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《 サッカー人物伝 》 エリアス・フィゲロア

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「 闘牛士のマーキング 」 エリアス・フィゲロア ( チリ )

186㎝の屈強な体と高い身体能力を誇り、空中戦やボール奪取にも抜群の強さを発揮したCB。エレガントなスタイルとリーダシップでDFラインを統率し、後方からのビルドアップにも重要な役割を担った。その卓越した守備力で「南米史上最高のセンターバック」と呼ばれたのが、エリアス・フィゲロア( Elías Ricardo Figueroa Brander )だ。

ペニャロール(ウルグアイ)、インテルナシオナル(ブラジル)、パレスティーノ(チリ)と、南米各クラブでチャンピオン獲得に貢献。特にインテルでの活躍は目覚ましく、2度のブラジレイロン(全国選手権)優勝に大きな役割を果した。74~76年にはペレジーコリベリーノらのスター選手を押しのけて、3年連続の南米最優秀選手賞に輝く。

チリ代表でも長らくDFリーダーを務め、66年イングランド大会、70年メキシコ大会、82年スペイン大会と、3度のW杯に出場。1大会おきに3回の出場という珍しい記録を作ったものの、いずれもグループリーグ敗退に終わった。79年にはコパ・アメリカ準優勝に貢献。

「ドン・エリアス」の誕生

フィゲロアは1946年10月25日、チリ中部に位置する港湾都市バルパライソの中流家庭に生まれた。幼い頃は体が弱く、ジフテリアに罹ってからは心臓や呼吸器に問題を抱えるようになり、医者に運動を禁じられていた。

家族は病気で苦しむ息子のために内陸部のキルプエへ引っ越し。すると自然環境の良好さが効を奏して、フィゲロアの健康は回復。8歳になるとキルプエ近郊のクラブ、アルトフロリダでサッカーを楽しむようになる。

サッカーで才能の輝きを見せ始めたフィゲロアだが、11歳の時にポリオ(ウィルス性の小児麻痺)に感染して2度目の闘病生活。1年間手足の麻痺に苦しむも、病気に屈することなく、やがて松葉杖と兄弟の助けを借りての歩行訓練を開始。13歳になる頃はクラブに戻り、再びサッカーを始めて周囲の者を驚かせた。

病気を克服したフィゲロアは順調に才能を伸ばし、体も鍛えて15歳の時に名門サンティアゴ・ワンダラーズのトライアルを受け、みごと合格を果す。

ワンダラーズに入団した62年、地元チリで第7回ワールドカップが開催。フィゲロアの所属するユースチームは、ブラジル代表のスパーリングパートナーとして駆り出され、セレソンの練習試合に参加する。フィゲロアはこのときペレガリンシャ、ジジらの名選手をマーク、その能力の高さは世界王者チームから称賛された。

このあと16歳でトップチーム昇格。当初MFとしてプレーしていたフィゲロアだが、身体能力とフィジカルの強さを買われてCBへコンバート。だがこのポジションにはラウル・サンチェスという絶対的存在がおり、経験を積むためウニオン・ラ・カレラにレンタル移籍する。

64年4月、ラ・カレラでトップチームデビューを飾ると、強豪コロコロとの対戦では素晴らしいパフォーマンスを見せて勝利に貢献。この試合のラジオ中継を担当していたアナウンサーは「我々は17歳にして完成されたプレーヤーを目撃した。これからは “ドン・エリアス” と呼ぶべきだろう」と絶賛。これにより「ドン・エリアス」がフィゲロアの通称となった。

65年にワンダラーズへ戻ると、CBのポジションを確立。翌66年には全国選手権に出場し、大会3位に貢献。若きフィゲロアを中心としたワンダラーズの守備陣は、大会最少失点の堅守を誇った。

初めてのワールドカップ

チリ代表には、66年2月のソ連戦で19歳にして国際Aマッチデビュー。このまま代表に定着し、同年6月に開催されたWカップ・イングランド大会のメンバーにも選ばれる。

初戦は前大会で「サンティアゴの戦闘」(W杯史上屈指の悪名高き試合)を演じたイタリアと戦い、0-2の完敗。第2戦は「謎の国」北朝鮮と1-1で引き分け、第3戦はソ連に1-2の敗戦。チリは1分け2敗の最下位であえなく敗退となってしまった。フィゲロアはチーム最年少で3試合すべてに出場したものの、チリ代表の成績に影響を与えることが出来なかった。

67年1月にはウルグアイ開催のコパ・アメリカに出場。チリは決勝ラウンド6ヶ国の総当たり戦で行なわれた大会で、ウルグアイとアルゼンチン(ブラジルは不参加)に続く3位。それでもチリは5試合中2試合を完封し、優勝した地元ウルグアイとも2-2の引き分け。守備の主力としてチリの健闘を支えたフィゲロアのプレーは、南米各国の強豪クラブから注目されるようになる。

ペニャロールのDFリーダー

そして南米選手権終了後、ウルグアイの名門CAペニャロールと契約。ペニャロールは前年のインターコンチネンタルカップ(のちのトヨタカップ)で欧州王者のレアル・マドリードを撃破するなど、世界的に知られた強豪クラブだった。

そんな強豪チームでも高い守備力を発揮し、67年シーズンのウルグアイリーグ優勝に大きく貢献。守護神マズルキェヴィッチとのコンビで鉄壁の防御力を誇り、987分(11試合)無失点のリーグ新記録を樹立。1年目からウルグアイリーグの最優秀選手賞に選ばれる。

翌68年シーズンも顕著な活躍でリーグ2連覇に貢献、フィゲロアは2年連続のリーグ最優秀選手賞に輝く。69年には南米チャンピオンズ・スーパーカップに出場。ペニャロールはペレ率いるサントスFCを破って優勝、フィゲロアが大会MVPに選出された。

70年にはコパ・リベルタドーレスの決勝に進出。エストゥディアンテス(アルゼンチン)に1-0で敗れ南米チャンピオンのタイトル獲得はならなかったが、フィゲロアはコパ・リベルタドーレス決勝の舞台に立った最初のチリ人選手として記録される。

CBという激しいポジションを務めながら、フィゲロアのプレーはスマートかつエレガント。相手の動きを予測して華麗に仕留める「闘牛士のマーキング」を会得し、読みの深さと高い身体能力で敵の侵入を鮮やかに阻止。ラフプレーで警告を受けることもなかったという。またDFラインを統率してビルドアップし、攻撃面でも大きな役割を果した。

3年連続の南米最優秀選手賞

60年代の黄金期を誇ったペニャロールだが、70年代に入るとクラブの財政が悪化。ペドロ・ローチャやアルベルト・スペンサーらの看板選手を放出せざるを得なくなる。72年にはフィゲロアにもブラジルのインテルナシオナルと、スペインのレアル・マドリードからオファーが届いた。

当時は南米選手の欧州移籍が一般的ではなかった時代。フィゲロアは熟慮の結果、インテルナシオナルを選択する。ブラジルでは70年W杯で優勝したセレソンのペレ、リベリーノ、トスタン、ジャイルジーニョ、ジェルソン、カルロス・アルベルトら多くのスター選手がプレーしており、世界でも魅力的なリーグのひとつだったのだ。

移籍したインテルでは、デビュー戦からキャプテンを務めて勝利に貢献。72年から76年に掛けてのカンピナート・ガウショ(リオグランデ・ド・スル州選手権)優勝に大きな役割を果す。

75年にはブラジレイロン(全国選手権)のグループステージを勝ち上がり、初の決勝へ進出。クルゼイロとの決勝戦では、後半75分に訪れたセットプレーのチャンスに、フィゲロアが頭を合わせて決勝弾。1-0と勝利したインテルがブラジレイロン初優勝を果す。

このときボールに向かってジャンプするフィゲロアを、夕日の光線が照らし出し、勝利のゴールは「エル・ゴル・イルミナド(照らされたゴール)」と名付けられてインテルの伝説となった。

翌75年もブラジレイロンを連覇。チームの躍進を支え「ベイラ・リオ(インテルのホームスタジアム)の神」と呼ばれたフィゲロアは、フラメンゴの新鋭ジーコを押しのけ、74年から76年まで3年連続となる南米最優秀選手賞を獲得する。

その他にも南米最優秀ディフェンダー賞、ブラジレイロン・ベストイレブン、ブラジル最優秀選手賞など、70年代の個人タイトルを独占。フィゲロアは「南米史上最高のディフェンダー」の称号を頂くようになる。

軍事クーデターとW杯予選

チリ代表は70年W杯メキシコ大会の南米予選で敗退。73年4月からは2大会ぶりの出場を目指し、西ドイツW杯の南米予選に臨む。

チリの入った南米予選グループでは、3チームのうちベネズエラが棄権。70年W杯でベスト8入りしたペルーとの一騎打ちの勝負となった。アウェーでの第1戦は0-2と破れるも、ホームでの第2戦で2-0の勝利。中立地ウルグアイで行なわれた決定戦で2-1とチリを下し、ソ連との大陸間プレーオフに進んだ。

だがモスクワでの第1戦が行なわれる2週間前、ピノチェト将軍をリーダーとする軍事クーデター(チリ・クーデター)が発生。70年に自由選挙で誕生した社会主義政権が打倒された。このとき官邸に立て籠もって軍部に抵抗したアジェンデ大統領は、自ら銃を手にして壮絶な最期を遂げたという。こうして16年続くピノチェト独裁政権が樹立された。

アジェンデ大統領を支持していたソ連はこの軍事政権を非難。モスクワ空港に到着したチリ代表の主力、フィゲロアとカゼリーの2人が一時入国管理局に拘束される不穏な雲行きとなった。それでも緊迫の中で行なわれたアウェーの第1戦を、フィゲロアらの踏ん張りによりスコアレスドローで終えて無事帰国を果す。

第2戦は首都サンティアゴの国立競技場で行なわれることになっていたが、軍事政権の反体制弾圧に抗議するソ連は中立国での試合を要求。だがこれはチリとFIFAによって拒否され、ソ連はプレーオフ第2戦を棄権する。結果チリが2-0の勝利扱いとなり、2大会ぶりとなるW杯に出場することになった。

西ドイツW杯の健闘

74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。チリはG/L初戦で地元西ドイツと対戦した。開始18分にパウル・ブライトナーのロングシュートでリードを奪われると、後半67分にはカゼリーが2枚目の警告を受けて退場処分。それでもチリはフィゲロアを中心とした固い守備で開催国を苦しめ、0-1と破れたものの健闘ぶりを見せた。

第2戦も東ドイツに先制を許すが、後半に追いついて1-1の引き分け。最終節にグループ突破の望みを繋いだ。だが第3戦ではオーストラリアとスコアレスドロー。守備は安定していたが攻撃に迫力を欠き、グループ3位で敗退となってしまう。

それでもフィゲロアのパフォーマンスは高く評価され、優勝キャプテンのベッケンバウアーとともに大会オールスターチームの最優秀ディフェンダーに選出。グループ敗退したチームから選ばれるという異例のセレクトとなった。

プロキャリア唯一の退場

インテルナシオナルで栄光の6年を過ごすが、家族が帰国を希望したため、クラブの説得を振り切って退団。チリに戻ってサンティアゴのCDパレスティーノと契約する。

移籍1年目の77年シーズンには、コパ・チリ(チリカップ)の決勝へ進出。ウニオン・エスパニョーラとの決勝は3-3で延長戦にもつれるが、その後半の112分にフィゲロアが決勝ゴール。パレスティーノが2度目の優勝を果す。

78年シーズンは、クラブ23年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献。パレスティーノは77年7月から78年9月まで、驚異の44戦無敗記録を達成。コパ・リベルタドーレスでも準決勝進出を果す。フィゲロアはチームの中核として快進撃を支えた。

77年2月から始まったW杯南米予選では、再び同グループとなったペルーと争うが、ライバルに1ポイント及ばず敗退。アルゼンチン大会の出場を逃してしまった。

79年7月から始まったコパ・アメリカはホーム&アウェー方式で行なわれ、チリ代表はグループステージを勝ち上がってベスト4へ進む。準決勝ではライバルのペルーを2戦合計2-1と下し、決勝進出。フィゲロアが統率するチリの守備陣は、ここまでの6試合で3失点と堅実さを見せた。

しかしペルーとの準決勝第2戦で、フィゲロアが退場処分。プロキャリアで唯一喰らった退場処分のため、決勝の第1戦を出場停止となってしまう。

DFリーダーを欠いたアウェーでの第1戦は、パラグアイに0-3と惨敗。フィゲロアが戻ったホームでの第2戦を1-0と勝利しプレーオフに持ち込むが、中立地のアルゼンチンで行なわれた第3戦は0-0の引き分け。得失点差でパラグアイに及ばず、準優勝に終わってしまった。

1大会おき3度のW杯出場

81年、35歳とキャリアの晩年を迎えていたフィゲロアは、北米サッカーリーグに誘われフロリダのフォートローダーテール・ストライカーズと契約。ここでゲルト・ミュラーテオフィロ・クビジャスら往年の名選手とともにプレーした。82年にはチリに戻り、同国の名門コロコロに加入。2大会ぶりの出場を決めたWカップに備える。

82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。フィゲロアは1大会おき3度目のW杯と珍しい記録をつくった。G/Lではキャプテンとして3試合にフル出場するも、チリは全敗を喫してグループ敗退。特に注目されることなく最後のW杯を終えた。17年間の代表歴で47試合に出場、2得点を記録している。

83年1月1日、伝統の一戦ウニベルシダ・デ・チレとのクラシコを最後に、37歳で現役を引退。翌84年3月に行なわれた引退記念試合では、7万人以上の観客が詰めかけたという。

引退後はテレビのサッカーコメンテイターとして活動する一方、チリワインの事業家としても成功を収めた。また90年代には、短期間ながらパレスティーノとインテルナシオナルの監督を務めている。

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