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《 サッカー人物伝 》 ヴァレリー・ロバノフスキー

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「ウクライナの智将」ヴァレリー・ロバノフスキー(ソ連 / ウクライナ)

科学的アプローチで現代の潮流となったプレッシング戦術を生み出し、70年代から80年代のソ連リーグを席巻。それまでモスクワのクラブが独占していたタイトルを奪い、ディナモ・キエフを率いてチームに数々の栄冠をもたらしたウクライナの知将が、ヴァレリー・ロバノフスキー監督( Valeri Vasilevich Lobanovsky )だ。

ウクライナの名門ディナモ・キエフを率いたロバノフスキー監督は、75年と86年の欧州カップウィナーズ・カップを制覇。ソ連邦のクラブとして初めて、欧州タイトルを獲得するという業績を残した。

ウクライナ独立後もディナモ・キエフの監督を務め、6度の国内リーグ優勝を達成。32年に及ぶ指導歴で、ブロヒン、ベラノフ、シェフチェンコという、3人のバロンドール受賞者を輩出している。

また断続的にソ連代表監督も任され、86年のメキシコWカップ1次リーグでは、プラティニ率いるフランスを上回る成績でベスト16に進出。2年後の欧州選手権ではオランダに敗れて準優勝に終わったが、ソ連のスピード豊かなトータル・サッカーは西欧の列強を驚かせた。

選手時代のロバノフスキー

ロバノフスキーはソビエト連邦時代の1939年1月6日、ウクライナの首都キエフで工場労働者の息子として生まれた。地元の学校を優秀な成績で卒業した後、56年にキエフ理工科大学へ入学。学業はさぼりがちとなったが、18歳でディナモ・キエフに誘われBチームでプレーするようになる。

59年5月のCSKAモスクワ戦でトップリーグデビュー。やがてレギュラーを獲得すると、フリーキックの名手として知られるようになり、58年にWカップ優勝を果たしたブラジル代表のジジと比較されるまでになった。またFKだけではなく、187㎝の長身ながらドリブルも得意とした。

左ウィングとして活躍したロバノフスキーは、60年には13ゴールを挙げてチームのトップスコアラーとなる。61年、ディナモ・キエフはモスクワのクラブ以外で初めてソ連リーグを制覇、ロバノフスキーも10得点を記録して優勝に貢献した。

60年にはソ連代表にも選ばれるが、左ウィングのポジションには強力なライバルが多かったため、国際公式戦の出場は2試合に留まった。その後2チームの移籍を経て、68年に29歳で現役を引退。ソ連リーグでは253試合に出場し、71ゴールの記録を残した。

知将の科学的アプローチ

引退の1年後、ソ連2部リーグに所属するFCドニプロの監督に就任。ロバノフスキーが率いた最初の年は3位、翌年は2位と順調にチームは成績を伸ばし、3年目にはついに優勝をしてトップリーグへの昇格を果たす。

73年、FCドニプロで見せたその手腕を買われ、古巣のディナモ・キエフへ移籍。74年には元チームメイトのオレフ・バジレヴィッチをアシスタントコーチに招き、理論家の彼に戦術面を任せ、自身はトレーニング・プロセスを担当、2頭体制でチームの強化を図った。

さらにロバノフスキーは、キエフ体育大学の若き研究者アナトリー・ゼレンツォフに協力を求め、細かいデータを採って選手の心身両面の変化を分析、これを基に適切な練習メニューを作成する。そしてあらゆる状況に対する約束事も厳格に規定し、個々の間断ない動きから生まれる機能的な堅守速攻を目指した。

また、アメリカを訪れた際に観戦したプロバスケNBAのプレッシングや、アメフトNFLのフォーメーションに興味を持ち、帰国するとこれをヒントにプレッシング戦術を構築。そして技術、スピード、持久力、判断力などの高い基準を満たす選手を選抜し、攻守のオールラウンダーを育成する。

こうして科学的トレーニングで鍛えられたスプリント能力の高い選手たちが、スピードを殺さず、休みなく働き回るトータル・サッカーの下地がつくられた。

74年、ディナモ・キエフはリーグ制覇とソビエト・カップ優勝の2冠を達成。翌75年もリーグ連覇を果たし、74-75シーズンの欧州カップウィナーズ・カップにも出場する。エースのオレグ・ブロヒンを中心としたチームは圧倒的な強さで決勝に勝ち上がり、フェレンツヴァローシュ(ハンガリー)を2-0と破って、ソ連邦チーム初めての欧州タイトルを手にした。

この大会の優勝で欧州スーパーカップの出場権を得たディナモ・キエフは、欧州チャンピオンズ・カップを制覇したバイエルン・ミュンヘンと雌雄を決することになった。そしてこの欧州最強王者を相手に、ブロヒンの3得点でホーム&アウェーの2試合を連勝、2つめの欧州タイトルを獲得する。

欧州カップウィナーズ・カップとスーパーカップの優勝に大きく貢献したブロヒンは、ベッケンバウアークライフを抑えて、この年のバロンドール賞にも選ばれた。こうしてロバノフスキーは、ディナモ・キエフの長く続く黄金期を築いたのである。

「21世紀のチーム」ディナモ・キエフ

75年にクラブと兼任でソ連代表監督となり、ここでもバジレヴィッチとコンビを組む。76年欧州選手権の本大会は逃すが、モントリオール五輪に出場して五輪代表を指揮。東ドイツに敗れて惜しくも決勝へ進めず、3位決定戦でブラジルを下し銅メダルを獲得したあと、代表監督を辞した。

このあとバジレヴィッチがディナモ・キエフを去るも、77年に2季ぶりのリーグ優勝を果たし、76-77シーズンのチャンピオンズ・カップに出場する。準々決勝では再びバイエルン・ミュンヘンと対戦、2戦合計で2-1と打ち破り、欧州王者の大会3連覇を阻んでいる。しかし準決勝ではボルシアMGに敗れ、決勝へは辿り着けなかった。

80年と81年にもソ連リーグを連覇。再びソ連代表チームを指揮するため一時クラブを離れるが、ディナモ・キエフの成績が低迷した85年に復帰。リーグ優勝奪回と、ソ連カップ制覇の2冠を果たした。

そして85-86シーズンの欧州カップウィナーズ・カップに出場したチームは、11年前を思い出させるような快進撃。決勝で戦ったアトレティコ・マドリードをブロヒンのゴールなどで3-0と撃破し、2回目の大会優勝を成し遂げる。ロバノフスキーの先進的なサッカーは欧州のファンを魅了し、ディナモ・キエフは「21世紀のチーム」と賞賛された。

86年ワールドカップ

同年に開催されるメキシコWカップへの出場が決まっていたソ連だが、年を明けてからの強化マッチで4連敗。弱小フィンランドともまさかのスコアレスドローを演じるなど、チームの状態は最悪だった。それに業を煮やしたソ連協会は大会1ヶ月前に監督を解任、3たびロバノフスキーが代表の指揮官として呼ばれることになった。

準備期間がほとんど無いという絶望的な状況に、ロバノフスキーはディナモ・キエフの選手で固めた代表チームを急遽編成、Wカップ本大会に臨んだ。ロバノフスキー監督率いるソ連代表は、初戦のハンガリーをスピードに乗った攻撃で圧倒、6-0と難敵を一蹴する。

第2戦は優勝候補フランスと対戦、双方譲らぬ展開で1-1と引き分けるが、「キエフ86」のプレッシングサッカーは最後までフランスを悩ませた。最終節のカナダ戦は主力を温存しながら、2-0と危なげない勝利を収め、得失点差でフランスを上回ったソ連がグループ1位となった。

決勝T1回戦の相手は、若き司令塔エンツォ・シーフォを擁するベルギー。ソ連はディナモ・キエフでも活躍するイゴーリ・ベラノフがハットトリックの大爆発、ベルギーと接戦を演じた。しかし高地の暑さとベルギーの老獪な試合運びにやられ、3-4の敗北を喫す。

それでもソ連のサッカーは各方面で高い評価を受け、ディナモ・キエフの主力でもあるベラノフ選手は、ワールドカップと10月に行われた欧州選手権予選(前回王者のフランスを2-0と撃破)の活躍で、同年のバロンドール賞を獲得している。

88年、ロバノフスキー率いるソ連は予選を勝ち抜き、西ドイツで行われた欧州選手権本大会に出場する。G/Lではオランダ、イングランドを破って1位で準決勝に進出。準決勝では堅守を誇るイタリアを2-0と打ち破った。

決勝は、G/Lで1-0と勝利したオランダと再びの対戦。しかし調子を取り戻したフリットの先制点と、ファン バステンによるスーパーボレーの前に苦杯を味わい、準優勝に終わってしまった。しかし、科学的分析に基づいたソ連の速攻プレス戦術は西欧諸国を驚嘆させ、その実力を証明して見せたのである。

アンドリー・シェフチェンコのブレイク

1991年、ソビエト連邦が崩壊し、ウクライナは独立を果たした。92年にはウクライナの国内リーグが発足、だがこの時期ロバノフスキーはUAE代表監督を務めており、ディナモ・キエフに彼の姿はなかった。そのあとクウェート代表監督を経て、97年に古巣へ復帰する。

91年のウクライナ民主化後、国内の有力選手が西ヨーロッパのクラブへ流出。内リーグでは無敵を誇った名門ディナモ・キエフも、欧州の大会で結果を残せなくなるなど、相対的な地盤沈下は顕著となっていた。ロバノフスキーは若手を中心にチームを強化、97年のCISカップ(旧ソ連邦構成国によるクラブ国際大会)で優勝を果たす。

97-98シーズンのチャンピオンズリーグでは、リーガ・エスパニョーラ優勝を果たしたバルセロナとG/Lで同組となった。ディナモ・キエフはホームの第1戦でバルセロナを3-0と撃沈させ、敵地カンプノウでの第2戦では、アンドリー・シェフチェンコのハットトリックで4-0と粉砕した。

シェフチェンコらの活躍でディナモ・キエフは久々のベスト8入りを果たし、さらに翌98-99シーズンはシェフチェンコが10ゴールを挙げてCL得点王を獲得、ベスト4入りの原動力となった。欧州にその名を轟かせたストライカーは、99年にACミランへ移籍。そしてミランでも不動のエースとして大活躍し、04年にウクライナ選手3人目のバロンドール賞に輝いた。

01年に2度目の心臓発作を起こすなど、健康面に問題を抱えていたロバノフスキーだが、それでもディナモ・キエフのベンチでチームの指揮を執り続けていた。だが02年5月7日のメタルググ戦後に倒れ、意識不明のまま入院。緊急の脳手術を受けるが、意識を取り戻すことなく13日に永眠した。享年63歳だった。

ロバノフスキーの葬儀では大統領や教え子、一般市民など15万人が彼の死を悼んだ。ディナモ・キエフは故人の功績を称え、ホームスタジアムを「ロバノフスキー・ディナモスタジアム」に改称。ミランの一員として03年のCL制覇を果たしたシェフチェンコは、その墓前に優勝メダルを捧げたという。

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