「 ウェールズの優しい巨人 」 ジョン・チャールズ ( ウェールズ )
屈強な巨体に並外れた運動能力を備え、速さ、テクニックにも優れたセンターフォワード。生まれながらのポテンシャルを発揮し、50~60年代の英国やイタリアで活躍。多くのゴールを記録するなど抜群の実績を残し、ウェールズ史上に残る名選手と言われたのが、ジョン・チャールズ( John William Charles )だ。
センターバックからFWへ転向してその才能を開花。57年に移籍したユベントスでは、28ゴールを挙げていきなりの得点王。3度のスクデット獲得と2度のコパ・イアタリア優勝に貢献するなど、イタリアで成功を収めた数少ない英国人選手となった。また紳士的なプレーでサポーターから「優しい巨人」と呼ばれ、長く敬愛された。
ウェールズ代表ではディフェンダーとしてもプレー。58年には同国初となるW杯スウェーデン大会に出場し、チームの中心選手としてベスト8進出に貢献する。しかし準々決勝のブラジル戦は負傷により欠場。大黒柱を欠いたウェールズは、セレソンに現れた新星ペレのゴールで0-1と惜敗した。
ジョン・チャールズは1931年12月27日、ウェールズ南部に位置する港湾都市・スウォンジーのクンバラ地区に生まれた。父親は建設現場で働き、暮らしは決して豊かではなかったが、5人兄弟(男3女2)の長男としてたくましく成長する。
勉強が得意ではなかったチャールズは、学校での授業時間を居眠りに費やすなど、サッカーひと筋の毎日。4歳下の弟メル・チャールズとともにプロ選手を目指した。
そして14歳でスウォンジー・シティーのセレクションを受け、下部組織に入団。クラブでテラスの塗装、雑草除去、シューズ管理など様々な雑用をこなしながら、トレーニングに励んだ。
だがスウォンジーでは弱年者のチャールズに出場の機会を与えられることなく、17歳となった48年9月にはリーズ・ユナイテッドのスカウトに誘われ、フットボールリーグ2部に所属する同クラブのリーザーブチームに加入。
リザーブリーグでは右SB、センターハーフ、左サイドハーフなどのポジションで起用され、49年4月のブラックバーン・ローヴァーズ戦でトップチームデビュー。センターバックを務めて高い評価を受けた。
その後2年間の兵役(英国陸軍・第12王立騎兵連隊)を経て、188㎝の長身は屈強なボディーへと変貌。陸軍クラブではアーミーカップも経験してプレーの幅が広がった。すると彼のオールラウンドな能力に目を付けたバックリー監督により、CFへコンバートされる。
FWへ転向した52-53シーズン、40試合で26ゴールを挙げてストライカーとしての才能を開花。高さ、強さ、速さ、テクニックを兼ね備え、両足による強烈なシュートで次々とゴールを奪った。翌53-54シーズンには、39試合42ゴールという驚異の得点力を発揮。これはフットボールリーグ2部での歴代最多得点記録となった。
54-55シーズンは両膝軟骨修復の手術を受けて11ゴールにとどまるも、主将に就任した55-56シーズンは29ゴールを挙げて復活。チャールズの活躍でリーズはリーグ2位を確保し、10季ぶりとなる1部リーグ昇格を果す。
56-57シーズン、40試合で38ゴールを挙げて1部リーグ得点王。トップスコアラーとしての実力を証明した。昇格したばかりのリーズをリーグ8位に押し上げたチャールズの影響力は大きく、マスコミからは「チャールズ・ユナイテッド」と呼ばれた。
その活躍により、57年8月にはイタリアの名門ユベントスと契約。リーズには当時の英国最高額となる6万5千ポンドの移籍金が支払われている。
ウェールズ代表(通称ドラゴンズ)には、50年3月に行なわれたブリティッシュ選手権(英国4協会による世界最古の対抗戦)の北アイルランド戦で、センターハーフとして初キャップを刻む。18歳71日での代表デビューは、41年後にライアン・ギグスに破られるまで(17歳11ヶ月)同国の最年少記録だった。
そしてFWに転向した53年4月のブリティッシュ選手権・北アイルランド戦で初得点を記録。2ゴールを挙げて3-2の勝利に貢献する。同年10月からはW杯予選を兼ねたブリティッシュ選手権にも参加。チャールズはチーム最多の3得点を挙げて気を吐くが、ウェールズは1分け2敗の最下位に沈んだ。
毎年行なわれるブリティッシュ選手権では、イングランドとスコットランド2強の壁に跳ね返され、常に北アイルランドとの3位、4位争い。当時はFA(英国協会)の上位2チームまでにしかW杯出場権が与えられず、ウェールズは弱小の悲哀を味わい続ける。
しかし57年5月から始まったW杯予選では、初めて英国4協会が別々のグループに振り分けられることになり、ようやく悲願のW杯初出場へ挑む機会を得た。
欧州予選グループ4に入ったウェールズが戦うのは、東ドイツとチェコスロバキアの東欧2ヶ国。1位チームのみに本大会出場権が与えられることになっていた。
初戦はホームでチェコに1-0と勝利するも、敵地で行なわれた第2戦は東ドイツに1-2の敗戦。ウェールズ協会に資金がなかったため、アウェー遠征に参加できたのは12名のみだった。頼みのチャールズはクラブ事情により遅れて合流し、6日後にプラハで行なわれたチェコ戦も0-2の完敗。ウェールズはピンチに陥る。
ホームの最終戦では東ドイツを4-1と下すが、3勝1敗のチェコに及ばずグループ2位。またもW杯出場の道は断たれたかに思えた。
だが同時期に行なわれていたアフリカ・アジア(CAF/AFC)予選で、イスラエルとの対戦を組まれたトルコ、インドネシア、エジプト、スーダンといった国が、国内事情や政治的理由により次々と棄権。イスラエルが戦わずしてCAF/AFCの代表(出場枠1)となっていた。
しかし戦わずしてのW杯出場はFIFAから問題視され、南米予選で惜敗したウルグアイとのプレーオフが検討されるが、今度はウルグアイがこれを拒否。そこで欧州予選グループ2位となった国で抽選が行なわれ、ウェールズとイスラエルのプレーオフが決定。“ドラゴンズ” に思わぬチャンスが巡ってきた。
ホーム&アウェーで行なわれた大陸間プレーオフは、2試合ともチャールズが得点を挙げてイスラエルに連勝。ウェールズが悲願のW杯初出場を決めた。さらに北アイルランドも予選を突破し、史上初めて(現在でも唯一)英国4協会がW杯本番で顔を揃えることになった。
58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。チャールズは代表のフルバックである弟のメルとともに初の大舞台に臨んだ。
G/Lの初戦は前回準優勝のハンガリーと対戦。開始5分、「マジック・マジャール」の生き残りであるヨゼフ・ボジグのゴールでリードを許すも、27分にチャールズが同点弾。このまま1-1と引き分けて勝点を得た。
続く第2戦もメキシコと1-1の引き分け。最終節は開催国スウェーデンと試合を行い、グループ突破を決めて主力を温存した相手とスコアレスドロー。3引き分けとなったウェールズは、1勝1敗1分けのハンガリーと勝点3の2位で並んだ。
当時の勝利ポイントは2。得失点差でもハンガリーが上回っており、現在のルールならウェールズが敗退となるところだが、当大会の取り決めにより順位決定戦が行なわれることになった。
プレーオフではハンガリーに先制を奪われるも、後半55分にオールチャーチのゴールで同点。76分にはメドウィンが逆転弾を決め、2-1の勝利。2位となったウェールズは初出場でベスト8に進んだ。だが標的にされハンガリーに削られ続けたチャールズは、終了の笛が吹かれたときには満身創痍で立っていられない状態。深刻なダメージを負って次戦の欠場を強いられた。
準々決勝は初優勝を狙うブラジルとの戦い。大黒柱を欠くウェールズは、守りを固めてブラジルの攻撃陣に対抗。変幻自在のドリブルでソ連を翻弄したガリンシャも、屈強なDFによるハードマークで封じた。
だが後半の65分、Pエリアでパスを受けたペレが、相手DFを背にしながらボールを浮かしての反転シュート。ウェールズの堅守が破られた。このゴールは、まだ17歳だったペレのW杯初得点。サッカー界の新時代到来を告げるものとなった。
そのまま試合は終了し、小国ウェールズは健闘虚しく0-1の敗戦。“ドラゴンズ” を率いたマーフィー監督は、「チャールズさえいれば、結果が変わっていたかもしれない」と試合後に語っている。
ユベントスに移籍した57-58シーズン、チャールズはチームの象徴ジャンピエロ・ボニペルティ、同じく新加入のアルゼンチン選手オマール・シボリと「魔法のトリオ」を組み、さっそく32試合で28ゴールを挙げてセリエA得点王。6季ぶりとなるスクデット獲得の立役者となった。
58-59シーズンは30試合19ゴールに留まるも、コッパ・イタリアでは4試合5ゴールの活躍で17年ぶり3度目の優勝に貢献。59-60シーズンはシボリに続く公式戦29ゴール(シボリは32ゴール)を挙げ、セリエA優勝とコッパ・イタリア制覇の2冠に大きな役割を果す。
60-61シーズンも、シボリとのコンビで16ゴール(シボリは28ゴール)を決めてセリエA2連覇。ユベントスの黄金期をシボリとともに支えた。
チームリーダーのボニペルティは、チャールズを「今まで出会った中で一番誠実な人物。ピッチにいるだけでチームを結束させる特別な存在」と称賛。イタリアの言葉や文化を理解しようとする積極的な姿勢と、他人を惹きつける人柄でユベントスに地位を築き、「イル・レ・ジョン(キング・ジョン)」の異名で呼ばれる。
またその迫力ある巨体とは裏腹に、ピッチでの振る舞いは英国紳士そのもの。いかなる場面でも冷静さを保ち、故意にファールを犯すこともなかった。そのためゲームでは一度も警告や退場処分を受けたことがなく、誰もから敬愛され「イル・ブオン・ジガンテ(優しい巨人)」のニックネームで親しまれた。
だがそんなチャールズが一度だけ手を振り上げたのが、ホームでのサンプドリアとの試合。悪質なファールを仕掛けたシボリが、主審により退場処分。すると気性の激しいシボリが激高し、判定に不服を唱えて審判に詰め寄った。
チャールズは興奮収まらないシボリを呼び寄せ、その頬に平手打ち。彼をリスペクトしていたアルゼンチン選手は驚きながらも冷静さを取り戻し、大人しくピッチから退いていったのだった。
イタリアでは5年を過ごし、帰国を望んだ妻の願いを聞き入れてユベントスとの契約を終了。62年の夏に古巣リーズへ復帰する。
ユベントスでの5シーズンで公式戦155試合で108ゴールを記録。のち1997年にクラブ創立100周年を記念して行なわれたアンケートでは、プラティニを押しのけて最優秀外国人選手に選ばれるほどイタリア人に愛されたプレーヤーだった。
世界的スターとなっていたチャールズは復帰した古巣で大歓迎を受けるも、わずか11試合に出場しただけで退団。ユベントスの洗練された組織戦術が染みこんでおり、旧態依然たる英国式フットボールに適応出来なかったのだ。
そのあとイタリアのローマと契約を結ぶが、かつてのパフォーマンスを取り戻すことなく、半年余りの在籍に終わった。
63-64シーズンはフットボールリーグ2部に所属するウェールズのカーディフに移籍。ここで過ごした3シーズンで主にCBを務めた。66年には35歳でプロとしてのキャリアを終えるが、以降もサザンリーグ(セミプロリーグ)で各チームを指導しながらプレーを続ける。そして故郷スウォンジーでの監督兼プレーヤーを最後とし、76年に45歳で選手としての活動を終了した。
代表ではスウェーデンW杯後に目立った活躍を見せることなく、65年6月のW杯欧州予選・ソ連戦を最後に引退する。“ドラゴンズ” の16年間で38試合に出場、15ゴールの記録を残した。代表での実績が物足りないのは、キャリアのピークを迎えたユベントス時代に、クラブから代表活動を制限されたためと言われている。
ちなみに弟のメル・チャールズも、ディフェンダー兼FWとして代表で8年間活動。31試合6ゴールの記録を残している。
ウェールズ代表はチャールズ以降もイアン・ラッシュ、マーク・ヒューズ、ライアン・ギグスらの名選手を輩出するが、W杯予選を突破できず、長らく58年のスウェーデン大会が唯一のW杯出場となっていた。
それでも2016年にはガレス・ベイルを擁してユーロ本大会に初出場、ベスト4入りの快挙を果す。そして2022年6月5日、ウェールズがウクライナとのプレーオフを制し、64年ぶり2度目となるW杯出場を決めた。
サッカーの現場から退いたあとはレストランやパブなどの飲食事業に乗り出すも、ビジネスの才能に恵まれず散財。82年には不倫が原因で30年間近く連れ添った妻とも離婚し、多額の慰謝料を払うことになった。
カーディフでのスポーツショップ経営も上手くいかず、無理矢理続けて税金を滞納。危うく刑務所行きとなるところだったが、リーズ会長の援助を受けて難を逃れた。88年に新しいパートナー、グレンダと再婚したとき、チャールズは無一文だったと言われる。
93年にヘビースモーカーが災いして心臓発作を起こし、97年には膀胱癌を患って入院。さらにアルツハイマー病にもなってしまう。それでもチャールズは常に朗らかさを忘れず、妻グレンダを伴ってリーズ、ユベントス、ウェールズ代表の試合を追いかけ観戦。どの会場でも温かく歓待されたという。
04年1月、ミラノのテレビ局でインタビューを受ける直前、腹部大動脈瘤を発症して緊急入院。症状の悪化により右足切断を余儀なくされる。そのあとユベントスの専用機で帰国し、翌2月21日、リーズ近郊の病院で亡くなった。享年72歳。
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