《 サッカー人物伝 》 エジムンド

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「リオと野獣」 エジムンド ( ブラジル )

01年、Jリーグ残留争いが激しくなったシーズン終盤に突如現れて大暴れ、その活躍でJ2降格の危機にあった東京ヴェルディを救った元ブラジル代表のFWが、エジムンド( Edmund Alves de Souza Net )だ 。

気性の荒さから「オ・アニマウ(野獣)」と呼ばれたエジムンドだが、イメージとは真逆の繊細なテクニックを駆使、足裏を巧みに使った技でJリーガたちを翻弄した。またゴール前で決定的なシュートを打つだけでなく、ラストパスでもチャンスを演出している。

毎年故郷で行われる “リオのカーニバル” を愛した男としても知られたが、あだ名通りの暴れっぷりと素行の悪さで行く先々で問題を起こし、毎年のように各地のクラブを転々とする。終生荒野をさまよう野生動物のようなサッカー人生を送っていたが、最後は古巣へ戻り安住の地を得た。


エジムンドは1971年4月2日、リオ・デ・ジャネイロ市の対岸にある港町ニテロイで生まれた。16歳でリオの強豪ヴァスコ・ダ・ガマのトップチームに昇格し、21歳のときに92年のリオ・デ・ジャネイロ選手権(リオ州のリーグ戦)優勝に主力として貢献した。

この活躍が認められ同年のブラジル代表に招集、7月のメキシコ戦でデビューを果たすと、11月に行われたウルグアイ戦で代表初ゴールを記録する。そして93年にはサンパウロの名門パルメイラスへ移籍、94年にチームはサンパウロ選手権(サンパウロ州のリーグ戦)とブラジル全国選手権(ブラジルサッカー連盟のリーグ戦)優勝の2冠を達成する。

当時のパルメイラスはセザール・サンパイオ、ロベルト・カルロス、フレディ・リンコン、エジウソン、エバイール、リバウドといった錚々たるメンバーを揃えた最強チームで、エジムンドも攻撃陣の中核として大活躍をした。

しかしその激しい気性によるラフプレーや退場も多く、「オ・アニマウ」というあだ名を付けられたのもこの頃だった。93年のサンパウロ州選手権の決勝では、挑発してきたコリンチャンスの選手に一発お見舞いし、翌年の試合でもサンパウロの選手に蹴りを入れ、もう少しで訴えられるところだった。

チームメイトとの関係も良好と言えず、「態度を改める」と言いながらも監督とも衝突を繰り返し、サポーターにも嫌われてしまう。そんな問題児に手を焼いたクラブは、95年にエジムンドを移籍金600万ドルでフラメンゴに売却する。

その95年には「悪童」の異名を持つロマーリオが、スペインのバルセロナを離れてフラメンゴに移籍。問題児のエジムンドとロマーリオはメディアに「バットボーイズ」と名付けられたツートップを組むが、案の定うまく機能しなかった。その間も、野次ってきた相手サポーターに向かって性器を丸出しにして振ってみたり、3-0と快勝した試合で相手DFと殴り合いを演じたりと、素行の悪さは相変わらずだった。

だがそんなとき、自分の過失で同乗者の女性と対向車に乗っていた2人を死亡させる自動車事故を起こしてしまう。処罰は逃れたものの、「人殺し」などの野次も受けるようになり、エジムンドはフラメンゴからも去らざるを得なくなる。さすがにこの事故は彼の心に大きな痛手を負わせ、長らく罪の意識に苛まれたと後年告白している。

96年、同じサンパウロの名門クラブ、コリンチャンスに入団。しかし選手権の開幕戦で乱闘を繰り広げ、出場停止処分を受けるなどさっそく問題児ぶりを発揮。ほとんど活躍を見せることもないまま、翌97年には古巣のヴァスコ・ダ・ガマへ戻っていった。

97年、28試合で29ゴールを挙げて得点王を獲得、その中にはエジムンド一人で6得点を決めた試合もあった。そしてそれまでの最多得点記録を20年ぶりに更新し、ブラジル全国選手権優勝の立役者になった。だが最終節前の試合でイエローカードを受け、累積で次戦に出られないことが分かると、審判に暴力を振るうという騒動も起こしている。

それでもエジムンドは97年のブラジル最優秀選手に選ばれ、直後にセリエA・フィオレンティーナへの移籍を果たす。そして98-99シーズンにはルイ・コスタバティストゥータと並ぶ攻撃の中心となり、フィオレンティーナを首位に押し上げる活躍を見せた。

しかし優勝争いも佳境に入った終盤に “リオのカーニバル休暇” の契約条項を行使、ブラジルへ帰国する。その直前にはエースのバティストゥータが故障離脱を余儀なくされており、頼みのエジムンドもいなくなったチームは失速して優勝を逃してしまう。

さらにチームに馴染めなかったエジムンドは、ほとんどの選手やコーチと不仲になっていた。バティストゥータを「負け犬」、ルイ・コスタを「やっかみ屋」となじり、自分を途中交代させたトラパットーニ監督をテレビカメラの前で非難するという始末だった。

この年には、息子の誕生パーティーでチンパンジーに酒を飲ませ、動物愛護団体から抗議されるという「チンパンジー飲酒事件」も起こしていたエジムンド。これらの行為はチームメイトやファンからの信頼を失わせ、シーズン終了後には再びヴァスコ・ダ・ガマへ舞い戻ることになる。

98年、Wカップ・フランス大会にFWメンバーとして参加、しかしロナウド、ベベトー、リバウド、レオナルド、デニウソンと駒の揃った攻撃陣にエジムンドの出番は少なく、2試合20分足らずの出場に留まってしまった。

決勝となったフランス戦の6時間前、ホテルの部屋にいたロナウドが痙攣を起こし泡を吹いて卒倒、驚いた同室のR・カルロスが廊下にいたエジムンドに助けを求めた。部屋に入ったエジムンドは「ロナウドが死んでしまう」と叫びながら懸命の蘇生処置を施し、病院で回復したロナウドは試合に強行出場する。

試合前に提出されたメンバー表にはFWにエジムンドの名が記載されており、キックオフ直前にスタメンを降ろされた野獣は怒り狂ったと言われている。以降エジムンドはロナウドについて聞かれると、見下すようなコメントを吐くようになったという。

ヴァスコ・ダ・ガマでは再びロマーリオとツートップを組み、今度はうまく機能して二人は大活躍を見せる。そして00年にブラジルで行われた第1回FIFAクラブワールドカップに出場、開催国枠で参加したコリンチャンスと決勝を戦う。しかしこの決勝戦でエジムンドがPKを失敗し、コリンチャンスに優勝を奪われてしまう。

その後ロマーリオと仲違いし「バットボーイズ」コンビを解消、移ったサントスからナポリにレンタルされ、01年にはクルゼイロでプレーした。だがクルゼイロでは古巣ヴァスコ・ダ・ガマとの対戦で故意にPKを外し、チームから追放されてしまう。

フリーとなったエジムンドは01年10月、J2降格危機にあった東京ヴェルディへ急遽入団。Jデビューとなったセレッソ大阪戦で初ゴールを記録すると、続くヴィッセル神戸戦でも得点を決めた。最終節のFC東京戦でも決勝点をアシスト、エジムンドが参戦した5試合でヴェルディは3勝1敗1分けの成績を残し、残留争いをしたアビスパ福岡を振り切ってJ1生き残りに成功する。

翌02年も16ゴールを挙げる活躍を見せるが、故障を理由に開幕3試合を欠場。その間ブラジルに戻り、ちゃっかり “リオのカーニバル” を楽しんでいた。

日本では最初こそ紳士的に振る舞っていたエジムンドだが、あからさまな守備放棄やパスがズレると足を伸ばそうともしないなど、尊大な振る舞いが目立ち始める。03年には浦和レッズに移籍、しかしオフト監督と意見が合わずカップ戦2試合に出場しただけでブラジルへ無断帰国してしまった。

ヴァスコ・ダ・ガマに3度目の復帰を果たしたエジムンドだが、やがてチームメイトと揉めて退団。04年にフルミネンセへ移籍し、ここでもロマーリオとツートップを組む。それからも移籍を繰り返したあとの08年、エジムンドは愛するヴァスコ・ダ・ガマでのプレーを最後とし37歳で現役を引退した。

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