「 最強アヤックスの10番 」 ヤリ・リトマネン ( フィンランド )
非凡な技術に加えて優れた頭脳を持ち、トップ下の位置でドリブル、パス、シュートを的確に使い分けチームを牽引。セカンドストライカーとしても並外れた才能を見せた。小国の出身ながら90年代に隆盛を誇ったアヤックスの10番を背負い、フィンランド史上最高の選手と謳われたのがヤリ・リトマネン( Jari Olavi Litmanen )だ。
若くしてフィンランドリーグで名を挙げ、92年にはオランダの名門アヤックス・アムステルダムに引き抜き。ルイ・ファン ハール監督率いる「最強アヤックス」の中核を任され、95年のリーグ優勝。国内スーパーカップ、欧州チャンピオンズリーグ、トヨタカップ優勝の4冠達成に大きく貢献し、その名を世界に響かせた。
その後移籍したスペインのバルセロナでは輝けなかったが、イングランドや母国のクラブで長く現役選手として活躍。フィンランド代表ではワールドカップやユーロなどの大舞台に立てなかったものの、小国をワールドクラスのプレーで支え、北欧レジェンドとしての名を刻んだ。
ヤリ・リトマネンは1971年2月20日、首都ヘルシンキの北側に位置する都市ラハティに生まれた。父オラヴィと母アリスは、ともに地元のFCラハティ(現レイパス・ラハティ)やフィンランド代表で活躍するトップクラスのサッカー選手。二人の遺伝子を受け継いだ息子は早くからサッカーに親しみ、冬はアイスホッケーの選手としても才能を見せた。
16歳になるとサッカー1本に絞り、両親がプレーしたFCラハティに入団。卓越したテクニックとサッカーセンスを持つリトマネンは、ストライカーとゲームメイクを同時にこなすという高い能力を発揮し、早くもトップチーム昇格。87年3月のコパレイト戦で1部リーグデビューを飾ると、88年4月のACオウル戦で初ゴールを記録する。
そしてヴィッカスリーガ(プロリーグ)発足の90年シーズン、26試合14ゴールの活躍でFCラハティのリーグ3位に貢献。中堅クラブをチャンピオンシップ進出に導き、20歳にしてリーグMVPとフィンランド年間最優秀選手賞に輝く。
その活躍により、91年にはフィンランド最大のクラブHJKヘルシンキへ移籍。そしてヘルシンキでもすぐにチームの主力となり、27試合16ゴールの活躍。翌92年シーズンはラハティ時代の恩師と慕うハリー・カンプマンが監督を務めるMyPaへ移籍し、フィンランド・カップ決勝進出に貢献。決勝のFFジャロ戦ではゴールを記録し、クラブ初タイトル獲得の立役者となる。
するとその才能が海外クラブにも知られるようになり、92年の夏にはオランダの名門アヤックス・アムステルダムと契約。小国生まれの若者は、世界に知られる強豪クラブで飛躍のチャンスを得た。
アヤックスの1年目はエースであるベルカンプの控えに甘んじ、12試合1ゴールと結果を残せずに終わる。しかし翌93-94シーズンにベルカンプがインテル・ミラノへ移籍すると、エースの背負っていた10番はリトマネンに与えられた。
するとリトマネンはその期待に応え、レギュラーに定着して30試合26ゴールと得点王の大活躍。チームを4季ぶりとなるエールディヴィジ優勝に導き、オランダ年間最優秀選手賞に輝く。
ゴールゲッターとしてだけでなく、「プロフェッサー(教授)」の異名を持つほどの頭脳を持っていたリトマネンは、中盤のポリバレントとしてルイ・ファン ハール監督に重用され、攻撃の中核を担った。
91年にアシスタントコーチからアヤックスの監督となったファン ハールは、経験は浅いが伸びしろのある選手をどんどん引き上げて育成。ここで鍛えられたのがファン デルサールやデ・ブール兄弟、そしてダーヴィッツ、セードルフ、クライファートら将来性のある若手選手たちである。
このとき平均年齢23歳に満たない若いチームだったが、リトマネンはベテランのライカールトとともに3-4-3のフォーメーションを敷くダイアモンド型の中盤を牽引。アヤックス黄金期の扉を開いた。
翌94-95シーズンもアヤックスはリーグを連覇。全員がマルチな能力を発揮し躍動するアグレッシブさで連勝を重ね、クライフ時代に匹敵すると称賛された軍団は、「最強アヤックス」の名で呼ばれる。
欧州チャンピオンズリーグにも3年連続の出場。決勝でACミランを1-0と下し、大会3連覇を達成した73年以来の欧州クラブ王者に輝く。決勝では途中交代となってしまったが、6ゴールを挙げてCL優勝の原動力となったリトマネンは、この年のバロンドールでジョージ・ウェア、ユルゲン・クリンスマンに続く3位の票を集めた。
95年11月、アヤックスは東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場。世界No.1クラブの座を懸けて、フェリペ・スコラーリ監督率いるブラジルのグレミオと戦う。ファン ハール監督はクライファート、オーフェルマルス、フィニディ・ジョージと持ち味の違うアタック・トリオを前線に配置し、それをリトマネンがコントロールする攻撃的布陣で臨んだ。
だがピッチコンディションの悪さに阻まれ、得意のパスワークが生かせないアヤックス。ボールは支配するものの、なかなかチャンスまでに繋がらなかった。リトマネンもグレミオのハードマークに悪戦苦闘し、効果的な仕事が出来ないままゲームは進む。
それでも56分、クライファートのこぼれ球をリトマネンが拾って絶好のシュートチャンス。しかし薄い芝と硬い地面に引っかかってミスキックとなり、ボールは力なくGK正面に飛んでいった。最大の好機を逃したアヤックスは連戦の疲れから運動量が次第に少なくなり、終盤にヌワンコ・カヌーを投入して打開を図るも、狙いは空回りするだけだった。
膠着状態に入った試合は延長戦に突入し、相手守備に封じられたリトマネンは94分に交代となった。決勝は120分を戦っても得点は生まれず、優勝の行方はPK戦にもつれる。結局PK戦でグレミオを4-3と振り切ったアヤックスが世界No.1クラブの称号を手にしたが、ファン ハール監督は試合後の記者会見で、国立競技場のピッチ状態の悪さに不満と怒りを爆発させている。
翌95-96シーズン、アヤックスはエールディヴィジを3連覇。その勢いでCLも2年連続で決勝へ勝ち上がり、大会連覇を懸けてユベントスと戦った。だが試合は前半12分、DFフランク・デ・ブールとGKファン デルサールの連携ミスから失点、前回王者アヤックスは苦しい立ち上がりとなる。
しかし41分、F・デ・ブールのFKがGKに弾き返されたところを、リトマネンが素早く反応してシュート。1-1の同点とした。だが延長を戦っても勝負はつかずPK戦に突入。2人目に登場したリトマネンは落ち着いてゴールを沈めるも、アヤックスはダーヴィッツら2人が失敗。4人が決めたユベントスに2-4と敗れ、CL2連覇はならなかった。
それでもアヤックスはユベントスとの決勝に敗れるまで、前年からのCL19連勝を達成。9ゴールを挙げたリトマネンは、初の大会得点王に輝いた。
97-98シーズンもリーグを2季ぶりに制覇したアヤックスだが、95年12月に下された「ボスマン判決」の影響により終焉の時を迎える。それまでクラブ有利の契約と外国人出場枠制限に縛られていた選手の移籍が、EU圏内では事実上自由となったため、若い才能の宝庫だったアヤックスはビッグクラブの草刈場となってしまったのだ。
これによりチームの黄金期を支えてきた選手たちが次々とチームを離れ、ファン ハール監督もスペインの強豪バルセロナへ引き抜き。リトマネンはチームに残るも、98-99シーズンはリーグ6位と低迷。アヤックス栄光の時代は終わりを告げた。
フィンランド代表には19歳の若さで初招集。89年10月の親善試合トリニダード・トバゴ戦で代表デビューを飾り、91年5月に行なわれたユーロ予選・マルタ戦で初ゴールを記録する。
しかしこれまで国際大舞台への出場経験がないフィンランドは、ユーロ92と94年W杯の予選で続けて敗退。94年7月から始まったユーロ96予選では、主力に成長したリトマネンが4ゴールと活躍するも、守備の脆さに泣き4位敗退。若きエースの奮闘は報われなかった。
96年からは代表キャプテンを務め、同年6月から始まったW杯欧州予選では敵地でスイスを破る快挙。またアウェーのノルウェー戦でも引き分けるなど大健闘を見せるが、プレーオフへ進めるグループ2位に1ポイント及ばず、惜しくも敗退となってしまう。
このあとユーロ2000への出場も逃し、世界に名を馳せたアヤックの10番が代表の晴れ舞台に姿を現すことはなかった。
99年夏にはファン ハール監督からラブコールを受け、7シーズンを過ごしたアヤックスを離れてバルセロナへ移籍。スペインの新天地では、クライファート、デ・ブール兄弟、ライツハーらアヤックス時代の同僚と再会する。
バルセロナでも10番としての役割を期待されたが、3年前に故障した足首の痛みに悩まされ、99-00シーズンは21試合3ゴールと成績低迷。たびたび治療台へ横たわる姿から、「ガラスの男」という有り難くないニックネームを頂戴することになる。
そして翌シーズンのCL準決勝敗退でファン ハール監督が退任すると、新加入のリバウドに10番を譲って出場機会を失ってしまう。チームを戦力外となったリトマネンは、新シーズンが始まったばかりの01年9月、子供時代からの憧れだったリバプールに誘われイングランドに向かう。
リバプールではさっそく2試合連続ゴールを記録するなど好調なスタートを切ったが、今度はふくらはぎを痛めて長期の欠場。00-01シーズン、リバプールはFAカップ、リーグカップ、UEFAカップ優勝のカップトレブル(3冠)を達成するも、公式戦出場11試合(2ゴール)にとどまったリトマネンの存在感は薄かった。
翌01-02シーズンは公式戦32試合に出場して7ゴールを記録するが、ほとんどが途中出場によるもの。ベンチ要員の扱いに不満を抱いたリトマネンはクラブとの契約を解除。ガラタサライ(トルコ)からの好条件のオファーを断り、リーズナブルな契約で古巣のアヤックスに復帰する。
しかしアヤックスでもかつてのようなパフォーマンスを取り戻せず、04年には故郷のラハティへ戻る。だがここも安住の地とはならず、たび重なる故障と付き合いながら移籍を繰り返していく。
03年4月、親善試合のアイスランド戦でPKによる得点を挙げ、それまでのフィンランド代表レコードだった通算20ゴールを更新。だが小国にW杯やユーロの予選を勝ち抜く戦力はなく、ワールドクラスのプレーで代表を支えてきたリトマネンは、もはや孤高の存在となりつつあった。
だが06年8月から始まったユーロ08予選で、フィンランドに千載一遇のチャンスが訪れる。ポーランドとの初戦ではリトマネンが2得点を挙げ、3-1の白星スタート。続く第2戦は強豪ポルトガルと1-1で引き分ける。このあとも順調に勝点を重ね、序盤を3勝2分けとしてグループ1位をキープ。フィンランドが悲願とするユーロ初出場への道が開けたかに思えた。
しかし予選半ばの07年7月、アキレス腱断裂の重傷を負ったリトマネンが代表を離脱。ここからチームは失速し、グループ4位へと後退。残り2試合となった8ヶ月後に戦線復帰を果すも、時既に遅し。本大会出場となる2位以内に惜しくも届かず、またも小国の悲哀を味わう。
そのあとも大ベテランとなったリトマネンの代表キャリアは続き、10年W杯予選とユーロ2012予選にも参加。10年11月に行なわれたユーロ予選・サンマリノ戦ではPKによる得点を決め、39歳8ヶ月の同予選最年長ゴール記録を打ち立てている。
ユーロ予選敗退後に就任したスチュアート・バクスター監督は、リトマネンらベテラン選手を招集しないことを明言。それによりサンマリノ戦が最後の代表キャップとなった。
代表歴の21年で137試合に出場、32ゴールを記録した。この出場数は現在でも、フィンランド代表でダントツの最多記録。最多ゴール数は21年にテーム・プッキによって更新(現在38ゴール)されているが、いまだリトマネンの存在に迫る選手は現れていない。
08年10月にはレイパス・ラハティの共同オーナーに就任。ここで現役生活を続けるも、2010年シーズンに14位と低迷して2部リーグ降格。翌年はHJKヘルシンキと契約を結び、シーズン終了後の11年10月、40歳で現役を引退する。
引退後はサッカー解説者として活動していたが、20年にはラハティの監督で幼なじみであるトミ・カウトネンの要請を受け、古巣のコーチングスタッフとして現場復帰している。