「 マルセイユの高性能爆撃機 」 ジャン = ピエール・パパン ( フランス )
決して大柄ではないが、鋭いダッシュと抜群のジャンプ力を生かしたヘディングでゴールを量産。その右足から放たれる正確かつ強烈なシュートで「高性能爆撃機」の異名を持つFWが、 ジャン=ピエール・パパン( Jean=Pierre Roger Guillaume Papin )だ。
運動能力が高く、「ラ・パピナード」と名付けられたアクロバティックな空中ボレーを得意とした。マルセイユでは5季連続で得点王を獲得、チャンピオンズ・カップでも3年連続で得点王となる。その活躍で91年にはバロンドール賞に輝き、フランス史上最高のストライカーと呼ばれた。
Wカップには86年のメキシコ大会に出場、限られた出場機会で2得点を記録する。しかしこのあとフランス代表が低迷期を迎えてしまったため、ピークの年齢でWカップを戦うことが出来なかった。
パパンは1963年11月5日、フランス北部の沿岸都市ブローニュ・シュル・メールで生まれた。父親はプロサッカー選手のガイ・パパン。両親が離婚したあと、母方の祖母が暮らすモルトンゲンで少年時代を過ごす。
13歳の時、2部リーグ所属するヴァランシエンヌの下部組織に入団、15歳でセミプロとしてプレーするようになる。84-85シーズン、21歳でトップチームデビュー。35試合に出場して16ゴールを記録した。
シーズン後半には12試合で11ゴールを挙げる活躍。そのストライカーとしての能力を認められ、85-86シーズンにはベルギーの名門、クラブ・ブルージュに移籍する。
まだそれほどの実績もなく、ベルギーの名門クラブでパパンには厳しい目が向けられるが、リーグ戦31試合で20得点とゴールを量産。国内カップ戦も8試合で7ゴールを挙げる大活躍で、ベルギー杯制覇の原動力となった。
フランス代表には86年2月に初選出。26日の親善試合、北アイルランド戦でデビューを飾った。そしてこのままWカップ代表メンバーにも選ばれるが、当時22歳、フランスではまだ無名だったパパンの選出は、国内ではサプライズとして受け取られた。
86年5月、Wカップ・メキシコ大会が開幕する。パパンは1次リーグ初戦、カナダ戦の先発FWに抜擢され、大舞台で「将軍」ミッシェル・プラティ二との共演を果たす。
大会初出場のカナダは、優勝候補フランスを相手に大健闘、試合は0-0のまま終盤を迎えた。79分、カナダのGKポール・ドランがクロスボールの処理をミス。そこへすかさずパパンがゴールを押し込む。
結局これが決勝点となり、フランスが苦しみながらも1-0と初戦を勝利する。第2戦は、名将ヴァレリー・ロバノフスキー率いるソ連との戦い。見応えのある攻防が繰り広げられた試合は、1-1の引き分けとなった。
最終節はハンガリーとの対戦。フランスは開始から優位にゲームを進め、前半で1-0のリード。61分にパパンが交代で退いた直後、ティガナの追加点が生まれる。84分にはパパンに代わって投入されたロシュトーが、プラティ二のアシストで駄目押し点、3-0と圧勝する。
フランスはソ連に続く2位で決勝トーナメントに進出、そして1回戦では強敵イタリアとの好カードとなり、FWにはパパンに代わってロシュトーが起用された。
12分、ロシュトーのパスに抜け出したプラティニが先制点、85分にも追加点が生まれて2-0の快勝を収める。だがパパンの出番は、最後まで訪れなかった。
準々決勝は、「夢の対戦」と言われたブラジルとの試合。プラティニとジーコの司令塔対決が注目された。ゲームはまさに屈指の名勝負となり、延長・PK戦の末フランスがブラジルを退ける。しかし2戦続けて先発を外されたパパンが、この歴史的一戦に加わることはなかった。
準決勝の西ドイツ戦も、パパンはベンチスタート。最後までピッチに立つことはなく、フランスは0-2の完敗を喫してしまった。
若手中心で臨んだ3位決定戦で、パパンは4試合ぶりに先発出場する。初戦以来となるゴールを挙げ、ベルギーに延長戦で4-2と勝利。フランスは3位を確保した。
ベルギーで大活躍したパパンは、ディヴィジョン・アンのオリンピック・マルセイユと契約。W杯終了後の86-87シーズンにフランスへ戻る。
この年の4月に、フランス実業界の風雲児、ベルナール・タピがマルセイユの会長に就任。その豪腕と財力を使い、パパン、アラン・ジレス、カール=ハインツ・フェルスターといった実力のある選手をかき集めていた。
86-87シーズン、パパンはリーグ戦13ゴールを挙げてエースの座を確立。チームも前年12位から2位へ躍進した。87-88シーズンには19ゴールを記録、初のリーグ得点王を獲得する。
88-89シーズンにはフランチェスコリ、カントナといった強力なタレントたちが加入。陣容を充実させたマルセイユは圧倒的な強さを見せ、17シーズンぶりのリーグ優勝とフランス・カップ制覇を果たす。パパンはリーグ戦22ゴールを記録、2季連続得点王に輝いた。
その後選手の入れ替えもありながら、マルセイユはジャン・ティガナ、バジール・ボリ、アベディ・ペレ、ストイコビッチといったタレントを続々と補強。国内では無敵のチームをつくりあげ、リーグ4連覇を達成する。
パパンが特に親交を結んだチームメイトは、89-90シーズンに加入したイングランドのクリス・ワドル選手。二人は最初の出会いから意気投合、家族ともども数ヶ月間自宅に住まわせ、試合でも息の合ったプレーを見せる。
そしてワドルの供給する正確なクロスは、僚友パパンの活躍を助けた。89-90シーズンは30ゴール、90-91シーズンは23ゴール、91-92シーズンは27ゴールと、二人のホットラインでゴールを量産。パパンはワドルの力を借りて5年連続得点王を成し遂げる。
89-90シーズン、マルセイユは欧州チャンピオンズ・カップで初のベスト4入り。大会6ゴールを挙げたパパンは、PSVのロマーリオとともに得点王に輝く。
翌90-91シーズンはチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。レッドスター・ベオグラード(ツルベナ・ズベズダ)に延長・PK戦の末敗れてしまったが、大会6ゴールのパパンは2年連続で得点王となった。
91-92シーズンのチャンピオンズ・カップでは2回戦敗退を喫したものの、パパンはハットトリックなどで7ゴールを記録、3年連続得点王に輝く。こうして世界屈指のストライカーと認められた彼は、91年のバロンドール賞に選ばれ、同年に創設されたFIFA最優秀選手賞で2位になった。
92-93シーズン、当時の最高額となる移籍金でACミランに移籍。フランス人としては、プラティニに続くセリエAでのプレーとなった。
ファン バステン、フリット、サビチェビッチ、マッサーロ、シモーネといった豪華メンバーが揃う中で、パパンはリーグ戦22試合に出場、13ゴールとその実力を証明した。
移籍1年目のシーズン、ミランはリーグ2連覇を達成し、チャンピオンズリーグ(92年から改称)の決勝にも進出。その相手は、前年まで在籍したマルセイユだった。
試合はボリのゴールでマルセイユが先制。パパンは後半58分から交代出場を果たすが、得点を挙げられず0-1と敗北。パパンはピッチで歓喜する元チームメイトたちを眺めることになった。
しかしこの後マルセイユの八百長事件が発覚、タピ会長の脱税などスキャンダルが相次ぎ、ストイコビッチやデサイーなど多くの選手がチームを離れていった。
ペナルティーを受けたマルセイユは2部リーグに降格、タピ会長も辞任を余儀なくされ、クラブの黄金期は終幕を迎える。
93-94シーズン、パパンはサビチェビッチやボバンに出番を奪われ、外国人枠の制限もあり出場機会が激減。リーグ戦には18試合に出場、5ゴールの記録に留まってしまった。そしてカペッロ監督の戦術にも馴染めず、94-95シーズンにはバイエルン・ミュンヘンへの移籍を決める。
プラティニ引退後、フランス代表は低迷。88年の欧州選手権と90年のWカップ出場を逃し、92年の欧州選手権本大会に出場するも、パパン、カントナら多くのタレントを擁しながら、1勝も挙げられずにG/L敗退を喫していた。
92年の9月から、Wカップ・アメリカ大会の欧州予選が開始。98年の自国開催を控え、是が非でも本大会出場を決めたいフランスだったが、初戦からストイチコフ擁するブルガリアに0-2と敗れ、不吉さを予感させるスタートとなった。
その後持ち直したフランスは勝ち星を重ね、残り2試合(いずれもホーム)で1勝を挙げれば予選突破、というところまでこぎ着ける。
しかし93年10月のイスラエル戦は、ロスタイムに得点を奪われまさかの逆転負け。Wカップ出場は、勝点差1まで迫ってきたブルガリアとの最終戦にもつれ込んだ。
11月17日、パリのスタジアムで、Wカップ出場を懸けたブルガリアとの試合が行われた。前半32分、クロスボールをパパンが頭で落とすと、それをカントナが蹴り込んでフランスが先制する。だがその5分後、ブルガリアの同点弾を許してしまう。
1-1となった試合は終盤戦に突入。このまま引き分けなら、勝点で1つ上回るフランスが本大会出場となるはずだった。終了直前の89分には相手陣営でファールを得て、あとはボールキープで試合終了を待つだけとなった。
しかしリスタートからのパスを受けたジノラは、何を思ったかゴール前へクロス。ボールはカントナの遙か頭上を超えてゆき、ブルガリアに拾われてカウンターの逆襲を喰らう。
速攻によるボール繋ぎから、前線のペネフがポストプレー、そこへ抜け出したコスタディノフに、決勝のゴールを決められてしまったのだ。
こうしてフランスはまたも土壇場で逆転負け。最後の最後でブルガリアに抜かれ、Wカップ出場を逃してしまうという大失態を演じた。
この失態は「パリの悲劇」と呼ばれることになるが、奇しくも日本が「ドーハの悲劇」に沈んだ20日後の出来事であった。
このあとエメ・ジャケ監督が指揮を執ることになったフランス代表は、ジダンを中心としたチームに切り替わってゆき、パパン、カントナ、ジノラといった旧世代の攻撃陣は代表に呼ばれなくなる。パパンは10年の代表歴で54試合に出場、30得点の記録を残した。
98年、フランスは自国開催の大会でWカップ初優勝。パパンは、プラティニとジダンの時代に挟まれた「谷間世代のエース」という悲哀を味わうことになった。
バイエルン・ミュンヘンでの活躍を期待されたパパンだが、移籍したシーズンは膝の故障もあり1ゴールに終わってしまった。
翌95-96シーズンも20試合で僅か2ゴール、UEFAカップ優勝に貢献するなど時おり往年の輝きを見せたが、クラブの説得を振り切ってバイエルンを退団することになった。
96年に移籍したボルドーでは16ゴールと復調の気配を見せるも、若手の台頭で次第に出番を失っていく。98年には2部リーグのギャンガンへ移籍、99年に35歳で現役を引退した。
引退後は指導者の道を進み、フランス各クラブの監督を歴任。20年6月からは、フランス4部(アマチュアリーグ)に属するシャルトルの監督を務めている。