《 サッカー人物伝 》 アリエル・オルテガ

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「マラドーナになれなかった男」 アリエル・オルテガ ( アルゼンチン )

165㎝の小さな身体を活かしたスピードある切り返しと、緩急の効いたボール運びで相手ディフェンスラインを切り裂さいた天才ドリブラー。その切れ味あるプレーで「ポスト・マラドーナ」と期待され、アルゼンチンの10番を背負った選手がアリエル・オルテガ( Ariel Arnaldo Ortega )だ。

若くして名門リーベル・プレートの中心選手となり、代表ではアトランタオ・リンピックで活躍、銀メダル獲得にも貢献している。94年のワールドカップでは、途中でベンチに下がったマラドーナと入れ替わるように登場し、新旧交代を印象づけた。

しかし移籍した欧州のクラブでは自分の意見を曲げない性格でレギュラーを外されることも多く、あまり目だった活躍を見せることが出来なかった。その後アルコール依存症にも苦しみ、キャリアの後半はトラブル続きの選手生活となる。


オルテガは1973年3月4日、アルゼンチン北東部国境のフフイ県にある山岳地帯の村レデスマで生まれた。父親は職業軍人で、オルテガはその父から付けられた「エル・ブリート(ロバくん)」という愛称を、大人になってもアリエルの代わりに使い続けたほど大事にした。

勉強嫌いのオルテガはサッカーひと筋、やがて彼のドリブルはフフイ2部チームの大人を簡単に抜き去るほどになっていた。そして15歳で名門リーベル・プレートの入団テストを受け、1600キロ離れた首都ブエノスアイレスでの寄宿舎生活が始まる。

最初はホームシックにかかるなど慣れない環境に苦しんだオルテガだが、4部リーグで活躍を見せ始めると、監督ダニエル・パサレラの目にとまって17歳でトップチームへ昇格する。すぐにリーベルの主力に成長し93年後期のリーグ優勝にも貢献するが、ボールを持ちすぎてチャンスを逸することも多く、ファンからの非難も浴びている。

アルゼンチン代表には93年12月に初招集され、15日のドイツ戦でデビューを果たす。そして翌94年のWカップ・アメリカ大会には、南米予選を戦っていないオルテガが20歳でメンバーに選ばれている。チーム最年少だった彼の出番は、G/L第1節ギリシャ戦で3-0となった83分から。この試合でゴールを決めたマラドーナとの途中交代だった。

次のナイジェリア戦後、ドーピング検査でマラドーナの尿から違法薬物が検出される。アルゼンチンはマラドーナをチームから外し、その代役を若いオルテガが務めることになった。アルゼンチンは決勝トーナメント1回戦でハジ擁するルーマニアに2-3と敗れてしまうが、前線で何度もチャンスをつくったオルテガは次世代スターとして注目されるようになる。

このあとオルテガはマラドーナの10番を引き継ぐが、アルゼンチンの偉大な英雄と比べられることは彼の重荷となっていく。

95年にラモン・ディアスがリーベルの監督に就任。オルテガはリーベルに復帰したフランチェスコリとともにチームを引っ張り、96年のコパ・リベルタドレース杯(南米クラブ選手権)優勝に貢献する。同年のトヨタカップではデル・ピエロ擁するユベントスと対戦、惜しくも0-1で敗れた。

96年、アトランタ五輪に出場。マルセロ・ビエルサ監督率いる五輪代表の中心として、銀メダル獲得に大きな役割を果たした。97年には元アルゼンチン代表のホルヘ・バルダーノに呼ばれ、彼が監督を務めるスペインのバレンシアに移籍する。

しかしバルダーノ監督は成績不振で解任。後任のクラウディオ・ラニエリ監督とは、プレー内容や練習への態度を巡って衝突し、レギュラーから外されてしまう。だがパサレラが監督を務めるアルゼンチン代表ではチームの中核を担い、南米予選1位でワールドカップへの出場を果たした。

98年Wカップ・フランス大会、アルゼンチンは初戦の日本から確実に勝ち星を挙げると、第2節の試合ではオルテガの2得点とバティストゥータのハットトリックで5-0とジャマイカを粉砕、早くもG/L突破を決めた。

決勝T1回戦では因縁のイングランドと対戦、2-2で折り返した後半にベッカムが一発退場となる。だが守りを固めたイングランドを攻めあぐね、試合は延長PK戦に突入、どうにか準決勝に勝ち上がった。それでもオルテガはここまで好調、個人技を軸とした中央からの攻撃でチームを引っ張っていた。

そして準々決勝はオランダとの戦い。開始12分にクライフェルトの先制弾でリードされたアルゼンチンだが、その5分後にC・ロペスが同点ゴール、試合は熱戦となった。だが後半に入った77分、オランダのヌーマンが2枚目の警告で退場、流れはアルゼンチンに傾いた。

試合終盤の87分、浅いラインをかいくぐってオルテガがドリブルでPAに侵入、スタムの出した足にオーバーアクションでダイビングした。主審の判定はシミュレーション、その行為を咎めようと近づいてきたファン・デル・サールの顎に、こともあろうに頭突きをお見舞いしてしまう。

当然オルテガはレッド・カードで退場。その直後の89分、ベルカンプの美技によるオランダの決勝点が生まれた。この愚かな行為にはアルゼンチン国民から非難の声が上がり、オルテガは敗戦の戦犯とされたのである。

Wカップ終了後にはセリエAに戦いの場を移すが、所属したサンプドリアとパルマでは目立った活躍を見せられなかった。2000年にリーベルへ復帰すると、調子を取り戻したオルテガは若手のアイマールやサビオラとともに活躍しリーグ優勝に貢献した。

02年6月、Wカップ・日韓大会に出場。南米予選を圧倒的な強さで勝ち抜いてきたビエルサ監督のアルゼンチンチームは、前回王者フランスと並ぶ優勝候補と目されていた。だが「死のグループ」と呼ばれたF組でイングランドの返り討ちに遭うなど、その力を発揮できずにG\L敗退を喫してしまう。

29歳のオルテガはG/L3試合にフル出場したが、往年のスピードには衰えが隠せず、さほど効果的なプレーを見せることなく大会を終わってしまった。

02年10月、4年契約でトルコのフェネルバフチェへ移籍、しかし環境に馴染めず半年で無断帰国してしまう。オルテガの契約違反に激怒したフェネルバフチェは彼に多額の違約金を請求、騒動は泥沼化し、ついにはFIFAが介入することになる。

オルテガには長期の公式戦出場停止処分が下され、フェネルバフチェへの違約金1100万ドルの支払いも課せられた。プレーへの意欲を失ったオルテガは現役引退を表明。しかし04年にアルゼンチン1部リーグのニューウェルズがフェネルバフチェへ移籍金350万ドルを支払うことで和解が成立し、オルテガは現役に復帰した。

06年に古巣のリーベルへ復帰。だがオルテガは長年アルコール依存症に苦しんでおり、リハビリ治療にも取り組むがその克服にまでには至らなかった。07年、代表で長くともに戦ったシメオネがリーベルの監督に就任。練習中も酒の匂いを漂わせるオルテガに対し、シメオネは「試合で使うわけにはいかない」と厳しい姿勢を見せる。

リーベルとの関係も悪化したオルテガは古巣を離れいくつかのクラブを渡り歩くが、アルコールを断ち切ることが出来ず、どんどん活躍の機会を失っていった。10年、マラドーナ監督に呼ばれてアルゼンチン代表へ3年ぶりの復帰、親善マッチを1試合だけプレーしている。15年、3部リーグのD・ベルグラーノでのプレーを最後に、42歳で現役引退した。

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