「 アビセレステスの闘牛士 」 マリオ・ケンペス ( アルゼンチン )
相手のタックルを恐れず突き進む果敢なプレーと、冷静に相手を仕留める正確なシュート技術で「エル・マタドール(闘牛士)」の異名を持つ選手が、アルゼンチンのマリオ・ケンペス( Mario Albert Kempes )だ。
若くして点取り屋としての才能を発揮。研ぎ澄まされた嗅覚とスピード感あふれるドリブル突破でゴールを量産し、リーガ・エスパニョーラの2年連続得点王に輝いた。そして自国開催のワールドカップでは6得点を挙げる活躍で、アビセレステス(アルゼンチン代表の愛称)に初の栄冠をもたらす。
謙虚な人柄とフェアプレー精神で多くの人々に愛されたケンペス。その洗練されたボールさばきとゴールへの意欲が母国を優勝に導き、長髪のエル・マタドールはアルゼンチンの英雄となった。
ケンペスは1954年7月15日、首都ブエノスアイレスの西北600kにあるコルトバ州の小さな町、ベルビジュで生まれた。父親もサッカー選手で、10歳の時に地元のジュニアチームへ入団。すると早くもCFとしての才能を発揮し始め、17歳でトップチームデビューを果たす。
73年に13試合で11得点を挙げ、翌年移籍したロサリオ・セントラルではデビュー戦でハットトリックを記録。この年36試合29得点の活躍を見せると、75年も49試合で35のゴールを量産し、たちまちアルゼンチンきっての点取り屋となった。
代表デビューは73年9月のボリビア戦、翌74年には20歳でWカップ・西ドイツ大会のメンバーに選ばれた。アルゼンチンは1勝1敗1分けの2位で1次リーグを勝ち上がったが、2次リーグのオランダ戦ではヨハン・クライフに2点を許すなど0-4の完敗。ライバルのブラジルにも1-2で敗れ、最終節の東ドイツ戦は1-1の引き分け、ベスト4には進めなかった。
ケンペスは6試合のうち5試合で先発、残り1試合も途中から入って全試合出場を果たすが、1ゴールも挙げられずに大会を終えてしまった。
続く78年のWカップではアルゼンチンの開催が決まっていたが、大会を2年後に控えた76年に軍事クーデターが勃発、圧政と弾圧による強権体制が敷かれた。そして軍事政府は国際的イメージの回復と経済不況からの脱却を図るべく、Wカップの成功と初優勝の至上命題を40歳の青年監督セサル・ルイス・メノッティに託した。
60年代に入ってからのアルゼンチン代表は、相手の中心選手を暴力的なプレーで潰す野蛮なスタイルで世界に悪名を轟かせ、国内の評判も悪かった。そんなダーティー・イメージを払拭したい軍事政権にとって、クリーンなプレーと高い個人技を基盤とした攻撃サッカーを志向するメノッティはうってつけの監督だった。
またメノッティも軍事政権の権力を利用、長期の強化合宿で連携の質をあげるため、代表候補選手の国外への移籍を禁止する。また国内のクラブには代表チームへ協力態勢をとるよう圧力をかけ、チーム作りの綿密なプログラムを組み立てた。
76年シーズンのリーグ戦途中、1試合1ゴールのハイペースで得点を重ねていたケンペスに、スペインのバレンシアからオファーが舞い込む。破格の移籍金を提示されたロサリオは、バレンシアへの譲渡を承諾。ケンペス本人は悩んだが、アルゼンチンを離れてバレンシアと契約を結ぶことになった。メノッティ監督にとっては、寝耳に水の移籍だった。
バレンシアでの76-77シーズン、スタートこそ不慣れな環境で躓いたケンペスだが、尻上がりに調子を上げ24ゴールを記録、いきなりリーグ得点王に輝く。チームメイトの信頼を得た翌77-78シーズンも28ゴールの活躍で、2年連続の得点王となった。
メノッティ監督はダニエル・パサレラやオズワルド・アルディレスといった若い知性派を抜擢、彼らを中盤の軸に据え、国内組で固めた攻撃的なチーム作りを進めていた。
それでも欧州リーグ屈指のストライカーとなったケンペスの得点力は無視できず、メノッティは過去のいきさつを水に流すことにした。こうしてケンペスは、唯一の国外組として代表へ合流することになる。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。強敵揃いの1次リーグでアルゼンチンは苦戦するが、FWレオポルド・ルーケの活躍でハンガリーとフランスに連勝を収める。だが最終節のイタリア戦でルーケが負傷欠場、ケンペスはアズーリの老獪な守りに抑えられ、0-1と試合を落としてしまう。
こうしてアルゼンチンは1次リーグでイタリアに続く2位となり、調子の出ないケンペスも3試合不発に終わった。1位突破なら首都ブエノスアイレスから移動せずに2次リーグを戦えたが、2位のアルゼンチンは地方のロサリオに移動して試合を行うことになった。
しかしロサリオはケンペスにとってかつてのホームグラウンド、これが2次リーグでの活躍に繋がることになる。
2次リーグ第1戦の相手はポーランド。開始15分、左からのクロスに走り込んだケンペスがヘディング・シュート、先制点を決めた。37分、今度はポーランドのラトーが決定的なシュート。それをケンペスが手で弾き、ポーランドにPKが与えられる。だがそのPKをポーランド主将のティガが失敗、アルゼンチンは窮地を逃れた。
そして71分、アルディレスのパスからケンペスが中央に切れ込み、豪快な追加点を叩き込んだ。こうして古巣のホームで目覚めた闘牛士の活躍で、アルゼンチンは2-0と勝利を収める。次の相手は南米のライバル、ブラジル。この対戦は両チーム合わせて4人の負傷者が出る大荒れの試合となり、結局0-0の引き分けで終わった。
2次リーグの最終節でブラジルはポーランドに3-1と快勝。そのあとペルーと試合を行うアルゼンチンが決勝に進むには、大量得点差をつけての勝利が必要となった。アルゼンチンの選手が過度のプレシャーに襲われる中、21分にパサレラとの壁パスで中央を破ったケンペスが左足を振り抜き、先制弾を生み出した。
これで勢いに乗ったアルゼンチンは43分に追加点、後半に入った46分にもケンペスが3点目を挙げた。その後ルーケが2ゴールを記録するなどペルーに6-0と圧勝、ブラジルを得失点差でかわし、アルゼンチンが決勝進出を果たした。
決勝の相手は、前回準優勝国のオランダ。だがそこに世界的スパースター、クライフの姿はなかった。スタンドから白い紙吹雪が舞い散る中、試合は開始。その38分、アルディレスの縦パスを受けたルーケがボールを中央へ。するとケンペスがDFの間に割って入り突進、左足を伸ばしてGKの右を抜いた。
リードされたオランダは後半に反撃、途中投入された長身のナニンハが82分に同点となるヘディング・ゴールを決め、決勝は延長戦へともつれた。延長前半の105分、ケンペスは強引なドリブルから2人のDFを置き去りにしてシュート、1度はキーパーに弾かれたが、素早く反応して勝ち越し点を押し込んだ。
延長後半の116分にも、ケンペスが起点となりアルゼンチンが追加点、勝利を決定づけた。こうしてアルゼンチンは地元開催のWカップで初優勝を果たし、6得点を挙げたケンペスは大会得点王とMVPに輝く。
バレンシアでは5シーズンを過ごし、81年にアルゼンチンのリーベル・プレートへ移籍。82年にはWカップ・スペイン大会に出場する。だが、若いマラドーナの引き立て役に回って中盤へ下がったケンペスに4年前の勢いはなく、5試合に先発して無得点。この大会が代表キャリアの最後となった。
84年にはスペインに戻って4シーズンをプレー、30代となってからはオーストリアのリーグに活躍の場を移し、92年に現役を引退。だが古巣バレンシアでアシスタント・コーチを務めたのち、95年にチリ2部リーグのフェルナンデス・ビアスで現役復帰。96年にはインドネシア・リーグのペリタ・ジャヤで監督兼選手となり、1年間プレーして42歳で現役を退いた。