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《 サッカー人物伝 》アデミール・デ・メネゼス

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「 マラカナッソに泣いた得点王 」 アデミール・デ・メネゼス ( ブラジル )

素早い動きのドリブルと爆発的な加速で、相手守備を大混乱に陥れたブラジルのストライカー。飛び抜けた身体能力、電光石火のスピード、高いテクニック、両足による力強いシュートを持ち合わせ、「すべてを備える選手」と言われたのが、アデミール・デ・メネゼス( Ademir Marques de Menezes )だ。

スポルチ・レシフェで頭角を現し、その後移籍したヴァスコ・ダ・ガマでは「ヴィクトリー・エクスプレス」と呼ばれたチームの中心となり、リオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝4回と南米チャンピオン選手権制覇に貢献。2度のリオ州選手権得点王にも輝く。途中2年間在籍したフルミネンセでも、リオ州選手権優勝のタイトルを得ている。

ブラジル代表としては4度の南米選手権に出場。49年大会ではMVPの活躍で優勝に貢献し、南米年間最優秀選手賞に選出。翌50年に開催された自国開催のW杯では、6試合で9得点を挙げて大会得点王。しかし事実上の決勝戦となったウルグアイとの最終戦で不覚の逆転負けを喫し、「マラカナッソ(マラカナンの悲劇)」に泣いた。

「ビクトリー・エクスプレス」のストライカー

アデミールは1922年11月8日、ブラジル北東部に位置するベルナンブーコ州の州都であるレシフェで、商人として働く両親の間に生まれた。

小さい頃からビーチサッカーに親しみ、少し大きくなるとストリートサッカーで才能を発揮。体の強さ、スピード、両足を使える能力で一目置かれるようになり、15歳のときにスポルチ・レシフェのユースチームに入団する。

またサッカーだけではなく水泳や短距離でも目覚ましい成績を残すほか、歯科医を目指して勉学に励むなど、文武両道の少年時代を過ごした。

レシフェユースではキャプテンを務め、38年のベルナンブーコ州ユース選手権で優勝。アデミールはその大きなアゴから「ケイシャダ」のニックネームで呼ばれるようになる。ちなみに「ケイシャダ」とは、四角いアゴを特徴とするヘソイノシシ(ペッカリー)のことである。

39年には16歳でトップチーム昇格、ベルナンブーコ州選手権のトラムウェイズ戦でプロデビューを飾る。2年間は交代要員としての下積み時代を送るが、18歳となった41年にブレイク。この年レシフェは12試合11勝1分けと無敵の強さを見せ、同州選手権で優勝。アデミールはプロ初のハットトリックを記録するなど、11ゴールを挙げて選手権得点王。優勝に大きく貢献した。

優勝後レシフェは南部への遠征を行ない、リオ・デ・ジャネイロの強豪チームと対戦。アデミールはフラメンゴ戦で3ゴールを決め、ヴァスコ・ダ・ガマとの試合でも3ゴール1アシストの大暴れ。その活躍は名門クラブの注目を引くことになる。

翌42年シーズン、レシフェで2試合に出場したあと、ヴァスコ・ダ・ガマに引き抜かれて移籍。デビュー戦となったアメリカRJとの伝統の一戦「クラシコ・ダ・パス」では、得意のドリブルとスピードで攻撃をリードするだけでなく、相手マークを引きつける動きで2-1の勝利に貢献。若きストライカーはプレーの幅広さを見せつけた。

だがアデミールの活躍にも関わらず、ヴァスコ・ダ・ガマはタイトルに届かないシーズンが続いた。それでも徐々に戦力を整え、44年にはライトニングトーナメント(リオ州選抜大会)とリオ市トーナメントのタイトルを獲得。45年には18戦13勝5分けと無敗の成績を残し、9季ぶりとなるカリオカ(リオ州)選手権優勝を果す。

エースのアデミールを始め、FWレレ、MFジャイール、エリー、ジャルマ、ウィングのチコ、GKバルボーザらのタレントを揃えたチームは「ビクトリー・エクスプレス(エクスプレッソ・ダ・ヴィトーリア)」と呼ばれるようになり、40年代後半から50年代初めの黄金期を築いていく。

フルミネンセの優勝請負人

46年、当時最高金額となる20万クルゼイロの移籍金が支払われ、ヴァスコ・ダ・ガマのエースは同じリオ州の強豪フルミネンセに加入する。フルミネンセの監督ジェンティル・カルドーソが、「チャンピオンになりたいのなら、アデミールが必要だ」とクラブに訴えての移籍実現だった。

カルドーソからの誘いにより優勝を請け負ったアデミールは、新チームでも23試合24ゴールと大活躍。最後の大一番となったボタフォゴ戦でもゴールを挙げて1-0の勝利、チームを5季ぶりとなるカリオカ選手権制覇に導く。試合後アデミールは指揮官に歩み寄り、「あなたとの約束を果した」とひと言。カルドーソ監督を感涙させた。

翌47年シーズンも16ゴールと安定した成績を残すが、選手権タイトルはヴァスコ・ダ・ガマに奪い返されてしまう。シーズン終了後、古巣チームから復帰を促すアプローチ。ヴァスコへの愛着を失っていなかったアデミールは、古巣へ戻ることを決意する。

第1回南米チャンピオン選手権優勝

ヴァスコへの復帰を果した48年、チリで開かれた第1回南米チャンピオン選手権(コパ・リベルタドーレスの前身)に出場。大会は南米7ヶ国のチャンピオンチームによる総当たり形式で行なわれた。そして3月14日の第5戦では、首位に立つヴァスコ・ダ・ガマと1差で追うリーベル・プレートが南米クラブチャンピオンを懸けて戦う。

当時のリーベルは天才と謳われたディ・ステファノホセ・モレノらを擁し、アルゼンチンで「ラ・マキナ」の猛威をふるっていた最強チーム。一方のヴァスコも「ビクトリー・エクスプレス」と呼ばれた黄金期の真っ只中にあり、両者互角の勝負を繰り広げて0-0の引き分け。このあとヴァスコが4勝2分けと無敗の成績で第1回チャンピオンに輝く。

「ビクトリー・エクスプレス」の大黒柱として円熟味を増したアデミールは、49年に31ゴール、50年に25ゴールを挙げて2季連続の選手権得点王。カリオカ選手権2連覇の立役者となった。これらの活躍でサポーターからは「リオの王」と称えられる。

新興ブラジルの躍進

ブラジル代表には、45年1月にチリで行なわれた南米選手権のコロンビア戦でデビュー。4日後のボリビア戦で代表初ゴールを記録する。大会は出場7ヶ国による総当たり戦で行なわれ、ブラジルは優勝したアルゼンチンに1ポイント及ばず2位。初出場ながら5ゴールを決めたアデミールは、セレソンのエースに名乗りを上げた。

当時(40年代)の南米は、リーベル・プレートの「ラ・マキナ」をベースとしたアルゼンチン代表の全盛時代。45年から47年までの南米選手権3連覇を果す。対するブラジルは、他国に先駆けアフリカ系選手を積極的に登用し、近年ようやく力を伸ばしてきた新興勢力。この時点ではアルゼンチンとウルグアイによる南米2強の後塵を拝していた。

49年4月、ブラジル開催の南米選手権が開催。だが大会3連覇中のアルゼンチンが開催地にやってくることはなかった。実は46年南米選手権(アルゼンチン開催)でのブラジル対アルゼンチン戦で、両チーム入り乱れての大乱闘が発生。双方非難の応酬から両協会の関係が悪化し、ブラジルは47年の南米選手権(エクアドル開催)を棄権。今回はアルゼンチンが大会を棄権したのだ。

大会は出場8ヶ国による総当たり戦で行なわれ、アデミールを中心としたセレソンの攻撃陣は7試合39得点と大爆発。ブラジルが圧倒的強さで27年ぶり3度目の南米選手権優勝を果す。

アデミールは得点王となったチームメートのジャイール(9ゴール)に次ぐ7ゴールを挙げ、チャンスメイクでも勝利を呼び込む大活躍。大会MVPに選ばれるとともに、クラブでの貢献と合わせて南米年間最優秀選手賞に輝く。

この翌年には、戦争で12年間中断していたワールドカップが自国ブラジルで開催されることになっており、国民の初優勝への期待は否が応にも高まっていった。

W杯初優勝への戦い

この時セレソンを率いていたのは、ヴァスコ・ダ・ガマの指揮官も兼ねるフラビオ・コスタ監督。コスタ監督はアデミール、チコ、フリアサ、ダニーロ、アウグスト、バルボーザらヴァスコの選手をベースにブラジル代表を編成。4ヶ月に及ぶ強化合宿やテストマッチを重ねてW杯本番に備えた。

50年4月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。こけら落としとなったマラカナン・スタジアム(リオ市)に8万2千の観客を集め、地元ブラジル対メキシコの1次リーグ開幕戦が行なわれた。

試合は開始30分にアデミールが先制点。これで緊張していたブラジルの硬さがとれ、後半の65分にはジャイールが追加点。71分にはフリアサのCKから3点目が生まれ、最後はジャイールのクロスを受けたアデミールが鮮やかなループシュートで4点目。開幕戦を4-0の快勝で飾る。

サンパウロでの第2戦はスイスの善戦に苦しみ、終了直前に追いつかれて2-2の引き分け。この時点で2戦2勝のユーゴスラビアが1次リーグ首位に立った。決勝リーグに進めるのは1チームだけで、ブラジルはグループ最終戦での勝利が必須となった。

マラカナンに戻って行なわれたユーゴスラビア戦は、開始4分にジジーニョのパスを受けたアデミールが先制弾。後半69分にはジジーニョが追加点を決め、ブラジルが2-0の勝利。開催国は無事決勝リーグへ進出した。

決勝リーグを戦うのはブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペインの4ヶ国。日程と会場は開催国に任されたため、ブラジルの3試合はすべてマラカナン・スタジアムで開催。第1回W杯王者であるウルグアイとの試合は最終戦に回された。

決勝リーグの初戦はスウェーデンと対戦。開始17分にアデミールがゴールを決めると、続けて36分にも2点目。その3分後にはチコが3点目を挙げ、3-0のリードで前半を折り返す。

後半の52分にはアデミールがハットトリックを記録。6分後にはジャイールからのスルーパスにより4点目。67分にPKで1点を返されるも、そのあとブラジルが2点を追加して7-1の圧勝。力の違いを見せつけた。

第2戦の相手はスペイン。前半15分にアデミールが3試合連続の先制ゴール、21分にはジャイールが追加点を決める。このあとチコが続けて2得点。57分にはジジーニョのクロスからアデミールがこの日2点目。67分、今度はアデミールのクロスからジジーニョが2点目。71分にスペインの得点を許すも、またも6-1の大勝を収める。

この時点で決勝リーグ2戦2勝のブラジルが首位、1勝1分けのウルグアイが2位となった。これでブラジルが最終戦で引き分けても初優勝という優勢に立ち、国民の誰もが母国の栄冠を信じて疑わなかった。

悪夢の逆転負け

事実上の決勝となるウルグアイ戦は、舞台のマラカナン・スタジアムに20万人余りもの観客を詰め込んで開始された。観客の大声援を受けたブラジルは序盤から攻撃を仕掛けるも、ウルグアイは主将オブドゥリオ・バレラを中心とした固い守りとで対抗。21分にアデミールの放った強烈なヘディングシュートも、ウルグアイ守護神マスポリの好セーブに阻まれ前半を0-0で折り返す。

後半開始直後の47分、中盤でボールを奪ったジジーニョが右サイドのアデミールへ展開。アデミールは持ち前のスピードでDFを置き去りにし、スペースへ抜け出したフリアサにラストパス。マスポリの手をかすめてブラジルの先制点が決まる。

この瞬間、観衆で埋め尽くされたスタジアムは一気にヒートアップ。セレソンたちはその熱狂に押され、さらに攻勢を強めていった。だがそのことが守備の隙間を生み、機を見たバレラの仕掛けから右サイドのギッジャがドリブル突破。そこからのクロスをスキアフィーノに叩き込まれ、1-1と追いつかれてしまう。

このまま引き分けてもブラジルの優勝だったが、冷静さを失ったセレソンは勝ち越しを目指しての攻撃を続行。その79分、またもギッジャが右サイドを突破。ギッジャはスキアフィーノにクロスを入れるかと見せかけて意表を突くシュート。GKバルボーザの脇下を抜く逆転ゴールが決まり、一瞬スタンドは静寂に包まれた。

このあとブラジルは必死の反撃を試みるも、ウルグアイの堅い守りを崩せず1-2の敗戦。悪夢の結果にスタジアムは混乱に陥り、多くの負傷者や気絶者を出す始末。試合後に予定されていたセレモニーも中止となってしまう。

大会9得点を挙げるも優勝を逃してしまったアデミールは、「自分の人生で最大の悲しみだ」と傷心のコメント。W杯得点王は「マラカナッソ」に泣くことになった。そしてリオの自宅に戻ると、世間の喧騒を避けるべく、妻とともに目的地のない旅に出かけていった。

「マラカナッソ」後のアデミール

51年4月、アデミール率いるヴァスコは、ウルグアイの首都モンテビデオで同地の名門CAペニャロールと親善試合を行なった。ペニャロールにはW杯で戦ったバレラ、スキアフィーノ、ギッジャ、マスポリらの選手がおり、ウルグアイ代表の中核を担ったチームだった。

好調のアデミールは得意のドリブルでバレラを翻弄、マスポリが一歩も動けない強烈なゴールを叩き込む。「リベンジマッチ」と言われた一戦は、アデミールの活躍で3-0の勝利。多少の溜飲を下げた。

W杯後初めてブラジルがウルグアイと対戦したのは、52年4月のパン・アメリカン(中南米6ヶ国選抜)大会でのこと。「マラカナッソ」の衝撃は大きく、この1年9ヶ月の間、ブラジルは全く代表戦を行なっていなかった。試合はブラジルが4-2と勝利し、大会の優勝も果す。

53年3月にはペルー開催の南米選手権に出場。大会はアルゼンチンとコロンビアが棄権し、8ヶ国による総当たり戦で行なわれた。ブラジルは第3戦でウルグアイとまみえ、1-0の勝利。だがこのあと首位で並ぶパラグアイに破れてしまい、準優勝に終わった。

ヴァスコでの51年シーズンは、リオ・サンパウロ大会で9ゴールを挙げて得点王と優勝のタイトルを獲得。52年シーズンは13ゴールを挙げ、2年ぶりのカリオカ選手権優勝に貢献する。

しかし53年に脚の打撲と膝半月板損傷のケガを負い、数ヶ月間のリハビリ生活。エースの離脱とともにチーム成績も下降線をたどっていった。

アデミールは54年W杯の出場を目指して懸命のトレーニングに励むも、かつてのパフォーマンスを取り戻せずに出場を断念。W杯初優勝へのチャレンジを諦めざるを得なかった。

ヴァスコでの出場機会も少なくなり、57年には古巣のスポルチ・レシフェへ復帰。だが1試合に出場したのみで、同年3月に36歳で現役を引退する。プロ生活の19年で600以上の試合に出場し、430ゴールを記録。実質7年間の代表歴では39試合に出場、32ゴールを挙げた。

引退後の67年にヴァスコのコーチを務めるも、1年足らずで退任。そのあとはビジネスに関わりながら、解説者やスポーツコラムニストとして活動した。

96年5月11日、骨髄癌の合併症によりリオ市内の病院で死去。享年73歳だった。

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