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《 サッカー人物伝 》 スタンリー・マシューズ

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「イングランドの鉄人」スタンリー・マシューズ(イングランド)

右サイドをドリブルで進み、中に入ると見せかけて右足アウトサイドで外へ出る。分かっていてもボールを奪えない、この “マシューズ” と名付けられた絶妙なフェイント技で、多くのディフェンダーを悩ました「ドリブルの魔術師」が、スタンリー・マシューズ( Stanley Matthews )だ。

マシューズは第二次世界大戦の戦前、戦後を通して長くイングランドの一級選手として活躍しただけではなく、その高潔な人格とフェアプレー精神、規律正しい生活から多くの人から敬愛され、サッカー選手として初めてナイトの称号を授かった。

その名声とは裏腹にビッグタイトルとは縁がなかったが、53年のFAカップ決勝で大逆転劇の立役者となり初の栄冠を獲得。この試合は「マシューズ・ファイナル」と呼ばれた。そして56年に始まったバロンドール賞の第1号受賞者となったが、この賞自体がマシューズのために創られたと言われている。

若き日の活躍

マシューズは1915年2月1日、イングランド中部にあるストーク・オン・トレントのハンリーで4人兄弟の3男として生まれた。理容師をしていた父親ジャックは、「ファイティング・バーバー」として知られるプロボクサーでもあり、厳しいトレーニングを受けた少年マシューズは、頑丈かつ俊敏な身体に育っていった。

父は息子が自分の足跡をたどってボクサーになることを望んだが、マシューズはスクールサッカーに熱中、13歳でサッカー選手になると決意する。母エリザベスはそんな息子を応援、ついに父親も熱意に折れて、彼が学生代表チームに選ばれる事を条件にサッカーを続ける事を認める。

そして29年に学生代表へ選ばれ、FWとしてウェールズ戦に出場。マシューズのサッカー選手としてのキャリアが始まった。マシューズのプレーはたちまち各クラブからの関心を呼び、2部リーグに所属していた地元のストーク・シティにスカウトされる。ちなみにストーク市は陶器産業の里だったため、チームは「ポッターズ(陶芸家)」の愛称で呼ばれていた。

30年~31年までリザーブリーグでプレー、この時代にマシューズは代名詞となったフェイントの技を磨く。そして17歳となった32年にストークと正式なプロ契約を結び、新人ながら15試合に出場。チームの2部リーグ優勝と1部リーグ昇格に貢献する。

そして34年に19歳でイングランド代表へ選出され、ウェールズ戦で初キャップを記録。このデビュー戦で得点を決め4-0の勝利を飾った。そして代表の第2戦では、第2回W杯を制した世界王者イタリアと対戦、マシューズはクロスで先制点をアシストし、3-2の勝利に貢献する。

翌35年12月の第3戦ではナチス時代のドイツと対戦し3-0と勝利。しかしこの試合、ドイツの名選手ラインホルト・ミュンツェンベルクに攻守ともに子供扱いされ、若いマシューズは何も出来ずに終わってしまった。マスコミからはその未熟さを非難され、このあとしばらく代表に呼ばれなくなってしまう。

当時イングランド代表には監督がおらず、協会が選手を選んで、キャプテンを中心に選手自身が戦い方を決めるというやり方だった。そのため代表には組織的な強化方針や、若手に経験を積ませて育てようという発想もなかったのである。

戦時下で過ごした選手としてのピーク

1部昇格後は毎年10位前後と成績が振るわなかったストークにあって、マシューズは成長を続けた。役割を点取り屋からチャンスメーカーにシフトし、35-36シーズンにはチーム最多となる45試合に出場。10得点を記録し、過去最高成績となるリーグ4位に大きく貢献する。翌36-37シーズンも42試合に出場、7得点を挙げている。

しかし約束したボーナスが満額支払われなかったり、やっかみで悪評を立てられたりしたことからクラブとの関係は悪化、38年には移籍を志願する。しかしストーク会長アルバート・ブースの説得と、3000人サポーターの引き留め運動に心を動かされ翻意、ポッターズでプレーを続けることになった。

代表には37年4月のスコットランド戦で復帰。そのあと行われたチェコスロバキア戦でハットトリックを記録し5-4の勝利に貢献、ようやく代表の主力となった。38年には帝国ドイツへの遠征試合が行われ、その道行きの列車の中で、イングランドチームはFA(英国サッカー協会)と政府から、宥和政策のため試合前にナチス式敬礼をするよう通告される。

このことに奮起したイングランド代表は、敵地で6-3と勝利。マシューズもミュンツェンベルクへの雪辱を果たし、得点を挙げて汚名を返上した。

39年に第二次世界大戦が勃発、リーグ戦は途中中断を余儀なくされてしまう。マシューズは空軍に招集され、体育教官としてブラックプールへ配属。戦時中ではあったが臨時的なウォータイム・リーグ(戦時下リーグ)とカップ戦が行われ、マシューズは24歳から30歳という選手のピークを赴任地のブラックプールFCでプレーした。

バーンデン・パークの惨事

戦争が終わると、46年に公式戦が再開する。3月のFAカップ準々決勝、ストークは敵地バーンデン・パークでボルトン・ワンダラーズとの試合を行った。集まった観客は、会場の収容数をはるかに越える8万5千人。ゲーム開始間もなく溢れた観客はピッチに押し出され、粗雑な造りのスタンドが崩壊。33人が死亡、500人以上が負傷するという大惨事が起きてしまう。

これほどの惨事にもかかわらず、遺体と怪我人をスタンドの外に運び出して試合は30分後に再開。そんな悲惨な状況で試合が続行されたことに、マシューズは「うんざりした」と語り、このあと災害基金への寄付を行っている。

46-47シーズンはストークでプレーしたが、クラブとの関係はあまり良好ではないままだった。マシューズは経営幹部に移籍を再度要求し、ついにそれが認められて、47-48シーズンにはウォータイム・リーグでプレーしたブラックプールFCへ移籍することになった。

すでに32歳になっていたベテラン選手の活躍を疑う声もあったが、節制と徹底的な体調管理でコンディションを維持し続けたマシューズは、ブラックプールの若い選手をサポート、チームを48年FAカップの決勝へ導く。決勝では、名将マット・バスビー率いるマンチェスター・ユナイテッドに2-4と敗れ、優勝はならなかったが、マシューズは同年に創設されたFWA年間最優秀選手賞に選ばれた。

ワールドカップ史上最大の番狂わせ

50年、ブラジルで開催されるWカップ大会に、孤立主義を貫いていたサッカーの母国イングランドが初めて参加することになった。35歳となっていたマシューズは一番最後メンバーに選ばれ、はるばる太平洋を客船で渡り、遠く離れた南米の地へ向かった。

イングランドは初めてフルタイム契約の代表監督を置き、マシューズのほか、トム・フィニー、ビリー・ライト、アルフ・ラムゼー(後のW杯優勝監督)らの名選手を揃え、サッカーの母国という権威も保ったままで、大会の優勝候補筆頭に挙げられていた。

1次リーグ初戦ではチリと対戦。マシューズは出場しなかったが、イングランドは2-0の勝利で順調なスタートを切る。第2戦ではアメリカと対戦、またもやピッチにマシューズの姿はなかった。当時国内リーグもなかったアメリカは、英国移民などのセミプロやアマチュア選手をかき集めた傭兵集団。イングランドとまともに戦える、と考える者さえいなかった。

しかし体格だけは良いアメリカの守りは堅く、一方的に攻めるもGKボルギが好セーブ。またシュートがバーやポストに阻まれるという不運が続き、イングランドはどうしても得点を挙げることが出来なかった。そして一瞬の隙が生まれた38分、アメリカのバールが放ったシュートが、ゲーチェンスの頭に当たりゴール。イングランドは思わぬ失点を喫してしまった。

後半はロングボールを放りこんで反撃を図るイングランドだが、アメリカはFW1人を前線に残して必死の防戦、ついに試合は0-1で終了した。優勝候補のイングランドが、大会最弱国と見られていたアメリカに敗北するという、「ワールドカップ史上最大の番狂わせ」が起きてしまったのだ。

決勝リーグ進出が懸かった最終節のスペイン戦に、ようやくマシューズが初出場。マシューズのプレーは決して悪くはなかったが、イングランドの一度狂った歯車は元に戻らず、スペインに0-1の敗戦、最下位で1次リーグ敗退となってしまった。サッカーの母国は、孤立主義を貫くうちに世界の潮流から取り残されていたのだ。

「マシューズ・ファイナル」

53年5月3日、3度目のFAカップ決勝に進んだブラックプールは、ウェンブリー・スタジアムでボルトン・ワンダラーズと戦った。ちなみにこの決勝は、英国で最初にテレビ放送されたスポーツイベントとなった。試合は開始75秒でワンダラーズが先制、だが35分にモーテンセンのゴールで同点とする。その4分後にワンダラーズが勝ち越し弾、ブラックプールは1点のビハインドで前半を終えた。

後半に入った55分、ワンダラーズに追加点が生まれ、ブラックプールは1-3と劣勢に追い込まれてしまう。それでも終盤が近づいた68分、マシューズが右サイドを突破して中央へクロス、モーテンセンが1点を返す。終了直前の89分、マシューズが絡んでブラックプールはFKのチャンス。それをモーテンセンが決め、ハットトリックで3-3の同点とした。

その僅か数十秒後、再びマシューズが右サイドからクロス、今度はビル・ペリーが合わせて土壇場での逆転弾を決めた。試合はこのままタイムアップ、4-3と劇的な逆転勝利を収めたブラックプールが初の栄冠に輝き、38歳のマシューズは優勝の立役者となった。

これが長年人気選手として活躍したマシューズ初のビッグタイトルとなり、この決勝はファンやマスコミから「マシューズ・ファイナル」と呼ばれるようになる。だがマシューズ自身は「率直に言って、これはモーテンセンの決勝と言うべきだ」と謙虚に語っている。

スイス・ワールドカップ

53年11月、イングランドはヘルシンキ五輪の金メダルで勢いに乗る、「マジック・マジャール」ことハンガリーチームをウェンブリー・スタジアムに迎えて、FA創立90周年記念の親善試合を行った。ハンガリーは凄さましい攻撃力で6点を奪取、イングランドはマシューズの奮闘で3点を返すのがやっとだった。

90年の歴史を持つイングランド代表は、聖地ウェンブリー・スタジアムで初の敗北、この結果は世界に衝撃を与えた。それでもマシューズは、2得点を挙げた敵主将プスカシュに素直な賛辞を送っている。イングランドは翌年ブダペストに遠征(マシューズは不参加)、またもや1-7と返り討ちに遭ってしまった。

54年、Wカップ・スイス大会が開幕。1次リーグのベルギー戦に出場したマシューズは、39歳とは思えない動きでチャンスをつくり出し、イングランドの4ゴールに大きな役割を果たした。しかし後半イングランドの守備が破綻、終盤に3失点して4-4と引き分けてしまった。

それでもイングランドはベスト8に進出、準々決勝で前回チャンピオンのウルグアイと対戦する。開始5分でウルグアイが先制。だがその10分後、マシューズのスルーパスから同点ゴールが生まれた。しかし38分にウルグアイのバレラが勝ち越し弾、後半開始直後にもスキアフィーノの追加点を許してしまった。

するとマシューズは右ウィングに留まらず、中盤やFWにも顔を出して攻撃を活性化、68分にはトム・フィニーのゴールで1点差とした。さらに直後にはマシューズが強烈なシュート、これは惜しくもポストに弾かれてしまう。このあとウルグアイにダメ押し点が生まれて2-4の敗北、しかしこの試合は今大会屈指の好ゲームとなった。

初代バロンドール受賞者

56年、第1回のバロンドール(欧州年間最優秀選手)賞を受賞。そして翌57年5月のデンマーク戦を最後に、代表から退くことになった。42歳102日での代表出場は、史上最年長記録である。戦争を挟んだ23年間で、54試合出場、11得点の記録を残した。

ブラックプールでは61年までプレー、61-62シーズンは当時2部落ちしていたストークに復帰する。かつての英雄の帰還にポッターズの人気は復活、成績も上昇して63-64シーズンは1部リーグへの再昇格を果たす。その功績により、48歳のマシューズは2度目のFWA年間最優秀選手賞を受賞した。

65年1月、サッカー選手として初めてナイトの称号を贈られ、“サー・スタンリー・マシューズ” と呼ばれることになる。同年2月、フラム戦を最後に選手生活35年のキャリアを終えた。マシューズが50歳になってもトップリーグでプレー出来たのは、日頃の体調管理と長年続けた鍛錬のたまものであった。

またマシューズはそのキャリアの間で一度も警告を受けたことがなく、人々の尊敬を集めた彼の引退試合には、ディ・ステファノ、プスカシュ、ヨゼフ・マソプストレフ・ヤシンといった世界の名手が集まっている。

現役引退後はアフリカを中心に世界を巡り、サッカーの普及に尽力。2000年2月23日に死去した。享年85歳だった。

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