《 サッカー人物伝 》 エミリオ・ブトラゲーニョ

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「獲物を狙うハゲワシ」 エミリオ・ブトラゲーニョ ( スペイン )

小柄ながら鋭い得点感覚と素早い動きで、相手ゴールを陥れたスペインのストライカー。大空を舞うようピッチを悠然と駆け抜け、一瞬で獲物を捕らえる俊敏さと抜け目のなさで、「エル・ブイトレ(ハゲワシ)」の異名をとったのが、エミリオ・ブトラゲーニョ( Emílio Butragueño Santos )だ。

レアル・マドリード生え抜きのストライカーとして活躍。80年代後半からは、ブトラゲーニョを始めとするカンテラ(育成組織)出身の5人を中心としたチームでリーグ5連覇を達成。この同世代5人は、代表格であるブトラゲーニョのあだ名をとって「ラ・キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」と呼ばれた。

素早いドリブル、スペースへの動きでチャンスメークにも優れ、レアルで2トップを組んだウーゴ・サンチェスをアシスト。メキシコ人エースのゴール量産に大きな役割を果たし、90-91シーズンは自らも得点王に輝く。また86年のWカップ・デンマーク戦では、1試合4得点を叩き出すという快挙をなしている。

「ラ・キンタ・デル・ブイトレ」の誕生

ブトラゲーニョは1963年7月22日、スペインの首都マドリードに生まれた。学校ではバスケットボール・チームに所属するなど、始めからプロサッカー選手を目指していたわけではないが、15歳の時に参加したサッカー・トーナメントで優勝。そんないきさつから熱心なマドリスタだった父親に連れられ、レアル・マドリードのトライアルを受ける。

このときのトライアルは失敗してしまったが、ブトラゲーニョはある試合で8ゴールを挙げ、アトレティコ・マドリードのスカウトの関心をひいた。そしてアトレティコとは契約寸前までいくが、父親の知人であるレストランオーナの仲介で、もう一度レアルのトライアルを受けることになった。

2回目のテストにはみごと合格、ブトラゲーニョはレアルのファーム「ラ・ファブリカ」への入団を果たす。そのあとユースでのプレーを経て、18歳になった82年、レアルのセカンドチームであるカスティージャFCに所属。83-84シーズンはエースとして21ゴールを記録し、2部リーグ優勝に貢献している。

84年、クラブのレジェンドであるディ・ステファノ監督によってトップチームに引き上げられ、2月5日のカディスCF戦でリーガ・エスパニョーラデビュー。途中出場ながら、いきなり2ゴール1アシストの活躍で、0-2からの逆転勝利の立役者となった。

84-85シーズン、レアルはリーグ優勝には届かなかったが、UEFAカップでの初優勝を果たす。ブトラゲーニョは3回戦のアンデルレヒト(ベルギー)戦でハットトリックを記録、ヨーロッパタイトル獲得に寄与した。

翌85-86シーズン、UEFAカップを連覇。リーガ・エスパニョーラも6季ぶりの優勝を果たす。この頃にはカンテラ出身で、カスティージャから引き上げられた5人(FWブトラゲーニョ、FWパルデサ、DFサンチス、MFミッチェル、MFバスケス)が出揃い、アトレティコからウーゴ・サンチェスも加入。レアルは「ラ・キンタ・デル・ブイトレ」による黄金期を迎える。

ワールドカップの快挙

84年にはスペイン代表に選出され、10月17日のWカップ予選・ウェールズ戦が初登場の試合となった。そしてこのまま代表に定着し、86年のWカップにも22歳でメンバーに選ばれる。86年6月、Wカップ・メキシコ大会が開幕。早くも強豪ブラジルと当たり、先発したブトラゲーニョはノーゴール、0-1と初戦を落としてしまった。

続く第2戦は北アイルランドと対戦。開始1分にブトラゲーニョが初ゴールを決め、スペインがいきなりのリード。18分にはフリオ・サリナスの追加点が生まれ、相手の反撃を1点に抑えて2-0の勝利を飾った。最終節の試合はアルジェリアに3-0と快勝、ブラジルに続く2位でベスト16に進んだ。

そしてトーナメント1回戦の相手は、1次リーグで破壊的な攻撃力を見せつけ、大会に「ダニッシュ・ダイナマイト」旋風を巻き起こしたデンマークだった。前半の33分、スペインはラフプレーからデンマークにPKを与えてしまい、J・オルセンのゴールでリードされてしまう。

だがその10分後、J・オルセンが自陣ゴール前で不用意な横パス。そこへ不意に現れたブトラゲーニョが、ハゲワシのような俊敏さでボールをかすめ取り、同点のゴールを叩き込む。そして後半の56分、CKのチャンスから、ブトラゲーニョが今度は頭で決めて逆転する。

68分、ブトラゲーニョが左サイドをドリブルで駆け上がり、Pエリアに切り込んだところで倒されPKを獲得。これをゴイゴエチュアが決めてリードを広げると、80分にはブトラゲーニョがハットトリックで駄目を押す。

さらに終了直前の88分には、再びブトラゲーニョが倒されPKを獲得。これを本人が蹴ってネットへ突き刺し、Wカップではエウゼビオ以来となる1試合4得点を記録する。若きエースの、全得点を生み出す活躍でスペインが5-1の圧勝。ブトラゲーニョ緩急自在の働きは、ダイナミックなサッカーを展開するデンマークの歯車を狂わせたのだ。

準々決勝は、1回戦で好調ソ連を破ったベルギーとの対戦。前半はベルギーにリードを許したスペインだが、終盤の85分に追いついて延長戦へ持ち込む。期待されたブトラゲーニョも、ベルギーの屈強な守備陣に抑えられて不発。1-1のまま延長を終えて、勝負はPK戦で決まることになった。

PK戦ではブトラゲーニョを始め4人がゴールを決めるも、ベルギーは5人全員が成功。スペインはベスト8での敗退となったが、若きエースは大会のベストイレブンとシルバーブーツ賞に選ばれた。

スペイン代表のキャプテン

レアルは85-86シーズンからリーグ5連覇を達成、88-89シーズンにはコパ・デル・レイ(国王杯)も制した。チャンスメーカー役も担ったブトラゲーニョは、得点王こそウーゴ・サンチェスに譲った(レアルで4回獲得)が、8年連続2桁ゴールと安定した成績を残し、86年と87年にはバロンドール賞3位となる票を集めた。

88年には西ドイツで開催された欧州選手権に出場。グループリーグでは、Wカップに続いてデンマークと対戦。この試合でもブトラゲーニョが1得点を挙げて3-1の勝利、デンマークを返り討ちにした。だがその後イタリアに0-1、西ドイツに0-2と敗れ、決勝トーナメントに進めなかった。

90年、Wカップ・イタリア大会が開幕。ブトラゲーニョはキャプテンマークを巻き、サンチス、バスケス、ミッチェルら「ラ・キンタ・デル・ブイトレ」のメンバーも先発に名を連ねた。G/L初戦はウルグアイと0-0の引き分け、第2戦はミッチェルのハットトリックで韓国に3-1の快勝を収めた。

そして最終節は、前大会で惜しくもPK戦で敗れたベルギーとの試合。前半20分にミッチェルのPKで先制するも、その8分後に追いつかれてしまう。それでも38分に勝ち越し点、そのあとベルギーにPKを与えるも、相手エースのシーフォが外し2-1の勝利。前大会の雪辱を果たした。

こうしてスペインはグループ1位でベスト16に勝ち上がり、ユーゴスラビアと対戦。試合は延長戦にもつれ込むが、ストイコビッチの鮮やかな2得点の前に1-2と沈んでしまい、2大会連続のベスト8進出はならなかった。

ハゲワシ部隊の世代交代

90-91シーズン、クライフ監督率いるバルセロナがレアルの6連覇を阻止、このあとバルサ「ドリームチーム」の時代となり、「ラ・キンタ・デル・ブイトレ」の黄金期は終わりを告げた。ウーゴ・サンチェスの得点力にも陰りが見え、それに代わってブトラゲーニョが19ゴールを記録、初のピチーチ賞(得点王)に輝いている。

このあともレアルやスペイン代表のエースとして活躍、ユーロ92予選(本大会には進めず)やアメリカ・Wカップ予選にも参加した。だが次第にバルセロナ勢が代表の主力を占めるようになり、ブトラゲーニョ、サンチス、ミッチェルらのベテランはレギュラーを外されていく。

そして94年のWカップ・アメリカ大会ではメンバー落ち、このまま代表から退くことになった。10年間の代表歴で69試合に出場、29得点の記録を残した。

94年10月、レアルの新星、ラウル・ゴンザレスが17歳でトップチームデビュー。31歳となっていたブトラゲーニョはこの若きストライカーにポジションを奪われ、94-95シーズンに出場したのは僅か8試合、記録した得点は1点に留まってしまった。

そのシーズン終了後、長年つけていた背番号7をラウルに譲り渡してレアルを退団、95年6月にメキシコのアトレティコ・セラヤへ移籍していった。そのあとメキシコ・リーグで3シーズンプレーし、98年4月に34歳で現役を引退する。

選手時代フェアプレーで知られたブトラゲーニョは、現役を退くまで1度もレッドカードを受けることはなかったという。引退後はレアル・マドリードの要職を歴任、現在はクラブの取締役を務めている。

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