《 サッカー人物伝 》 ラウドルップ兄弟

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「ダニッシュ・ダイナマイトの最強兄弟」

ミカエル &ブライアン・ラウドルップ(デンマーク)

80年代半ばから90年代にかけてサッカー界に旋風を起こした北欧の伝統国デンマーク。その「ダニッシュ・ダイナマイト」と恐れられた攻撃の中心を担ったのが、ミカエルとブライアンのラウドルップ兄弟( Michael Laudrup / Brian Laudrup )だ。

柔らかなボールタッチによるドリブルと、タイミングの良いパス出しを武器にする兄ミカエルは、84年の欧州選手権で鮮烈のデビューを飾ると86年のWカップでも大活躍、その名を世界に轟かせた。またユベントスやバルセロナでも輝かしい実績を残し、デンマーク史上最高の選手とされた。

弟ブライアンは兄以上のスピードとドリブルセンスで攻撃を牽引、92年のユーロで母国を国際大会初優勝に導いた。スコットランドのレンジャーズでは最優秀選手に選ばれる活躍でリーグ連覇に貢献、クラブの英雄となった。

監督と衝突したミカエルが一時代表入りを拒否し、国際舞台での兄弟共演は少なかったが、98年のWカップ・フランス大会でついに二人揃っての活躍が実現することになる。

ミカエルのキャリア

ミカエルは1964年6月15日、4人兄弟の末っ子ブライアンは69年2月22日生まれ、兄弟はデンマークの首都コペンハーゲンで育った。父親のフィン・ラウドルップは元代表選手で、2人は父が選手権監督を務めるブロンビーの下部組織でプレーするようになる。

兄のミカエルは17歳で早くも頭角を現し、81年に1部リーグのトップチームに昇格。翌82年にはリーグ3位となる15得点を挙げデンマーク最優秀選手賞を受賞、この早熟の若者はたちまち各国の強豪クラブから注目されるようになった。

そしてリバプール、アヤックス、バルセロナといった名門が彼の争奪戦を繰り広げる中、父親の勧めで83年にユベントスと契約を結ぶ。だが、当時セリエAの規定では外国人選手の出場枠が2人までとされていたため、ミカエルはラツィオへレンタルされることになった。

85年、低迷を続けていたラツィオが2部へ降格、外国人枠が1つ空いたこともありミカエルはユベントスに呼び戻される。そして85年12月には東京で行われたトヨタカップに出場、アルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)との試合でプラティニのロングパスを受けて見事なゴールを決め、クラブ世界1に貢献している。

「ダニッシュ・ダイナマイト」登場

A代表に呼ばれたのは82年6月。18歳の誕生日となった15日にノルウェー戦に出場し、さっそく初ゴールを記録してデビュー戦を飾る。84年、デンマークが20年ぶりに欧州選手権フランス大会に出場、若いミカエルもメンバーに選ばれた。

サッカー協会設立が1889年という古い伝統を持つデンマークだったが、長らくアマチュア至上主義を貫いていたため当時はまだプロリーグもなく、オリンピック以外の国際大会では目立つ成績を残せないでいた。

だが低迷が続いたことからプロへの緩和化が進み、79年に就任したドイツ人監督ゼップ・ピオンテックがアラン・シモンセン、モアテン・オルセン、セーレン・レアビー、P・エルケーア・ラルセンら外国で活躍する選手をまとめあげ、3-5-2の最新システムによる攻撃的チームを作った。

技巧派のミカエル・ラウドルップと、「野牛」と呼ばれるパワー系のエルケーアが組む2トップは相性も破壊力も抜群。ベテランのモアテン・オルセンがリベロとしてチームを操り、ベルギーやユーゴといった強敵を次々と打ち破っていく。

準決勝では主力のシモンセンを負傷で欠き、スペイン粘り強い守りの前にPK戦で敗れ去ってしまったが、「ダニッシュ・ダイナマイト」と呼ばれたスペクタクルなサッカーは世界を驚かせた。

ワールドカップの快進撃

2年後、デンマークはついに86年のWカップ・メキシコ大会に初出場を果たす。初戦はエルケーアの力強いゴールでアイルランドに1-0と勝利、第2戦で古豪ウルグアイと戦う。ミカエルとの息の合った連携からエルケーアが先制点を挙げると、続いてレアビーが2点目。そしてミカエルが鮮やかなドルブルでDFを抜き去り3点目を決める。

フランチェスコリに1点返されたものの、その後エルケーアがハットトリックを達成して南米の古豪を6-1と粉砕。そして第3戦ではオルセンのPKなどで強豪西ドイツを2-0と下し、3戦全勝でG/Lを突破した。

だがアステカの高地と昼間の炎天下で行われたG/Lの試合で飛ばしすぎたことにより、決勝Tではその疲れが出てしまう。決勝T1回戦のスペイン戦では「ハゲワシ」ブトラゲーニョ1人にやられて、1-5の思わぬ大敗を喫してしまったのだ。それでも大会に旋風を起こした「ダニッシュ・ダイナマイト」は、実力の高さを認められるようになった。

デンマークは88年の欧州選手権西ドイツ大会にも続けて出場。ミカエルはスペイン戦でゴールを挙げるが、高齢化でピークを過ぎたチームは3戦全敗でG/L敗退となる。そして11年間デンマークを率いてきたピオンテック監督が90年にWカップ出場を逃し退任すると、後任ニールセン監督の守備的サッカーを批判したミカエルは代表招集に応じなくなってしまう。

ブライアンのキャリア

弟ブライアンは89年にブロンビーからブンデスLのバイヤー・ユルディンゲンへ移籍、翌90年には名門バイエルン・ミュンヘンと契約する。移籍1年目にリーグ戦9ゴール11アシストの活躍、ブンデスの人気プレイヤーとなった。

92年、ユーロ・スウェーデン大会への参加が決まっていたユーゴスラビアが、内戦勃発で制裁を受け出場権を剥奪される。代わってデンマークがユーロ92に出場することになり、23歳のブライアン・ラウドルップも代表メンバーに選ばれた。

1次リーグの第1節はイングランドとの対戦。ブライアンは変幻自在のドリブルで相手を幻惑したが、決定力に欠け無得点。それでもイングランドの攻撃をGKピーター・シュマイケルの好セーブで凌ぎ、試合をスコアレスドローに持ち込んだ。

だが第2節では地元スウェーデンに0-1と敗れ、2試合無得点のデンマークは厳しい状況に追い込まれる。しかしグループ最終戦はブライアンの奮闘で強敵フランスに2-1と競り勝ち、G/L2位で準決勝進出を決めた。

準決勝の相手は、ファン バステンフリットベルカンプなど強力な攻撃陣を擁するオランダ。2トップの一角を任されたブライアンは得意のドリブルとスピードでDFを翻弄、開始5分のラルセンによる先制点を呼び込んだ。

23分にベルカンプのシュートで追いつかれるが、33分にこぼれ球を拾ったブライアンのヘッドの送りから、再びラルセンのゴールが決まる。この後FWを4人に増やして猛攻を仕掛けるオランダ。シュマイケルが幾度もの決定機を防ぐが、86分、ついにライカールトのゴールで同点とされてしまう。

このあと延長120分を戦うが2-2で試合は終了、決着はPK戦に持ち込まれた。そしてPK戦では2人目ファン バステンのキックをシュマイケルが横っ飛びで防ぎ、5-4と競り勝ったデンマークが強豪を退けた。

ユーロ92優勝の快挙

決勝の相手は、Wカップ・チャンピオンのドイツ。立ち上がりから休みなく攻撃を続けるドイツだが、守護神シュマイケルの堅守でゴールを許さなかった。そして18分、デンマークが一瞬の隙を突いてカウンター、そこからイェンセンの先制弾が決まった。

すると流れはデンマークのペース、73分には至近距離でクリンスマンにヘディングシュートを打たれるが、シュマイケル咄嗟の反応で防いだ。そして78分、ブライアンがファールを受けFKのチャンス、ゴール前の混戦からデンマークの追加点が生まれた。

こうして試合は2-0で終了、代替出場で優勝するという快挙を成し遂げたデンマークは、国際大会初となるビッグタイトルを手にした。そしてブライアンはこの大会の活躍を認められて、イタリアのフィオレンティーナへ移籍する。

だがフィオレンティーナは93年にセリエBへ降格。ブライアンはACミランにレンタルされるが出場機会に恵まれず、94年にスコットランドのレンジャーズFCへ移籍した。そして、このレンジャーズで輝きを取り戻したブライアン。4年間の在籍で3度のリーグ制覇、スコットランド・カップ優勝にも貢献し、2度の最優秀選手賞に輝いた。

「ドリームチーム」のゲームメーカー

兄ミカエルは、クライフ監督の熱烈なラブコールを受け89年にバルセロナへ移籍。セリエAでは今ひとつ力を出し切れなかったミカエルだが、クライフによってチャンスメーカーとしての才能を見いだされ、「ドリームチーム」と呼ばれたバルセロナ攻撃の中軸として活躍した。

そしてチームのリーグ4連覇に貢献、92年にはチャンピオンズ・カップ制覇も果たし、ミカエルは最優秀外国選手賞を受賞した。しかし93年にロマーリオが加入してから出場機会が減ってゆき、クライフ監督とも衝突するようになって94年にはライバルチームのレアル・マドリードへ移籍する。

このタブーとも言える移籍は大きな議論を呼んだが、プレーに徹したミカエルは多くのアシストを記録し、レアル5シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。キャリアの晩年を迎えた96年にはJFLのヴィッセル神戸へ移籍、クラブのJリーグ昇格に寄与した。

しばらく代表から離れていたミカエルだが、ニールセン監督の説得に応じて93年8月に復帰を果たす。しかしアメリカWカップを目指した欧州予選では第3組のライバル、スペインとの直接対決に敗れ本大会出場を逃してしまう。イングランドで開催されたユーロ96にはキャプテンとして弟と共に出場するが、1勝1敗1分けでG/L敗退となった。

だがデンマークはヨハンソン監督のもと立て直しを図り、97年のWカップ欧州予選では順調に勝点を重ねて12年ぶりとなる本大会出場を果たした。予選のハイライトとなった9月10日のクロアチア戦では、ミカエル、ブライアンの兄弟が揃って得点を記録している。

最期の兄弟共演

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。デンマークはG/Lで1勝1敗1分けの成績だったが、組み合わせにも恵まれ地元フランスに続く2位で決勝Tに進んだ。このG/Lでは弟ブライアンが2アシスト、兄ミカエルがPKで1点を挙げている。

決勝T1回戦では、アフリカの雄ナイジェリアと対戦する。「スーパーイーグルス」の愛称を持つナイジェリアは、96年アトランタ五輪優勝メンバーを主力とした勢いのあるチームだった。しかし開始3分、ミカエルからの左足パスをモラーが確実に決め、デンマークが先制した。12分にはGKが弾いたボールをブライアンが押し込み2点目、後半にも2得点を追加した。

デンマークはナイジェリアの反撃をババンギダの1点に抑えて4-1と勝利、かつての「ダニッシュ・ダイナマイト」を彷彿とさせる攻撃でベスト8に進んだ。

そして準々決勝は優勝候補ブラジルとの戦い。開始2分に早いリスタートから、ブライアンのアシストでデンマークが先制する。しかし怪物ロナウドの動きにマーカーが引きつけられ、11分にベベトーの同点ゴール、17分にはリバウドの逆転弾を許してしまう。

ラウドルップ兄弟のドリブル共演で反撃を図るデンマーク。後半の50分、R・カルロスがオーバーヘッドでのクリアを失敗、すかさずブライアンがシュートを打ち同点とする。だがその10分後、ドゥンガのパスを受けたリバウドが強烈なミドルシュート、死角にいたシュマイケルは反応出来ず、再びブラジルにリードされてしまった。

このまま試合は2-3のまま90分を過ぎ、終了を告げるホイッスルが吹かれる。ミカエルとブライアンは静かに抱き合い、兄弟2人のWカップは幕を閉じた。それでも白熱したこの準々決勝は、大会屈指の好試合として記憶されることになった。

このあと兄ミカエルはアヤックスでのプレーを最後に、34歳で現役を引退した。引退後は指導者の道を進み、今もクラブの監督として活躍している。

弟ブライアンは、98年にレンジャーズからチェルシーに移籍。そのあとFCコペンハーゲンを経て、31歳となった2000年にアヤックスで現役を引退した。兄とは違って監督の仕事を選ばず、現在はデンマークのテレビ局でコメンテーターとして働いている。

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