スポンサーリンク
スポンサーリンク

《 サッカー人物伝 》 ディディエ・デシャン

スポンサーリンク
スポンサーリンク

「 レ・ブルーを導くリーダー 」ディディエ・デシャン( フランス )

目を見張るほどのテクニックはないが、状況判断に優れた中盤のキーマン。「マラソンマン」と呼ばれる無尽蔵のスタミナを武器とし、精力的かつ献身的な働きで攻守の繋ぎ役となった。その秀でたリーダーシップでチームを統率し、多くの栄光を呼び込んだフランスの名選手が、ディディエ・デシャン( Didier Claude Deschamps )だ。

チャンピオンズリーグ優勝に貢献したマルセイユでその名を馳せ、94年に移籍したユベントスでも不動のボランチとして活躍。数々のタイトルに輝いた。またフランス代表のキャプテンを務め、98年W杯優勝とユーロ2000制覇の「スーパー・ダブル」達成に大きく寄与。レ・ブルーでは初の100キャップを刻んだ。

引退後は指導者として手腕を発揮。ASモナコや古巣のマルセイユで実績を残すと、2012年からはフランス代表監督に就任。低迷していたチームを立て直し、14年W杯ベスト8、ユーロ2016準優勝の好成績を残す。そして18年W杯ではレ・ブルーを20年ぶりの優勝に導き、選手と監督の両方で世界の頂点に立った3人目となった。

バスク出身の若きリーダー

デシャンは1968年10月15日、スペインとの国境にあるバスク地方のバイヨンヌで生まれた。父親がラグビー選手だったことから少年時代は楕円形のボールに親しむも、体が大きくならなかったため転向。スポーツクラブで水泳、クロスカントリー、ハンドボール、陸上競技を平行して競技したが、やがてサッカーに集中するようになる。

17歳のときトライアルを受けてFCナントへ入団。19歳でプロ契約を結び、85年9月のスタッド・ブレスト戦で負傷したFWハリルホジッチとの交代でトップリーグデビュー。3-0の勝利に貢献する。

だがこの頃、3歳上の兄フィリップが飛行機事故により死亡。若きデシャンに大きなショックを与える出来事だったが、これが彼の精神的成長を促すことになった。

デビュー後はしばらくリザーブチームとの往復が続くが、ボランチに定着した3年目の87-88シーズンにレギュラーの座を獲得。このとき同い年のチームメイトとして切磋琢磨したのが、のちにフランス代表でも盟友となるマルセロ・デサイーである。

翌88-89シーズンは早くもチームの中心的存在となり、天性のリーダーシップと旺盛な闘争心を発揮して躍動。20歳の若さでキャプテンに指名された。そのピッチを駆け回るプレーは名門クラブの目に止まり、89-90シーズン途中にはオリンピック・マルセイユへ引き抜かれる。

当時のマルセイユは、エンツォ・フランチェスコリJP・パパンエリック・カントナらのタレントを揃えた欧州屈指のスター軍団。まだ21歳だったデシャンは、スター選手に囲まれた環境で本来の実力を出せず、90-91シーズンはFCボルドーへレンタルされてしまう。

このレンタル期間の間、デシャンはマルセイユの会長であるベルナール・タピによってパリ・サンジェルマンへ放出されそうになる。マルセイユへの復帰を望んでいたデシャンは、自ら電話を掛けてタピ会長へ直談判。翌91-92シーズンに復帰を果すと、守備的MFとして36試合4ゴールの活躍。ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)3連覇に貢献する。

レ・ブルーの「水を運ぶ人」

20歳でプラティニ監督よりレ・ブルーへ招集されたデシャンは、89年4月のW杯予選、ユーゴスラビア戦で代表デビュー。同年11月のW杯予選、スコットランド戦で初ゴールを記録する。

だがプラティニ引退後の低迷期に入っていたフランスは、90年W杯の欧州予選でグループ敗退。このあとデシャンは代表レギュラーに定着し、主力のパパン、カントナとともにユーロ予選で活躍。2大会ぶりとなるユーロ92出場に攻守の繋ぎ役として貢献し、カントナからは「水を運ぶ人」と評された。

92年6月に開催されたユーロ本大会のグループリーグでは、1位突破を有力視されるも、初戦は開催国スウェーデンに1-1の引き分け。第2戦もイングランドと0-0で勝点を分ける。そして第3戦では伏兵のデンマークに足をすくわれ、1-2の思わぬ敗戦。1勝もできないままグループ3位で敗退となった。

さらに93年に行なわれたW杯欧州予選・グループ最終節ホームのブルガリア戦では、出場決定を目前としながら痛恨の逆転負け。「パリの悲劇」と呼ばれる失態で2大会ぶりのW杯出場を逃してしまう。フランスは自国開催となる98年W杯を控え、長い暗黒時代から抜け出せないでいた。

ユベントス不動のボランチ

92-93シーズン、マルセイユは悲願となるチャンピオンズリーグ初優勝を達成。デシャンは今シーズンから再びチームメイトとなったデサイーとともに、ビッグタイトル獲得を祝った。

だがCL制覇の直後、マルセイユのディヴィジョン・アン優勝を決める試合で八百長が行なわれたことが発覚。フランスサッカー連盟の調査によって不正の事実が確認され、マルセイユのリーグ優勝が剥奪されただけでなく、翌シーズンの2部降格という厳しい処分を受ける。

CL王者のタイトル剥奪は逃れたものの、トヨタカップの出場と次回CL大会への参加は禁止。さらにタピ会長の脱税疑惑などスキャンダルも相次ぎ、デサイー、ボクシッチ、フットレ、アベディ・ペレらの主力が次々と移籍。

デシャンはチームに残ってリーグ・ドゥ優勝に貢献するが、なおもマルセイユの1部復帰は認められず、94年5月にはイタリアの名門からの誘いを受けてユベントスへ移籍。ここで名将マルチェロ・リッピの薫陶を受けることになる。

移籍1年目の94-95シーズンはリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇の2冠を経験するが、アキレス腱の故障で公式戦23試合の出場にとどまる。翌95-96シーズンはコンディションを取り戻し、公式戦40試合に出場。「マラソンマン」と呼ばれる豊富な運動量でキーマンの役割を果し、デル・ピエロ、ヴィアリ、ラバネッリの3トップをサポート。リッピ戦術の要となった。

この年度のリーグ連覇は逃したものの、CLでは決勝に進出。ローマで行なわれたファイナルで前回王者のアヤックスと対戦する。

試合は開始2分、F・デ ブールのクリアミスからラバネッリが先制点。だが前半終了間際、FKのこぼれ球をリトマネンに押し込まれて追いつかれる。そのあと両チーム均衡を保ったままPK戦へともつれ込み、5人全員が成功させたユベントスが優勝。プラティニ時代以来、11年ぶりとなる欧州王者に輝く。その献身的な働きでチームを支えたデシャンは、自身2度目となるビッグイアーを掲げた。

このあと年末に行なわれたトヨタカップでも、リーベル・プレートを1-0と打ち破って世界一を達成。96-97シーズンは、母国の新鋭ジネディーヌ・ジダンが加入。戦力を充実させたユベントスはスクデットを奪回し、翌97-98シーズンも連覇を果した。CLは3季連続で決勝に進み、優勝1回と2度の準優勝。デシャンは黄金期のユベントスにおいて不動のボランチであり続けた。

ワールドカップ初優勝

93年のW杯予選敗退後にフランス代表を託されたエメ・ジャケ監督は、カントナ、パパン、ジノラらスター選手を外し、ジダン、デサイー、テュラムといった移民系の選手を積極的に登用。デシャンは新チームのキャプテンを任され、ベテランのブランとともに新チームのリーダー役を担うことになった。

96年6月にはイングランド開催のユーロ大会に出場。フランスは優勝した84年大会以来の決勝トーナメントに進むも、準決勝でチェコに敗れてベスト4敗退。DF陣こそ世界屈指の質量を誇るフランスだが、エースストライカー不在による得点力不足は深刻だった。

98年6月、自国開催となるWカップ・フランス大会が開幕。G/Lは3戦全勝の1位突破を果すも、サウジアラビア戦で相手選手を踏みつけたジダンが2試合の出場停止処分。それでもフランスは自慢の堅守で勝ち上がり、初の決勝へ進む。

ブラジルとの決勝はDFの要であるブランが出場停止処分で欠場。ジダンの2得点でリードした後半68分にはデサイーが2枚目のカードで退場となるが、デシャンを中心に残り時間を守り切り、3-0の完勝。ついにフランスが世界の頂点へ立ち、キャプテンのデシャンは優勝杯を高々と掲げた。

「スーパー・ダブル」達成と引退

98-99シーズンはチームでの先発出場が減少し、ユベントスも5季ぶりのタイトル無冠。99年の夏には元同僚のヴィアリが率いるチェルシーに移籍し、ここでまたデサイーとの再会を果す。チェルシーでは公式戦47試合に出場し、99-00シーズンのFAカップ優勝に貢献した。

02年6月にはユーロ2000大会(ベルギー/オランダ共催)に出場。G/Lで苦戦しながらも2位通過を果し、決勝トーナメントではスペイン、ポルトガルとの激戦を勝ち抜いて4大会ぶりの決勝へ進出。

決勝はイタリアとの対戦となり、0-1とリードされて敗色濃厚となった後半ロスタイムの94分、ヴィルトールのゴールが決まり土壇場で同点。延長の103分にはトレゼゲのゴールデンゴールが生まれ、奇跡の逆転勝利。2度目となる欧州王者のタイトルを得た。

これでフランスは98年W杯との「スーパー・ダブル」を達成。キャプテンのデシャンはこの快挙を置き土産とし、同年9月に代表を引退。12年間の代表歴で103キャップを刻み、4ゴールを挙げている。

00-01シーズンはスペインのバレンシアへ移籍。ここで1シーズンを過ごし、選手生活のトリを飾ったのはバイエルン・ミュンヘンと戦ったCL決勝。試合はベンチスタートとなったデシャンの出番がないまま、1-1の延長・PK戦で敗れて準優勝。そしてこのビッグマッチを最後に、32歳で現役を引退する。

チャンピオンズリーグでの快進撃

現役引退後は休む暇もなく、ASモナコの指揮官に就任。だが監督1年目の01-02シーズンは人心を掌握しきれず、降格寸前のリーグ15位と低迷。すると翌02-03シーズンは選手との信頼関係を築くとともにチーム改革へ乗り出し、用兵に長けたデシャンの采配でリーグ戦の上位を快走。CL出場権の得られる2位へと躍進した。

03-04シーズンはクラブが経営危機に陥り、高額年俸選手を放出してのスリム化を断行。それでも少数精鋭のチームとして強度を増したモナコは、CLグループステージでディポルティーボ・ラ・コルーニャやPSVアイントホーフェンといった強豪を打ち破って1位突破の快挙。

そして決勝ステージの1回戦でロコモティフ・モスクワを退けると、準々決勝では「銀河系軍団」のレアル・マドリードと対戦。アウェーでの第1戦は4-2で敗れ、ホームでの第2戦もラウルの先制点を許すという苦しい展開。モナコの快進撃もここまでかと思えた。

しかし前半終了間際、快足ウィングで鳴らすジュリの得点で追いつくと、後半開始直後の48分にはレアルから貸し出されたモリエンテスのゴールで逆転。2戦合計では1点差に迫った。さらに66分にはジュリの得点で2戦合計5-5と並び、アウェーゴールの差でモナコが勝利。ジャイアントキリングで大会に波乱を起こす。

準決勝もモリエンテスの2ゴールが生まれ、新興のチェルシーを2戦合計5-3と撃破。伏兵と見られていたモナコがついに決勝へと勝ち上がった。

決勝の相手となったのは、ともに大会に旋風を巻き起こしたポルトガルのポルト。デシャンとジョゼ・モウリーニョという、新進監督同士による対決となった。

試合は開始から一進一退の攻防が繰り広げられるが、前半23分にエースのジュリが負傷交代。これでチームはリズムを失ってしまい、39分にはカルロス・アルベルトにシュートを決められ失点。後半の71分にもデコの追加点を許してしまう。

結局モナコは0-3の完敗を喫し、少数精鋭チームの限界を露呈。監督対決はモウリーニョに軍配が上がった。しかしこのCL準優勝は、デシャンの輝かしい監督キャリアの始まりとなる。

レ・ブルーの名将

06年7月、「カルチョポリ・スキャンダル」によって2部降格処分となった古巣ユベントスの監督に就任。マイナス9ポイントからのスタートという厳しいハンデを負いながら、チームを06-07シーズンのセリエB優勝に導く。だが優勝直後、首脳陣との意見対立により辞任となった。

09年5月には、母国の古巣であるマルセイユの監督に就任。ここで3シーズンにわたって指揮を執り、リーグ・アン優勝1回、リーグカップ制覇3回の実績を残す。

12年7月、ベスト8入りしたユーロ2012後に辞任したブラン監督の後任として、フランス代表の指揮官に就任。14年W杯ブラジル大会では前評判の低さを覆してベスト8の好成績を残し、自国開催のユーロ2016では、C・ロナウド擁するポルトガルに決勝で敗れて準優勝。

そして18年W杯ロシア大会では怪童エムバペを擁し、20年ぶり2度目となる優勝を達成。個人主義で多民族集団、まとまりにくいフランス代表を結束させたのは、まさにデシャンのリーダーシップと人望があってのものだった。こうしてブラジルのザガロ、西ドイツのベッケンバウアーに続き、選手と監督の両方で世界一を経験した3人目となった。

21年に行なわれたユーロ2020(11地域共催)では、優勝候補と目されながらもベスト16の成績。22年W杯カタール大会では、主力の故障離脱が相次ぐ中で2大会連続の決勝進出。しかしメッシ率いるアルゼンチンにPK戦で敗れ、惜しくも大会連覇はならなかった。

それでも23年1月には代表監督の続投が決定。2年後のユーロ制覇と4年後のタイトル奪還の期待を背負い、デシャンの長期政権が続くことになった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました