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《 サッカー人物伝 》 ミロスラフ・クローゼ

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「 4年にいちど 世界で輝く男 」ミロスラフ・クローゼ( ドイツ )

ポジショニングの上手さと絶妙な動き出しからいち早くボールを捉え、抜群のヘディングスキルで得点を量産したセンターフォワード。フィジカルを活かしたボールキープにも優れ、ポストプレーでチャンスも作った。またピッチ上での献身とフェアプレー精神でも知られたのが、ミロスラフ・クローゼ( Miroslav Josef Klose )だ。

アマチュア選手として長らく下積み時代を送り、23歳で花開いた遅咲きのストライカー。ヴェルダー・ブレーメン時代にはリーグ得点王に輝き、名門バイエルン・ミュンヘンではブンデスリーガ優勝とDFBポカール制覇に貢献。その後移籍したラツィオでもコンスタントな成績を残した。

クローゼがより輝きを見せたのは、4年に1度のW杯。彗星の如く登場した02年大会で5得点を記録すると、自国開催の06年大会で得点王を獲得。10年大会では4得点を決め、チームを2大会連続の3位に導いた。そして14年大会ではW杯通算最多得点記録を更新し、ドイツの24年ぶり4度目の優勝に貢献している。

遅咲きのセンターフォワード

クローゼは1978年6月9日、ポーランド南西部の都市オポーレで生まれた。ドイツ系の父ヨゼフはポーランド代表歴を持つサッカー選手で、母バーバラもポーランド代表で活躍したハンドボール選手だった。

父ヨゼフの移籍により一家はフランスへ移り住み、引退後の85年にはポーランドへ戻らず、ルーツを持つ西ドイツの国籍を得てラインラントプファルツ州のクーゼルへ定住。クローゼは9歳になると地元クラブでサッカーを始める。

漫然とプロへの憧れを持っていたクローゼだが、現実的な将来も見据えて大工の見習いをしながらアマチュアとしてプレー。7部リーグに所属する小さなクラブで10代を過ごした。

アマチュアクラブでくすぶっていたクローゼが20歳になった98年、そのプレーが国内を巡回していたスカウトの目に止まり、ブンデスリーガの1.FCカイザースラウテルン(カイザース)への移籍を果す。

だがカイザースでもすぐに芽は出ず、2年間のリザーブチーム暮らし。その間クローゼはプロを目指しての研鑽を積み、2000年4月のフランクフルト戦でブンデスリーガデビュー。翌00-01シーズンにはトップチームに定着し、29試合に出場して9ゴールを挙げた。

そして翌01-02シーズン、ようやくセンターフォワードとしての才能を開花させ、31試合16ゴールの活躍。得点王(18ゴール)となったドルトムントのアモローゾに迫る好成績で、一躍注目される選手となった。

ヘディングのスペシャリスト

カイザースで頭角を現し始めていた01年3月、ドイツ代表に招集されW杯欧州予選のアルバニア戦でマンシャフト(ドイツ代表の愛称)デビュー。1-1で進んだ終盤の87分に初ゴールを挙げ、デビュー戦を殊勲の勝利で飾った。故国ポーランドからの熱心な誘いを断っての、ドイツ代表入りだった。

次戦のギリシャ戦でもゴールを記録するなど、W杯出場決定に貢献。そして02年に入って行なわれた親善試合、2月のイスラエル戦と5月のオーストラリア戦で連続ハットトリックを記録。エース不在に悩むドイツ代表のレギュラーFWに名乗りを上げる。

02年5月29日、Wカップ日韓大会が開幕。G/L初戦の相手はサウジアラビアだった。開始20分、左からのクロスにクローゼが頭で押し込んで先制点。その5分後、再びクローゼがバラックのクロスにヘッドで合わせて追加点を決める。

さらに4-0とリードした後半の70分、右からの折り返しを頭で叩き込んでハットトリックを達成。8-0と圧勝した試合の起爆剤となった。クローゼが決めた3点は、すべて得意とするヘディングから生まれたもの。またゴール後に見せた前方宙返りパフォーマンスは「サルト・クローゼ」と呼ばれ、トレードマークとして定着していく。

続くアイルランド戦も、前半19分にバラックのクロスからクローゼが頭で先制点。このまま試合は終盤まで進み、ドイツが逃げ切るかに思えたが、後半ロスタイムにロビー・キーンのゴールを許して不覚の同点。1-1と引き分ける。

第3戦はアフリカの雄カメルーンと対戦。試合は16枚のイエローが飛び交う荒れ気味の内容となり、前半40分にはDFラメロウが2枚目の警告で退場。数的不利となったドイツだが、後半50分にクローゼのスルーパスからボーデの先制点が生まれる。さらに79分には、バラックの浮き球クロスをクローゼがヘッドで捉えて追加点。2-0と完勝したドイツが1位突破となった。

決勝トーナメントに入りタイトな試合が続くも、守護神オリバー・カーンを中心とした堅い守りでパラグアイ、アメリカ、韓国をそれぞれ1-0と撃破。ついに3大会ぶりとなる決勝へ勝ち上がった。

だがブラジルとの決勝は怪物ロナウドの2発に沈み、0-2の敗戦。ドイツに4度目の栄冠は輝かなかった。G/Lでヘディングによる5得点を挙げたクローゼの勢いも、決勝トーナメントでは力不足を露呈してノーゴール。それでも大会優秀FWの1人に選出された。

ブレーメンでの活躍

02-03シーズンは故障に悩みながら9ゴール、03-04シーズンは10ゴールと一定の成績を残すも、チームの低迷に合わせるようにやや伸び悩み。カイザースが経営危機に陥いるとクローゼは自らのパスを譲渡し、04年7月に500万ユーロの移籍金でヴェルダー・ブレーメンへ移籍する。

ブレーメンのクローゼへ対する期待は低く、開幕当初はベンチスタートに甘んじるも、第4節のボーフム戦では、後半からの出場でブンデスリーガのキャリア初となるハットトリックを記録。これがきっかけとなって先発に定着し、終わってみれば32試合15ゴールの成績。一時期の低迷から抜け出した。

翌05-06シーズンは得意の空中戦に加えて、ドリブルやパスにも磨きがかかり、26試合25ゴールの活躍。初のリーグ得点王を獲得し、代表での実績と合わせてドイツ年間最優秀選手賞に輝く。

06-07シーズンも31試合13ゴールと安定した成績を残し、契約満了後の海外移籍も視野に入れる中、07年6月には国内のビッグクラブであるバイエルン・ミュンヘンとの契約を発表する。

進化する代表ストライカー

04年にポルトガルで開催されたユーロ大会は故障上がりのため精彩を欠き、2試合に出場してノーゴール。ドイツはG/L3位に低迷して敗退となった。

06年6月、自国開催となるWカップ・ドイツ大会が開幕。クローゼは若手のポドルスキーと2トップを組み、初戦のコスタリカ戦に先発出場する。

1-1で迎えた前半の17分、この日28歳の誕生日を迎えたクローゼが勝ち越し点。後半61分にもクローゼが追加点を決める。このあと1点を返されるも、終了直前にダメ押し点が生まれて4-2の勝利。クローゼの活躍でホスト国が好スタートを切った。

続く第2戦もポーランドを1-0と退け、第3戦はクローゼの2得点とポドルスキーのゴールでエクアドルに3-0の快勝。地元ドイツが3戦全勝でベスト16へ勝ち上がる。

トーナメントの1回戦はクローゼ&ポドルスキーの2トップが絶好調。難敵スウェーデンをポドルスキーの2ゴールで下したが、両得点ともクローゼの精力的なプレーがお膳立てとなった。

準々決勝はアルゼンチンと対戦。スコアレスで折り返した後半の49分、リケルメのCKからアジャラの先制点を許すも、終盤の80分にバラックから繋いだボールをクローゼが渾身のヘッドで叩き込んで値千金の同点弾。延長のあとのPK戦をドイツが制し、ベスト4へ勝ち上がった。

しかし準決勝ではイタリアの巧妙な守備に抑えられ、延長を戦って0-2の敗戦。エースのクローゼは1本のシュートも打たせて貰えず、地元優勝の夢を断たれてしまう。このあとドイツはポルトガルを破って3位を確保し、ホスト国として有終の美を飾った。

クローゼは前回と同じ5ゴールを挙げて大会得点王。得点だけではなくチャンスに絡む働きで上位進出の原動力となり、さらに進化したエースの姿を見せた。

バイエルンでの4シーズン

バイエルン移籍の07-08シーズン、公式戦47試合21ゴールの成績でリーグ優勝とDFBポカール制覇の2冠達成に貢献。翌08-09シーズンも公式戦38試合20ゴールと安定した成績を残すが、クリスマン新監督の戦術がはまらずタイトル無冠に終わる。

ルイス・ファン ハールを新監督に迎えた09-10シーズン、アリエル・ロッベンやマリオ・ゴメスら攻撃の新戦力が加入。若手トーマス・ミュラーの台頭もあり、クローゼの先発出場は減少する。バイエルンは2季ぶりの2冠に輝き、CLでは9季ぶりの決勝へ進むも、インテル・ミラノに0-2と敗れて準優勝。ベンチ要員となったクローゼの存在感は薄くなっていた。

10-11シーズンは公式戦26試合5ゴールの成績に終わり、シーズン終了後の契約満了を持ってバイエルンを退団。33歳となっていたクローゼはラツィオと新たな契約を交わし、イタリアに活躍の場を求めた。

W杯で得点を重ねるエース

08年6月にはオーストラリア/スイス共催のユーロ大会に出場。G/Lは3戦ノーゴールと空振りに終わるが、準々決勝のポルトガル戦、準決勝のトルコ戦で貴重な得点を挙げて3大会ぶりの決勝進出に貢献する。

だが決勝ではスペインに0-1と敗れ準優勝。クローゼのビッグタイトル獲得はまたもお預けとなった。

10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。初戦のオーストラリア戦はミュラーやメスト・エジルら若手の活躍で4-0と圧勝し、ワントップを務めたクローゼも3大会連続のゴールを決めた。

続くセルビア戦は9枚のイエローが飛び交う肉弾戦となり、前半27分には2枚目の警告を受けたクローゼが退場処分。直後の28分に先制点を奪われてしまい、0-1の敗戦。それでもクローゼが出場停止となった最終節のガーナ戦を1-0と勝利し、ドイツは1位突破によるベスト16進出を決める。

クローゼが復帰したトーナメント1回戦はイングランドと対戦。開始20分、GKノイアーからのロングキックに抜け出したクローゼが、右足アウトで押し込んで先制。32分にもポドルスキーの追加点が生まれた。

37分に1点を返して追撃体勢に入るイングランドだが、直後にランパードの放ったシュートが誤審によりノーゴール。このあとミュラーが意気消沈した相手から2点を奪い、4-1の大勝を収める。

準決勝はマラドーナ監督率いるアルゼンチンと対戦。開始3分にミュラーのゴールで先制すると、68分、89分とクローゼが追加点を挙げて4-0の勝利。イングランド戦に続く強豪対決を大差で制した。

準決勝ではユーロ王者のスペインと戦い、2年前のリベンジを果たせず0-1の敗北。2大会連続で決勝を逃してしまう。このあとウルグアイとの3位決定戦に勝利するも、スペイン戦で背中の痛みを悪化させたクローゼがベンチ外。ロナウドの持つW杯通算得点記録にあと1点と迫りながら、欠場を余儀なくされてしまった。

フェアプレーを身上とする男

ラツィオに移籍した11-12シーズンは公式戦35試合16ゴール、12-13シーズンは36試合16ゴールと復活の輝き。コッパ・イタリア優勝にも貢献する。

ブレーメン時代に自ら得たPKを「自分が倒れただけで、ファールではない」と申告して、PK及び相手のイエローカードを取り消させ、フェアプレー賞を受賞したというエピソードを持つクローゼ。ラツィオ時代のナポリ戦ではゴールを決めながら、主審に「手を使ったか?」と問われ「イエス」と正直に返答。主審はゴールを無効としたものの、クローゼにカードを出すことはなかった。

のちにこれらの行動について質問されたとき、「テレビでサッカー観戦する多くの若者のために、我々はお手本を示さなければいけない」と真摯に答えたという。

W杯通算最多得点記録の更新

10年9月から始まったユーロ予選では、9ゴールの活躍でグループ1位突破に貢献。全盛期からスピードこそ衰えたものの、抜群のタイミングによる動き出しやポジショニングセンスは円熟味を増していた。

だがユーロ2012の本大会ではマリオ・ゴメスにポジションを奪われ、唯一スターティング・メンバーに名を連ねたギリシャ戦で1ゴールを記録。ドイツはベスト4にとどまった。

14年6月、Wカップ・ブラジル大会が開幕。36歳のクローゼもW杯メンバーに選ばれ、4度目となる大舞台に臨む。初戦はミュラーのハットトリックでポルトガルに4-0と大差をつけたため、クローゼの出番は訪れなかった。

第2戦の相手はガーナ。後半51分にマリオ・ゲッツェのゴールで先制するも、その後立て続けに得点を許して逆転されてしまう。69分、ドイツはゲッツェに代えてクローゼを投入。その2分後、トニ・クロースのCKがファーに流れたところを、クローゼが右足で押し込んで同点ゴール。ロナウドのW杯通算最多記録に並ぶ15得点目で、試合を引き分けに持ち込んだ。

最終節ではクリンスマン監督率いるアメリカを1-0と打ち破り、グループ1位突破。ベスト16ではハリルホジッチ監督率いるアルジェリアを2-1と退け、クローゼが先発に復帰した準々決勝ではデシャン監督率いるフランスを1-0と撃破。準決勝はホスト国ブラジルとの対戦となった。

優勝候補のブラジルはエースのネイマールが負傷離脱、主将のチアゴ・シウバが累積警告による出場停止と手負いの状態だった。ドイツは開始11分にミュラーのゴールで先制すると、23分にはクローゼが自らのシュートの跳ね返りを押し込んで追加点。W杯記録更新となる16ゴール目でチームに勢いをつけた。

このあとドイツは次々とブラジルのゴールへ襲いかかり、終わってみれば7-1の歴史的大勝。セレソンとブラジル国民を「ミネイロンの惨劇」と呼ばれた絶望の淵に突き落とした。

ついに世界一へ

決勝の相手となったのはアルゼンチン。“アルゼンチン・キラー” で知られるクローゼも、ワントップとして先発のピッチに立った。

前半はメッシを中心としたアルゼンチンのアグレッシブな仕掛けに守勢となるが、後半は落ち着きを取り戻して反転攻勢。しかし均衡が破れないまま、試合は終盤戦へと進んだ。終了直前の88分、ドイツはクローゼに代えてゲッツェを投入する。

決勝は3大会連続の延長となり、その後半の113分、シュールレが左サイドをドリブル突破しクロス。ゴール前に走り込んだゲッツェが胸トラップからのボレーシュートを決めた。

こうしてドイツが24年ぶり4度目となるW杯優勝を達成。12年間マンシャフトのエースストライカーを務めてきたクローゼは、ついに世界一の栄冠を手にした。

W杯終了後の8月、ドイツ代表からの引退を発表。14年間の代表歴で刻んだ137キャップは、ローター・マテウス(150キャップ)に続く同国歴代2位。71ゴールはゲルト・ミュラー(68ゴール)を越え歴代1位である。

指導者としてのセカンドキャリア

ラツィオでは5シーズンをプレーしたあと、16年5月に退団を発表。ラツィオで挙げた通算64ゴールは、クラブの外国人最多得点記録となった。このあとMLSや中国のクラブからのオファーが舞い込むが、同年11月には正式に現役引退を表明する。

引退後は指導者の道に進み、16年11月にはコーチングスタッフとしてドイツ代表入り。18年ロシアW杯にも参加した。18年5月にはバイエルン・ミュンヘンのU-17ユース監督に就任。20年7月からはハンジ・フリック監督(現ドイツ代表監督)のもとでトップチームのアシスタントコーチを務めるが、病気療養のため21年にバイエルンを退団した。

そのあと健康を取り戻し、22年6月にはラインドルフ・アルタッハ(オーストリア1部)の監督に就任。初采配となるオーストラリアカップのTWLエレクトリア戦で勝利を挙げ、順調なスタートを切っている。

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