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吉田喜重監督 死去

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「松竹ヌーベルバーグ」の一翼

「松竹ヌーベルバーグ」の一翼を担い、『秋津温泉』『エロス+虐殺』などの作品で知られる映画監督の吉田喜重よししげさんが、8日に肺炎のため東京都内の病院で死去した。

8日朝、自宅で普段通り過ごしていたところ突然倒れ、救急車を呼んで緊急搬送。病院に運ばれまもなく息を引き取ったという。享年89歳。妻で女優の岡田茉莉子さんは「ただただ驚いています」と悲痛な心境を語っている。

松竹でのキャリア

吉田さんは1933(昭和8)年生まれの福井県福井市出身。織物の仲介人を稼業とする家の3番目の子だったが、実母は1歳のときに病死。父親はやがて再婚し、彼は義母の手で育てられた。また戦時中に福井大空襲に遭い、実家が消失して逃げ回るなど、苦境の少年時代を送っている。

47年には東京の田園調布に一家で転居。吉田少年は都立城南中学に学びながらアテネ・フランスに通い、フランス語を勉強。51年には東京大学に入学し、仏文科に進んでサルトルを研究。在学中には同人雑誌をやり、級友の石堂淑朗、種村季弘、宮川淳らと文学を志して小説を執筆した。

55年に東大を卒業すると、友人の石堂に誘われて松竹の助監督試験を受験。激しい競争率の中2人そろって合格した。松竹入社後は木下惠介監督のもとに付き、長らく助監督を務める。

一期上の大島渚が『愛と希望の街』で監督デビューした翌60年、『ろくでなし』で監督デビュー。現代的な若者を新感覚で描いた内容が評判を呼ぶ。

62年には、松竹の看板女優であった岡田茉莉子の “百本記念作品” 『秋津温泉』を監督。戦中から戦後にかけての男女の年代記を情緒豊かに描いた演出が高く評価され、大島渚、篠田正浩らとともに「松竹ヌーベルバーグ」の旗手と謳われた。

多方面での活躍

64年には岡田茉莉子と結婚。しかし同年に撮った『日本脱出』で会社と路線対立し、作品を無断カットされたことから松竹を退社。66年には岡田とともに独立プロ「現代映画社」を設立し、『水で書かれた物語』(65年)『女のみづうみ』(66年)などを発表する。

69年にはATG配給の『エロス+虐殺』を監督。大正時代に実際起きた事件を題材とし、男女の性や生と死を前衛的な手法で描いて吉田監督の代表作となった。

73年『戒厳令』の後はしばらく劇場用映画から遠ざかり、テレビドキュメンタリー『美の美』シリーズを手がけたり、フランスのリヨンでオペラ『蝶々夫人』の演出を担当したりと、多方面で活躍した。

遺作となった映画は2002年の『鏡の女たち』。広島の原爆をテーマとし、空襲で逃げ回った戦争体験をもとに、人間の不条理や矛盾を描いた作品だった。

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