「 オレンジ軍団のロードランナー 」 マルク・オーフェルマルス ( オランダ )
自慢の快速を飛ばし、俊敏な抜け出しから精度の高いクロスを送ったオランダのウィンガー。左右両足を使えて得点能力も高く、中央に切れ込んでのシュートも得意とした。サイドを切り裂く高速ドリブルは誰も止められず、休みなく疾走する雄姿から「ロードランナー」の異名で呼ばれたのが、マルク・オーフェルマルス( Marc Overmars )だ。
ルイ・ファン ハール監督にその才能を見込まれ、92年に移籍したオランダの名門アヤックスで活躍。若き俊英を揃えた90年代黄金期のチームで左ウィングを務め、リーグ優勝3回、CL制覇1回など数々のタイトル獲得に貢献。アーセナルやバルセロナでも活躍したが、キャリアの後半生は怪我に苦しんだ。
20歳でオランダ代表に選ばれ94年のアメリカW杯に出場。ベスト8進出に貢献する働きを見せ、大会の最優秀若手選手賞に輝く。ユーロ96と98年W杯の出場は果たせなかったが、ベスト4入りした98年W杯、ユーロ2000、ユーロ04でオレンジ軍団の攻撃を支えた。
オーフェルマルスは1973年3月29日、オランダ中央部ヘルダーラント州のエムスト村に生まれた。祖父が小さなジャガイモ畑を持っていたため、育ち盛りには毎年の収穫期に駆り出され、腰に巻いたロープで作業用のカートを引っ張る仕事を手伝った。この少年時代の農作業で、オーフェルマルスの足腰は鍛えられていった。
小さい頃からサッカーに熱中し、朝食の時間には頭でボールをリフティングしながら階段を降りてきたという。5歳のときに入団したSVエペで本格的な競技を開始。あふれる才能を発揮して頭角を現し、14歳で古豪クラブのゴー・アヘッド・イーグルスに入団する。
17歳でトップチーム昇格。エールステ・ディヴィジ(2部リーグ)の11試合に出場すると、すぐにそのスピードとテクニックが注目されるようになる。すると翌91年には10代の若手として異例となる高額の移籍金が支払われ、エールディヴィジの中堅クラブ、ヴィレムⅡへ引き抜かれた。
ヴィレムⅡではたちまちレギュラーの座を獲得し、91-92シーズンはリーグ戦31試合に出場。するとその活躍がアヤックスの監督であるルイ・ファン ハールの目に止まり、さらに高額の移籍金が動いて、92年7月にはアムステルダムの名門クラブへ加わることになった。
移籍1年目の92-93シーズン、リーグ戦の全34試合にスタメン出場して3ゴールを記録。エールディヴィジは3位にとどまったものの、KNVBベーカー(オランダカップ)では7季ぶりの優勝。左ウィングを努めたオーフェルマルスは決勝のヘーレンフェーン戦で2得点を挙げるなど、5試合4得点の活躍で優勝の立役者となった。その活躍により、92年の最優秀若手選手賞に選ばれる。
93-94シーズンはエースのベルカンプが抜けてしまったものの、ダーヴィッツ、セードルフ、リトマネン、ファン デルサールらファン ハール監督の育てた若手たちが躍動。オーフェルマルスは新加入のフィニディ・ジョージと両翼で快足コンビを組み、リーグ戦34試合12ゴールと大活躍。アヤックスの4季ぶりとなるエールディヴィジ優勝に貢献し、オランダ年間最優秀選手賞に輝く。
代表初招集は93年2月。W杯欧州予選のトルコ戦で先発デビューすると、開始4分に代表初ゴールとなる先制点を記録。3-1の勝利に貢献した。そのあとのイングランド戦でも、貴重なPKをゲットするなど予選2位突破に寄与。代表のウィングに定着した。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。21歳のオーフェルマルスもW杯メンバーとして出場した。初戦はサウジアラビアに2-1と勝利し、第2戦はベルギーに0-1の完封負け。最終節でモロッコを2-1と下し、大混戦となったグループを2位で勝ち上がった。
トーナメントの1回戦はアイルランドと対戦。開始11分、アイルランドの出した中途半端なバックパスを、オーフェルマルスが猛然とダッシュしてインターセプト。ベルカンプの先制点をアシストした。41分にも相手のミスを突き追加点。オランダが2-0の快勝を収める。
準々決勝の相手は優勝候補のブラジル。オランダはロマーリオとベベトーのゴールで2点をリードされるも、後半の64分にベルカンプのゴールで1点差。76分にはオーフェルマルスのCKから同点弾が生まれ、試合を振り出しに戻す。
しかし終盤の81分、ブラジル左SBのブランコに強烈なFKを決められ失点。オランダは食い下がったものの2-3と敗れ、ベスト8で大会を去った。
それでもオーフェルマルスの「ロードランナー」と呼ばれるスピード突破は観る者を魅了し、大会の最優秀若手選手賞に選ばれる。
94-95シーズンも28試合8ゴールと好成績を残し、リーグ2連覇に貢献。レギュラークラスの大半を24歳以下が占め「ヤング・アヤックス」と呼ばれたチームを、ライカールトとダニー・ブリントのベテラン二人が牽引。エールディヴィジで27勝0敗(7引き分け)という無敵優勝を成す。
さらにチャンピオンズリーグのグループステージでは、前年王者の強豪ACミランに2連勝するという快挙。そして決勝ステージも快調に勝ち上がり、クライフ時代以来24季ぶりとなるファイナルへ進出。決勝の相手となったのは、グループステージの雪辱を期すミランだった。
3度目の対決は、大舞台の経験に勝るミランにゲームをコントロールされ、試合終盤まで0-0。しかし後半終了の近づいた85分、ライカールトのパスに抜け出した18歳のクライファートが殊勲の決勝ゴール。オーフェルマルスは決勝までの全11試合に出場し、4度目のCL優勝に大きく貢献した。
さらにこの年の12月には、東京で開催されたトヨタカップに出場。フェリペ・スコラーリ監督率いるグレミオをPK戦で下し、クラブ世界一のタイトルも手に入れる。
こうして世界屈指のウィンガーとなったオーフェルマルスには、欧州の有名クラブからオファーが殺到するが、95-96シーズンはアヤックスへの残留を表明する。だがシーズンも折り返しに差し掛かった95年12月、試合中に相手DFのタックルを受けて左膝前十字靱帯断裂の重傷。ここまで15試合11得点と絶好調だったオーフェルマルスは、シーズン後半の長期離脱を余儀なくされる。
それでもアヤックスはリーグ3連覇を達成。CLも2年連続でファイナルに進むが、オーフェルマルスが不在となった決勝は、ユベントスと1-1の延長のすえPK戦負け。2年連続の戴冠はならなかった。
翌96-97シーズンの開幕間もない8月、AZ戦で戦線復帰。この頃から選手の権利が認められた「ボスマン裁定」の結果を受けて、EU圏内の移籍が活発化。若手有望選手の宝庫だったアヤックスはビッグクラブの草刈場となり、90年代の黄金期は終わりを告げることになる。
オーフェルマルスは怪我の後遺症に苦しみながらも公式戦36試合2ゴールの成績を残し、シーズン終了後、5年間を過ごしたアヤックを離れてイングランドのアーセナルへ移籍した。
94年9月から始まったユーロ予選では、初のハットトリックを記録するなど活躍。オランダはユーロ96(イングランド開催)への出場を決めるが、95-96シーズンに靱帯断裂の重傷を負ったオーフェルマルスは招集されなかった。
このあと96年11月に行なわれたW杯欧州予選のウェールズ戦で代表復帰。フース・ヒディンク監督が課題だったチームの内紛を収めてオランダがW杯出場を決めると、オーフェルマルスは本番直前の強化試合となるパラグアイ戦で約2年半ぶりとなるゴールを記録。無事W杯メンバーに選ばれ、98年6月開催のWカップ・フランス大会に臨むことになった。
G/L初戦の相手は前大会でも対戦した隣国のベルギー。試合はオランダが攻撃で圧倒、特にオーフェルマルスのスピードはベルギーを苦しめた。しかしチャンスを逃し続けた後半の80分、相手の挑発に乗ったクライファートが報復行為で一発退場。スコアレスドローでゲームを終えた。
続く韓国戦も序盤から猛攻を仕掛け、1-0とリードした前半の42分、オーフェルマルスが巧みにDFをかわして追加点。そのあとベルカンプのゴールなどで5-0の圧勝を収める。
最終節のメキシコ戦は、後半途中まで2点をリードして試合を決めたかに思えたが、75分にCKから1点を返されると、終了直前のロスタイムにも失点。引き分けに持ち込まれてしまったものの、グループ1位で決勝トーナメントに進んだ。
トーナメント1回戦はユーゴスラビアを2-1と下し、準々決勝ではアルゼンチンと対戦。試合前の練習で足を痛めてしまったオーフェルマルスは、ベンチスタートとなった。
前半12分にクライファートの先制点が生まれるが、その5分後にはベロンのロングパスからクラウディオ・ロペスに同点ゴールを決められてしまう。その後オランダが押し気味に試合を進めるが、後半の76分にDFヌマンが2枚目のカードで退場。流れはアルゼンチンに傾きかけるも、ファン デルサールを頭突したオルテガが87分に退場処分。
試合は終盤に波乱となったが、89分にベルカンプが芸術的なトラップからゴールを決めて劇的勝利。オランダが5大会ぶりとなる準決勝へ進むも、後半64分から出場したオーフェルマルスは怪我を悪化させてしまう。
準決勝のブラジル戦はロナウドの先制ゴールを許しながら、終盤の87分にクライファートの同点ゴールで追いついて延長戦へ。しかしPK戦を落としてしまい、決勝進出はならず。オーフェルマルスの欠場により、ブラジルの弱点である右サイドを突けなかったのが痛かった。
3位決定戦では後半開始からの出場を果すが、オーフェルマルスにいつものスピードとキレはなく、クロアチアに2-1と敗れて4位。最終戦を飾ることが出来なかった。
97年8月、リーズ・ユナイテッド戦でプレミアデビュー。2週間後のサウサンプトン戦で初ゴールを記録する。オーフェルマルスは同胞のベルカンプとともに攻撃の核となり、アーセナル優勝争いの原動力となった。
97-98シーズンの天王山となった98年3月のマンチェスター・ユナイテッド戦では、ニコラ・アネルカのパスからオーフェルマルスが貴重な決勝点。ガナーズがこのまま首位を突っ走り、プレミアリーグ発足(92年)後初となる優勝を成し遂げる。
FAカップも5季ぶりとなる決勝へ進出。ニューカッスルとのファイナルでは、前半23分にオーフェルマルスが先制点。後半69分にもアネルカの追加点が生まれ、2-0の完勝。オーフェルマルスは移籍1年目から公式戦46試合16ゴールと活躍し、チームの2冠達成に大きく貢献した。
翌98-99シーズンはトレブル(3冠)を達成したマンUの前に屈するが、FAコミュニティ・シールドのタイトルを獲得。オーフェルマルスは公式戦48試合12ゴールと変わらぬ好調さを見せる。
3年目の99-00シーズン、99年11月のミドルズブラ戦でプレミア移籍後初のハットトリックを記録。「彼は猟犬のようにボールを追い、獲物を奪おうとする者を寄せ付けなかった」と絶賛される。ライバルのマンUにリーグ連覇を許すも、公式戦47試合13ゴールと3年連続の好成績を残したオーフェルマルスは、2000年7月にビッグクラブのバルセロナと新たな契約を交わした。
2000年6月には地元開催(ベルギーと共催)のユーロ2000大会に出場。大会前に太ももを痛めてしまったオーフェルマルスは、初戦のチェコ戦をベンチスタートとなった。0-0で迎えた後半の78分、ライカールト監督は状況を打開すべくオーフェルマルスを投入する。
そして終了直前の89分、オーフェルマルスのクロスに合わせようとしたロナルド・デ・ブールのシャツが引っ張られPK判定。これをデ・ブール自身が決めて初戦をモノにする。
オーフェルマルスが先発に戻った第2戦はデンマークに3-0の快勝。最終節ではW杯王者のフランスを3-2と下し、4大会連続のベスト8に進む。
トーナメントの1回戦は、クライファートのハットトリックによる活躍でユーゴスラビアに6-1の大勝。トップフォームを取り戻したオーフェルマルスも2得点を挙げた。
準決勝の相手はイタリア。前半の34分に相手DFザンブロッタが2枚目のイエローカードで退場。このあとオランダが怒濤の攻撃で2度のPKチャンスを得るも、F・デ・ブールとクライファートが続けて失敗。オーフェルマルスは延長120分を奮闘したものの、イタリアの堅守を崩せず、勝負はPK戦へ持ち込まれた。
PK戦ではオランダの3人が名手トレドに阻まれ失敗。イタリアの4人にPKを決められ、開催国の決勝進出は阻まれてしまった。
2年後のW杯に雪辱を期すオランダだが、欧州予選ではポルトガルとアイルランドの後塵を拝してグループ3位の不覚。02年日韓W杯への出場を逃してしまう。
バルセロナ移籍の1年目は公式戦46試合8ゴールとまずまずの成績を残すが、翌01-02シーズン、代表活動中に膝を痛めてしまい1ヶ月の戦線離脱。これ以降は先発を外れることも多くなり、2年目は公式戦31試合1ゴールにとどまった。
このあとルイ・ファン ハール、フランク・ライカールトと馴染みの顔がバルセロナの監督を務めるが、たび重なる故障によりオーフェルマルスの出場機会は減少。03-04シーズンの終了後、バルセロナからの退団を表明する。
代表の活動もしばらく遠ざかっていたが、03年4月の親善試合ポルトガル戦で約1年半ぶりの復帰。2ヶ月後のユーロ予選、ベラルーシ戦で交代出場から先制点を挙げ、ユーロ04のメンバーにも選ばれた。
ユーロ04(ポルトガル開催)ではG/Lの2試合に途中出場し、オランダの2位突破に貢献。開催国のポルトガルと戦った準決勝では、初の先発出場でアリエル・ロッベンとの新旧快足コンビが実現する。
試合は1-2と敗れ、オランダはまたもやベスト4敗退。大会終了後、オーフェルマルスは31歳での現役引退を発表した。オランダ代表の12年間で86試合に出場し、17ゴールを記録した。
現役引退後はキャリアを始めたゴー・アヘッド・イーグルスの筆頭株主となり、クラブ経営にも携わった。08年8月にはヤプー・スタムの引退記念試合でプレーしたことがきっかけとなり、同クラブで1シーズン限りの現役復帰。24試合に出場するもノーゴールに終わり、09年5月に2度目の引退となった。
12年7月、アヤックスのスポーツディレクターに就任。若手発掘に手腕を発揮して長くSD職を務めるが、複数の女性職員への問題行動(猥褻な写真やメッセージをメールで送ったとされる)が発覚し、22年2月に辞任が発表される。
アヤックス退団直後の3月、ロイヤル・アントワープ(ベルギー)のテクニカル・ディレクターに就任。だが同年12月末、心停止を起こして緊急入院。心臓機能が70%まで低下するという危険な状態を乗り越え、現在は回復に向けての治療を受けている。
コメント