6-1と楽に勝ち上がってきた西ドイツに対し、南米2強豪との激戦を経たハンガリーの消耗は明らかだった。

それでも開始6分、コチシュのシュートの跳ね返りをプスカシュが押し込んでハンガリーが先制。その2分後には相手のミスを突いたチボールが追加点を挙げ、早くも2点をリード。この時点で観客の誰もがハンガリーの優勝を予想した。

だが直後の11分に1点を返され、18分にはフリッツ・バルターのCKからヘルムート・ラーンのシュートを浴びて失点。23分にはコチシュが完璧に捉えたヘッドでゴールを襲うが、相手キーパーのビッグセーブに阻まれ、2-2の同点で前半を折り返す。

後半にハンガリーは猛攻を仕掛けるも、再三のチャンスを決められずに時間は過ぎていった。すると雨で滑りやすくなったピッチに、ハンガリーのパフォーマンスは次第に低下。一方の西ドイツはアディダス製スパイクのスタッドを長いものに交換し、万全の雨対策でプレーを続けた。

試合終盤の84分、再びラーンがグロシチの右を豪快に抜いて西ドイツが逆転。その2分後、スルーパスに反応したプスカシュが倒れ込みながらネットを揺らすも、オフサイド判定によりノーゴール。終了直前にもチボールが強烈なシュートを放つが、キーパーに止められそのまま試合は終了。無敗記録がストップするとともにW杯優勝の栄冠を逃してしまう。

コチシュは5試合11ゴールの活躍で大会得点王に輝くも、肝心の決勝戦で得点を挙げることが出来ず、悔しさの残る準優勝となった。

マジック・マジャールの終焉

大事な一戦こそ落としてしまったが、その後も「マジック・マジャール」の快進撃は止まらなかった。54年9月のルーマニア戦から再び連勝を始め、56年2月のトルコ戦で敗れるまで18戦15勝3分けの強さ。58年スウェーデンW杯での雪辱に期待が高まった。

だがスターリンの死去(53年)以降、抑圧からの解放を求める全国規模の反体制運動が起こり、56年の秋にハンガリー政府の要請でソ連軍が介入。ソ連軍はブダペストの街中に戦車を走らせ、デモ行進する市民や学生を鎮圧。数百人の死者を出した「ハンガリー動乱」が勃発する。

このとき、コチシュらがプレーするボンベドはチャンピオンズカップ出場のためスペイン遠征中だったが、祖国の混乱により帰国を延期。南欧各地で親善試合を行なって事態の推移を見守った。

このあとフラミンゴからのオファーを受け、ハンガリー協会の許可を得ないままブラジルツアーを敢行。選手たちがヨーロッパに戻ると、制裁を恐れて西側への亡命を希望するコチシュ、プスカシュ、チボールらがチームを離脱(ボジグ、ブダイ、グロシチは帰国)する。こうして「マジック・マジャール」は解体した。

コチシュは9年間の代表歴で68試合に出場、キャップ数を上回る75ゴールという驚異的な記録を残している。

バルセロナの亡命者

亡命後は後援者の助けでスイスに滞在、この間あれこれ手を尽くしてブダペストに残した妻子を自分の元に呼び寄せた。だがハンガリー政府の申し立てによりFIFAからプレーを禁じられ、コチシュは鬱々とした毎日を送る。

58年にようやく恩赦が出されて制裁解除、スイスのヤング・フェローズでプレーする。そんな彼の元を訪れてきたのが、フェレンツバロシュ時代のチームメイトで亡命者の先輩であるラディスラオ・クバラだった。

FCバルセロナの主力として活躍するクバラは、昔なじみの仲間を自分のチームに勧誘。コチシュはフェレンツバロシュの同僚だったチボールとともに、スペインの名門クラブに加わることになった。

移籍1年目の58-59シーズン、リーガデビューとなったベティス戦で初ゴールを記録。レギュラー定着とはならなかったが、バルサ6季ぶりのリーグ優勝に貢献。コパ・デル・レイ(国王杯)決勝のグラナダ戦では2得点を挙げ、2冠獲得の殊勲者となった。

2度目の「ベルンの悲劇」

59-60シーズンもリーグ連覇とフェアーズカップ優勝の2冠に貢献。チャンピオンズカップでは初の準決勝に進むも、ライバルのレアル・マドリードに完敗。大会ベスト4に終わった。

当時のレアルはディ・ステファノ、プスカシュ、レイモン・コパフランシスコ・ヘントらのスター選手を擁し、55年から始まったチャンピオンズカップを無敵の5連覇中。バルサはライバル打倒を悲願とした。

翌60-61シーズンのチャンピオンズカップでは、決勝ステージの1回戦で早くもレアルと対戦。アウェーでの第1戦はルイス・スアレスの2ゴールで2-2の引き分け。カンプノウの第2戦で2-1と歴史的勝利。レアルの6連覇を阻止する。

準々決勝ではスパルタ・デ・プラガ(チェコ)を難なく下し、準決勝ではコチシュが得点を挙げてハンブルグSV(西ドイツ)を撃破。ついに初の決勝へ進む。

ベルンで行なわれた決勝は、ポルトガルの名門ベンフィカ・リスボンとの対戦。前半21分、コチシュのゴールが決まりバルサが先制。しかし31分に追いつかれると、直後の32分にはDFのオウンゴールで逆転を許す。

後半の55分に3点目を決められるも、75分にチボールのゴールで1点差。だがこの日のバルサはシュートが4度もポストを叩くなど、運に見放されて2-3の敗戦。バルサの初優勝は29年後のクライフ監督時代までお預けとなる。得点を挙げたコチシュとチボールは2度目の「ベルンの悲劇」に泣くことになった。

悲劇の結末

63年コパ・デル・レイ決勝のサラゴサ戦では、再びゴールを挙げて自身2度目のカップタイトルを獲得。バルセロナでは7シーズンを過ごし、66年に37歳で現役を引退した。

引退後はバルサのコーチを務めながらレストランを経営。72年からは2部リーグに所属するヘラクレスCFの監督に就任する。

ヘラクレスで優勝争いを演じていた74年のある日、朝の準備中にヒゲ剃り用洗面台が壊れて足元に落下。深刻な打撲を負ってしまった。だが生来の病院嫌いだったコチシュは医者に頼らず、自然治癒を待つも、黒ずみが広がるなど患部は悪化するばかり。

たまらず病院で検査を受けると、血行障害による壊死えしとの診断結果。片足の切断を余儀なくされる。若い頃からのヘビースモーカーがたたり、動脈硬化を発症させていたのだ。

さらに胃ガンも見つかり、ストレスの溜まる病院に閉じ込められたコチシュは悲嘆に暮れる日々。精神的なやまいも患ってしまう。精神安定のため一時退院を許されるも、療養先のホテルで自殺を図って止められるという騒動を起こし、再び病院へ戻される。

79年7月22日、入院しているバルセロナ市内の病院で、4階から転落死しているコチシュの姿が発見された。誤ってテラスから落ちたとも、自ら飛び降りたとも言われている。享年49歳だった。

彼の亡骸なきがらはスペインで葬られたあと、2012年に祖国ハンガリーのブダペストへ帰郷。今はセント・シュテファン大聖堂の地下室で安らかに眠っている。

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