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映画監督のカルロス・サウラとヒュー・ハドソンが死去

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スペインを代表する巨匠監督

映画『カラスの飼育』や『カルメン』で知られるスペインの巨匠、カルロス・サウラ監督が10日に呼吸不全のためマドリード近郊の自宅で死去したことが、スペインのメディアから伝えられた。享年91歳。

サウラ監督は1932年生まれのウェスカ出身。15歳の頃から写真に熱中し、プロカメラマンとして働きながら52年にはIIEC(国立映画研究所)に入所。57年に卒業製作の短編『日曜の午後』で監督資格を取得し、同所映画部の教授となった。

在学中の55年から短編映画の製作を始め、59年のドキュメンタリー・タッチ作品『ならず者』で長編映画デビュー。これがカンヌ国際映画祭に出品され高い評価を受ける。

64年にはフランコ政権の検閲を嫌ってIIECを退所。そのあと66年に発表した『狩り』と、68年の『ペパーミント・フラッペ』がベルリン国際映画祭の監督賞を受賞。他にも73年の『従妹アンヘリカ』と76年の『カラスの飼育』がカンヌ国際映画祭の審査員特別賞、80年の『急げ、急げ』がベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞するなど、スペインを代表する監督として名声を博した。

その高評価が世界的なものだったのにもかかわらず、サウラの名前が日本に知られ始めたのは83年の『カルメン』から。独特の様式美によるフラメンコダンスのミュージカル作品で、そのダイナミックな群像劇が評判をとり、カンヌ国際映画祭の技術グランプリと芸術賞を受賞。米アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた。

ちなみにフラメンコの名手、アントニオ・ガデスさんの主演した『血の婚礼』(81年)『カルメン』『恋は魔術師』(86年)はフラメンコ3部作と言われている。

04年にはヨーロッパ映画賞の生涯貢献賞を受賞。その創作活動は晩年にまで続いた。

『炎のランナー』で米英のアカデミー作品賞をダブル受賞

また同じ10日には、映画『炎のランナー』で知られるイギリスの映画監督、ヒュー・ハドソンさんが短い闘病生活を経てロンドンのチャリングクロス病院で亡くなったことが家族から発表された。享年86歳。

ハドソン監督は1936年にロンドンで生まれ、シャロプシャー、スコットランドで育ち、イートン・カレッジに学んだ。幼い頃から映画狂で、8歳の時には家族全員が出演したホームムービーを撮っていたそうだ。

兵役を終えて56年にロンドンの広告代理店に就職するが、6ヶ月で退職。パリの小さな製作会社に入り、2年間コマーシャルやドキュメンタリーの編集を担当した。

そのあとロンドンに戻り、61年に「キャメル=ハドソン・フィルム社」を共同設立。66年に製作した『The Tortoise and the Hare』でヴェネツィア・ドキュメンタリー映画祭の1位を獲った。

70年にはリドリー・スコットのプロダクションに加わり、数々のコマーシャル・フィルムと10本のドキュメンタリー映画を演出。カンヌ広告映画祭賞を受賞するなど高い評価を受け、75年に「ハドソンズ・フィルム」を設立する。

78年には友人であるアラン・パーカー監督の『ミッドナイト・エクスプレス』にB班監督として関わり、翌79年に『グレート・ドライバー』で長編ドキュメンタリー監督としてデビューした。

81年には初の商業映画となる『炎のランナー』を手がけ、1924年パリ五輪の陸上競技を題材としたヒューマンドラマが感動を生み、米・英のアカデミー作品賞をダブル受賞する快挙。一躍イギリス映画界の旗手的存在となった。

84年には大作映画『グレイストーク -類人猿の王者- ターザンの伝説』を発表するも、以降は失敗作が続き寡作監督として終わっている。

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