右サイドのスペースを爆発的なスピードで駆け上がると、立ち塞がる相手を前に急激なストップ。獲物を食いつかせると、踊るようなステップで揺さぶり、鋭いダッシュで抜き去る。変幻自在にボールを操り、挑んで来る者に尻もちをつかせる伝説のドリブラーが、ガリンシャことマヌエウ・ドス・サントス( Garrincha : Mamoel Francisco dos Santos ) だ。
「脚の曲がった天使」という異名を持つガリンシャは、ハンディを逆手に武器とし、予測できぬ動きで相手を翻弄。さらに魔術のように曲がる正確なキックで敵のゴールを脅かし、ワールドカップでは世界に衝撃を与えた。時にガリンシャはペレ以上の選手と言われ、ブラジル国民に愛された存在だった。
晩年は己の名声を浪費し、様々なトラブルや不幸に見舞われて、栄光から転落への人生を歩むことになったガリンシャ。しかしその刹那的で破滅的な生き方、そして哀しくも滑稽な人間味が、ガリンシャという男の魅力であるようだ。
1933年10月28日、リオ・デ・ジャネイロ近郊の山地バウ・グランデに、インディオの父親とアフリカ系の母親を持つ混血児の男の子(しばらくのあいだ名前も付けられなかった)が生まれた。6歳でポリオ(小児麻痺)を患うが、家が貧乏で満足な治療が受けられず、背骨はS字に湾曲し、両脚も同じ方向に曲がってしまった。
小児麻痺の影響で左右の脚に長さの違い(6㎝)が生じ、しかも軽度の知的障害や斜視という後遺症も残ったが、自然に恵まれた山裾の田園地帯で遊び周りながら、少年は伸び伸びと育っていく。この頃の彼に付けられたのが、「ガリンシャ(小鳥のミソサザイ)」という愛称。姉のローザがこの弟を、ミソサザイのように小さいと言ったことが由来だった。
ガリンシャが正式な名前である「マヌエウ」を貰ったのは、14歳になって地元の繊維工場で働き始めてからだった。怠け者の彼はおよそ役に立たない授業員だったが、クビにならなかったのは地元クラブ、EC・パウ・グランデの有望選手だったからだ。
ハンディの代わりに直感的な才能を持つガリンシャは、誰も止められないドリブルの技術を身につけ、瞬く間に町いちばんの選手となっていた。しかし素朴で暢気な彼は、50年に地元で開催されたWカップにもまるで無関心。そして「マラカナンの悲劇」が起きたあの日も、ラジオ放送も聞かずに釣りに出かけたほどだ。
プロに感心を示さず、フラメンゴの入団テストを受けに行ったのもしぶしぶだった。ヴァスコ・ダ・ガマのテストでは、スパイクを持って行かなかったため追い返された。フルミネンセのテストでは、戻りの最終電車に間に合わなくなると言って途中で帰ってしまった。
だが19歳のとき、以前ボゴダフォの選手だった男がガリンシャのプレーを見て、彼を引きずるように入団テストへ連れて行く。この入団テストでガリンシャと相対したのが、ブラジル代表DFのニウトン・サントス。サッカーの いろは を知り尽くす、「百科事典」と呼ばれた名選手だった。
ブラジル屈指のDFを、あっという間にドリブルで抜き去るガリンシャ。さらには一瞬の隙を突き、彼の股間にボールを通してさえみせたのだ。そのプレーは周りの者を驚かせ、憮然とするサントスに「あいつとは契約したほうがいい」と言わせることになった。
ボゴダフォに入団したガリンシャは、53年7月のリオ州選手権で先発デビュー。右ウィングに入ると、ハットトリックの活躍を見せ逆転勝利に貢献した。相手選手を次々とフェイントでかわし、強烈なキックでチームを勝利に導くガリンシャは、たちまちカリオカ(リオ市民)の人気者となる。
長らくタイトルとは無縁だったボゴダフォだが、57年のリオ選手権で決勝に進出。そして決勝のフルミネンセ戦では、ガリンシャが4ゴールを挙げる大活躍、チームをリオ州王者に導く。もはや全盛期を迎えようとしていたガリンシャに抵抗する術はなかった。フェイントのあと右側に抜けるのは分かっていたが、誰も止めることが出来なかったのだ。
代表に選ばれたのは55年、9月のチリ戦でデビューを果たす。そして58年には、Wカップ・スウェーデン大会のメンバーにも選ばれた。2戦目までは戦術理解度の低さから起用を見送られたガリンシャだが、予選リーグ突破を決めるソ連戦では、17歳のペレとともにWカップデビューを果たした。
ソ連戦では何度も右サイドをかき回し、2-0の勝利に貢献。ガリンシャに翻弄されたソ連の選手たちは腹を立てるどころか、試合後ブラジルの練習場を訪れ、肩に手を掛けて「ようやく捕まえたぞ」と冗談を言わせるぐらい彼のプレーに魅了されていた。
ガリンシャとペレという強力な武器を得たブラジルは、他を寄せ付けない内容でWカップ初優勝。二人はたちまちブラジル国民のヒーローとなった。62年のWカップ・チリ大会にも、ガリンシャは大黒柱の一人として出場。そして怪我で途中離脱したペレに代わり、チームを牽引することになる。
ガリンシャは看板のドリブルだけではなく、高い得点力も発揮。4得点を挙げる活躍で圧倒的な存在感を見せ、ブラジルを大会2連覇に導いた。ガリンシャのプレーは世界に衝撃を与え「いったい彼はどこの惑星から来たのか?」とさえ新聞に書かせた。Wカップは脚の曲がった男を、崇拝の対象にまで押し上げたのだ。
62年、ボゴダフォはリオ州選手権で前年に続く2連覇を達成。この時期がガリンシャの選手としてのピークとなった。湾曲した脚は膝の軟骨に負担を掛け、激しい動きを繰り返すうちに擦り減って、プレーに支障をきたし始めたのだ。医師から手術の必要性を告げられたものの、信仰療法士から「2度とサッカーが出来なくなる」と言われたのを信じてガリンシャは治療を拒否する。
またクラブは、ガリンシャの無邪気さにつけこみ、不当に安いギャラしか支払っていなかった。世間知らずのガリンシャを心配した友人が、知り合いの銀行員を助言者として彼の元によこすが、Wカップのヒーローとは思えない酷い暮らしに、銀行員はショックを受けたと言われている。
63年、ガリンシャの膝は深刻さを増しており、遊離した軟骨のまわりに溜まった水を定期的に抜かなければならない状態だった。それでも彼は手術を拒否し続けるが、ついに無理がきかなくなり膝へメスを入れざるを得なくなった。そして64年に手術が行われるが、もう以前のようなプレーが戻ることはなかった。すると翌65年には、ボゴダフォから契約を打ち切られてしまう。
66年のWカップ・イングランド大会、32歳のガリンシャもメンバーに選ばれ3度目となる大会に参加する。かつてのようなキレ味など望むべくもなかったガリンシャだが、ブラジルサッカー協会は国民的人気を誇る彼を無視できなかった。
それでも初戦のブルガリア戦ではFKを決め、往年の力を見せたガリンシャ。だがペレが欠場した第2節のハンガリー戦では1-3と完敗、第3節のポルトガル戦ではガリンシャも外れ、結局ブラジルは予選リーグで消えていった。ガリンシャにとっては、ハンガリー戦が代表出場歴50試合にして唯一の敗戦、またこれがセレソンとして最後の試合となった。
同じ年、ガリンシャは18歳のときに結婚した妻と8人の子供を放りだし、歌手のエルザ・ソアレスと再婚する。この再婚は国民から批判を浴び、彼の名声を落とすことになったが、養育費の支払いなどで財産も失うこととなった。
69年、ガリンシャの運転する車がトラックと激突、同乗していた妻エルザの母親を死なせてしまう。車好きの彼は日頃から運転が荒く、これまで何度も事故を起こしていたのだ。選手生命も絶たれてしまったガリンシャはこの事故から塞ぎ込むようになり、何度も自殺を図った。そして元々酒好きだった彼が、ますますアルコールに逃げていくことになる。
73年にはガリンシャの感謝試合が行われ、その収益は生活に困窮する元ヒーローへ与えられた。その資金を基にガリンシャはレストランを開業するが、経営に失敗。ついにはヤケ酒から妻エルザにも暴力を振るうようになり、やがて二人は離婚した。
その後ガリンシャは、3度目の結婚をするもその生活態度は改まらず、酒に溺れる日々を送る。83年1月19日、酒を飲んで自宅に帰ったガリンシャは、体調不良を訴え横になると、そのまま昏睡状態に陥ってしまう。駆けつけた医者はアルコールで変わり果てた姿に、患者がガリンシャとは気づかなかったそうだ。
そのまま精神病棟に移されたガリンシャは、2度と目を覚ますことなく、翌朝6時に帰らぬ人となった。まだ49歳の若さだった。