《 サッカー人物伝 》ラモス瑠偉

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「カリオカの戦い」 ラモス瑠偉 ( 日本 )

20歳で来日したラモス瑠偉( Rui Gonçalves Ramos sobrinho )は、ブラジルスタイルで一時代を築いた読売クラブの象徴的存在となり、長いキャリアを過ごした日本サッカー界に大きな足跡を残した。

JSL(日本サッカーリーグ)では5回の優勝を果たし、得点王2回、アシスト王3回を獲得。天皇杯も3度優勝するなど、多くのタイトルを手にした。その後プロ化したJリーグでも、ヴェルディ川崎の中心選手として活躍する。

89年に帰化し、90年には33歳で日本代表入り。オフトジャパンの司令塔となり、ダイナスティカップ(現、E-1選手権)優勝とアジア・カップ初制覇に貢献。Wカップ初出場を目指すアジア予選でもチームを牽引するが、「ドーハの悲劇」に涙を飲んだ。

サッカー狂いの「カリオカ」

ラモスは1957年2月、リオ・デ・ジャネイロから少し離れた山あいの町、メンデスで生まれた。フイ(ルイ)と呼ばれた少年は5人兄弟(2男3女)の4番目、小さい頃から草サッカーに熱中し、6歳でジュニアクラブに入会する。

たびたび授業をサボって小学校を留年するなど、親を悩ませるほどサッカーに打ち込んだラモスだが、12歳のとき父親が急死。一家は父親の勤めていた会社の社宅を出て、親戚を頼ってサンパウロに移り住んだ。

サンパウロに越してから、ラモスは新しい仲間に「カリオカ(リオっ子)」と呼ばれるようになる。そして彼のサッカー狂いは手はさらに加熱し、1週間になんと9~11もの試合をプレー。土日になればダブルヘッダーは当たり前、時には3試合をこなすこともあった。

足の早さでウィングを努めることが多かったラモスだが、CF、攻撃的MF、守備的MF、リベロと、どのポジションでもこなすオールラウンドな能力を発揮、「コリンガ(切り札)」のあだ名をつけられる。

サッカーで身を立てることを目指し、サンパウロ州だけで400もあるプロクラブの入団テストを受けるも、何度挑戦しても合格の声を聞くことはなかった。テクニックの高さは誰もが認めるところだが、「痩せっぽち」と呼ばれる身体の細さがプロ向きでないと見られたのだ。

有名クラブを一通り落ちた後、いとこのカルロスがプレーする無名クラブ、サージFCから誘いがかかる。75年、ラモスは18歳でサージFCに入団。報酬が少なかったため工事現場やガソリンスタンドで働きながら、大きなチャンスが訪れるのを待った。

日本でのチャンス

しかし20歳が近づいても燻ったままの状況で、次の移籍先を考えていたラモス。そんな彼に、降って湧いたような日本行きの話が持ち込まれた。

読売クラブで活躍するジョージ与那城が、77年1月にブラジルへ帰国。昔の仲間のツテを頼って新戦力をスカウトしにきたのだ。

ジョージとラモスの兄は旧知の仲、すぐに弟フィが候補に挙がった。月給18万、2年契約の条件は、月収5~6千円のラモスにとって魅力的な話。2年間日本で試合経験を積むつもりで、ラモスは「行きたい」と即答する。

77年4月、20歳のラモスはいとこのカルロスとともに来日。最初こそホームシックに陥ったが、フジタに在籍してた同郷の先輩にディスコやカフェバーに連れられると、たちまち大喜びして連日のように赤坂、六本木へ繰り出した。

新外国人選手に科せられた半年間の出場待機の期間を過ぎ、10月10日、2部リーグ第7節の帝人松山戦で日本公式戦デビュー。途中出場ながら早くも得点を決めた。

このあと、天皇杯で中断するまで2部リーグ5試合に出場して5ゴールをマーク。ラモスは日本サッカーに、「ブラジルの草サッカーよりひどい。ただ蹴って走るだけで、中盤がない」の印象を持ったという。

ラモスのリベンジ

リーグ戦が再開した78年1月14日、日産自動車(現、横浜Fマリノス)と対戦。試合は開始から乱戦模様で、ジョージが退場になるなど荒れた展開となった。

ゲームが後半の中頃に差し掛かったとき、ラモスとマーカーの坂木が空中戦で交錯。主審はピッチに倒れて痛がる坂木を見て、肘打ちの反則があったとしてラモスに警告を出す。

このとき、ニヤリと笑った坂木にラモスは激高。グラウンドの外周を逃げ回る坂木をラモスが追いかけ、スタンドで見ていたカルロスが審判に抗議をするという騒動になる。

ラモスは2枚目の警告で退場処分。試合はPK戦にもつれて日産が勝利する。だがこれは、ブラジルの草サッカーでよくある光景。暴力を振るった訳でも、乱闘が起きた訳でもなく、ラモスはせいぜい2試合の出場停止と高をくくった。

だがこの騒動が、実際に試合を見てもいないスポーツ紙に「喧嘩騒ぎ」と大げさに書き立てられ、運営事務局で大きな問題へと発展していく。

結局ラモスとカルロスに下された処分は、「出場停止1年」という予想以上に重いもの。このあとカルロスは香港のチームに移籍、ラモスもそのうち日本からいなくなるだろうと思われた。

だがラモスは試合に出られない中でも黙々と練習を続け、1部昇格を果たした読売でリベンジを果たす機会が来るのを待った。79年4月1日、シーズン開幕戦の古河電工(現、ジェフ市原)戦で復帰。開始僅か1分半で、復活を告げるゴールを決めた。

このシーズン、ラモスは大爆発。2試合連続ハットトリックを含む15試合14ゴール、7アシストを記録し、得点王とアシスト王をダブルで獲得する。ラモスの活躍で読売は優勝争いを演じ、JSLカップ(現、ルヴァン・カップ)を初制覇、専門誌主催のベストイレブンに選ばれる。

ラモス、ジョージ、そしてジャイロを加えた読売のブラジルスタイルは日本リーグに新風を吹き込み、高い技量によるパスやドリブルを駆使したサッカーは少年ファンを惹きつけた。こうしてラモスはリーグ屈指の人気者となっていく。

度重なるトラブル

日本での生活を満喫し始めたラモスは契約を延長、81年のシーズンもまずまずの成績を残した。だが翌81年、再び彼に試練が訪れる。

8月2日、バイクを運転していたラモスは出会い頭でタクシーと衝突、左脚のすねを複雑骨折してしまう。選手生命も脅かしかねない重傷に激しく動揺するが、後に妻となる初音さんの献身的な支えで辛い時期を乗り越える。

81年のシーズン後半を棒に振り、82年の開幕戦で復帰したものの、今度は膝の靱帯を痛めてしまって満足なプレーが出来なかった。

83年も体調不良で出遅れるが、シーズン後半に復調。同時にチームの成績も上昇カーブを描き、読売は最終戦を残して首位に立つ。

最終戦はフジタ工業との試合。2差で追う2位の日産がすでに3-0で完勝したという情報が入っており、優勝するためには勝利が絶対条件となった。

堅さが目立つチームは、いつもの力を出せずに攻撃陣が沈黙。後半に入ってフジタの先制を許し、読売は追い込まれてしまう。

72分、ジョージのパスを受けたラモスが、ゴール前の混戦から一瞬の隙を突いてループシュート。キーパーの頭上を抜き、同点弾が決まった。

81分にはまたもやラモスが逆転ゴール、その4分後には松木安太郎がダメ押し点を入れ、3-1と逆転勝ちした読売が悲願の1部リーグ初優勝を成し遂げた。ラモスは後半戦の9試合で7ゴールの大活躍、シーズン10得点で2度目の得点王に輝く。

84年6月には初音さんと結婚、翌年には長男が誕生する。来日8年目、27歳となったラモスは日本に根を張りつつあった。だが84年のリーグ戦の優勝争いが佳境を迎えた11月3日、読売とヤマハ(現、ジュビロ磐田)の試合で乱闘騒ぎが起こり、事件の中心人物と見られたラモスは3ヶ月の出場停止処分を受けてしまう。

日本サッカーの異端児と呼ばれた読売クラブは、リーグ運営側とたびたび対立。また報復行為や審判へのクレームが多かったラモスにも、厳しい目が向けられていた。3ヶ月停止という厳しい処分になったのには、こうした背景があったのだ。

攻撃の中心を欠いたチームは、シーズン後半戦の苦しい戦いを強いられるが、それでもどうにか逃げ切ってリーグ2連覇を達成。続く天皇杯も制して2冠に輝く。この後も読売は戦力を充実させてゆき、黄金期を迎えることになる。

一方、すっかり悪役イメージがついてしまったラモスだが、85年には与那城ジョージが引退、彼の持つ「ミスター・ヨミウリ」の称号を受け継ぐ。そして歳とともに彼の役割も、点取り屋からゲームメイカーへと移行していった。

日の丸をつけた “ラモス瑠偉”

86年、クラブの外国人枠を空けるという理由により、読売のフロントから帰化を勧められる。一旦その話は断ったものの、家族のことも考えて半年後に日本での永住を決意する。

こうして日本への帰化申請を行うが、手続きや審査に時間がかかり、ようやく “ラモス瑠偉” の名前で日本国籍を取得したのは89年の11月だった。

翌90年の春、横山謙三監督率いる日本代表に33歳で初招集。膝の手術のためしばらく試合出場を控えたが、ブラジル帰りの三浦知良とともに、9月の北京アジア競技大会でデビューを飾った。

ラモスと三浦カズはすぐに代表の中心的存在となり、キリンカップに優勝するなど横山ジャパンは徐々に変化の兆しを見せる。だが91年7月の日韓定期戦で敗戦を喫したことから、横山監督は解任となる。

92年3月、オランダ人のハンス・オフトが日本代表監督に就任。徹底した管理主義を敷くオフトに選手たちは反発し、ラモスも「俺には監督のやり方は合わない。もっと自由にやりたい」と不満を募らせる。

だが8月のダイナスティカップで優勝という結果を出すと、代表の見違えるような成長は “オフト・マジック” と呼ばれ、自身をつけた選手たちは監督に信頼を寄せるようになる。

一人納得していなかったラモスだが、雑誌に載った監督批判の記事をきっかけにオフトと話し合い、キャプテン柱谷哲二の説得もあって自ら歩み寄る姿勢を見せていく。

10月末、アジアカップ広島大会が開催。オフトジャパンは激戦続きの試合を勝ち抜き、ついに決勝へ進出。サウジアラビアを1-0と破り、初のアジアチャンピオンに輝く。

ラモスは、体調不良でベンチスタートとなったイラン戦以外の4試合でフル出場、攻撃の起点となり初優勝に貢献した。

こうして日本のWカップ初出場への期待が高まり、93年4月にWカップ・アメリカ大会のアジア地区第1次予選が開始。順調に勝ち星を重ねたオフトジャパンは、7勝1分けのトップで最終予選への進出を決めた。ラモスは5月5日のスリランカ戦で代表初ゴールを記録、「日本をアメリカに連れていく」と公言するようになった。

Wカップ・アメリカ大会 アジア最終予選

1次予選終了直後の5月15日、国立競技で行われたヴェルディ川崎と横浜マリノスの開幕戦でJリーグが幕開け。ラモスも90年の移籍騒動を経て晴れ舞台のピッチに立つが、ゲームは1-2の逆転負けを喫してしまう。

その後もリーグ戦は大きな盛り上がりを見せるも、週2試合、延長Vゴール方式という過酷なシステムに次第に選手たちは疲弊してゆく。ヴェルディの都並敏史も過密日程で無理をし、足首の亀裂骨折で戦線離脱となってしまう。

ベテランながら、左サイドバックでキーマンとなる都並は、オフトジャパンでも替えの効かない存在。復帰を待ちながらも代表スタッフは代役探しに奔走するが、ついに間に合わず、不安を抱えながらアジア最終予選に臨むことになった。

93年10月15日、カタールのドーハで出場2枠を懸けたWカップ・アジア最終予選が開始。初戦はサウジアラビアとスコアレスドロー、強敵相手の引き分けはまずまずのスタートと報じられた。

しかし日本の慎重すぎる戦いに、ラモスは「今日の引き分けは、負けに等しい」と厳しい表情でコメントする。

その悪い予感が当たり、次のイラン戦では左SBの弱点を突かれ、1-2の敗戦を喫してしまう。後がなくなった日本は左SBに守備専門の勝矢を置き、好調な選手を並べた3トップの布陣で第3戦の北朝鮮戦に臨んだ。

この策が当たり、北朝鮮戦は3-0の快勝。次の韓国戦は、累積警告で中盤の要、森保を出場停止で欠くも、ラモスがボランチの代役を務め、エースのカズによるゴールで宿敵に1-0の勝利を収める。こうして日本は、最終戦を残して予選1位に浮上した。

最終戦は、ほとんど予選突破の望みがなくなった4位イラクとの試合。まるでWカップ出場が決まったかのように浮かれる報道陣に、ラモスは「まだ終わったわけじゃない。これからだ」と険しい顔を見せた。

神様の与えた試練

10月18日の16時15分、ドーハのアルアリ・スタジアムでキックオフの笛が吹かれた。開始5分、長谷川のシュートの跳ね返りを、カズが頭で押し込んで日本が先制する。

だがイラクはひるまず反撃を開始、激しい当たりの攻撃を仕掛けてきた。何度も危険な場面を迎えるが、日本寄りのジャッジにも助けられて、リードを保ったまま前半を終える。

後半もイラクの波状攻撃は止まらず、ついに55分に同点とされてしまう。なおも日本の厳しい時間が続くが、69分、中山の動き出しにラモスがタイミングを見計らった絶妙のパス、勝ち越し弾が決まった。

残り20分、日本のWカップ初出場が近づくが、イラクの猛攻に選手たちは疲労困憊、ほとんど気力だけで動いていた。ラモスはベンチに運動量豊富な北澤の投入を訴えるが、84分に中山と替わって出てきたのはFWの武田だった。FWの枚数を減らしてしまうと、却ってイラクのプレッシャーを強めてしまうとオフトは考えたのだ。

試合が90分を過ぎようとしたとき、ラモスのミスパスからボールを奪われ、イラクにCKのチャンスを与えてしまう。右からのクロスに備える日本、だがイラクの選択はショートコーナーだった。

不意を突かれる選手たち。勝矢も、井原も、柱谷も、そしてGKの松永も、固まったように動きが止まってしまい、フリーで同点弾を許してしまった。

一斉にピッチ崩れ落ちる選手たち、どうにか立ち上がるが、直後に笛が吹かれ2-2で試合は終了した。他会場の結果により日本は3位に転落、Wカップ初出場の夢は寸前で彼らの手をすり抜けていった。

ラモスは一晩中この敗戦について考え、「これで何かを失ったんじゃない。神様が自分たちに試練を与えたのだ」と思うようになった。

ラモスはこのあと加茂ジャパンにも招集され、日本代表では95年までプレー。代表キャップ32を刻んでいる。

ヴェルディでも中心選手として活躍するが、96年には京都サンガに移籍。1年で古巣に戻り、98年に41歳で現役を引退する。日本の22年で、JSL1部では210試合69得点、Jリーグでは147試合9得点の記録を残した。

引退後はビーチサッカー日本代表監督などを努め、指導者として活躍中である。

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