日本初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」

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カルメン故郷に帰る

日本で最初の国産長編カラー作品が、51年(昭和26年)公開の『カルメン故郷に帰る』である。監督を務めたのは、戦後の映画界で黒澤明と並ぶ両輪と呼ばれた名匠・木下惠介。陽気なストリッパー “カルメン” の里帰りが呼び起こす大騒動が、雄大な浅間山麓を舞台に繰り広げられる喜劇映画だ。

物語は、北軽井沢で牧場を営む青山正一(坂本武)のもとへ、リリー・カルメンこと娘のおきん(高峰秀子)が、友達の朱美(小林トシ子)を連れて里帰りするところから始まる。ストリッパーの二人は派手な格好で出歩いて村中の評判となり、父親の青山も困り果てる。

それでも村の校長先生(笠智衆)は二人を芸術家だと大歓迎。その学校でオルガンを弾く盲目の音楽家・田口春男(佐野周二)は、運送屋の丸十(里見凡太郎)からオルガンを抵当に生活をしていた。朱美が熱をあげる小川先生(佐田啓二)も田口の困窮ぶりに同情的だ。

カルメンと朱美は金儲けのうまい丸十と組み、ストリップショーを計画して大成功。丸十も気をよくしてオルガンを田口に返すことにした。二人は出演料をそっくり父親に贈り、父の青山はそのお金を学校に寄付する。こうして二人は気分よく故郷をあとにしていった。

国産カラーフィルムの開発

終戦後、アメリカ映画『ステート・フェア』(45年)やソ連映画『石の花』(46年)といったカラー作品が日本で公開されるようになり(39年製作のテクニカラー超大作『風と共に去りぬ』が日本で公開されたのは52年)、その鮮やかさは日本の観客を驚かせた。

こういった一連の輸入カラー映画に触発され、国産カラーフィルムの研究・開発に取り組んだのが、富士写真フィルム(現、富士フイルム)である。当時カラーフィルムの技術にはソ連映画が採用していた発色式の「アグファカラー」と、イギリスが開発した三色式の「テクニカラー」というふたつの方式があったが、富士フイルムは独自の開発を進める。

「アグファカラー」方式には色の3原色である赤・青・黄を1本のフィルムで出すために、それぞれ3回現像を繰り返す必要があった。一方「テクニカラー」は、赤用・青用・黄色用と通常の3倍のフィルムを使い、大がかりな特性の撮影機材も用意しなければならなかった。

いずれもカラー映画をつくるのに煩雑な手間と莫大な費用がかかり、まだ経済力に乏しい日本の映画界では製作が困難だったのだ。そのため、安上がりで使える新しいカラー方式を開発する必要があったのである。

こうして富士フイルムは設備を新設し、現像能力を飛躍的に高めて「リバーサル・外色発光」方式のカラーフィルムを開発。実現の見通しがついた昭和25年の初夏に「国産カラーによる最初の長編劇映画」製作について、日本映画監督協会に強力を求めた。

映画市場がやがて、カラー作品に席巻されていくのは避けられない、と感じていた日本映画監督協会は協力を約束。協会理事の小津安二郎監督を中心に検討が進められて、製作会社には松竹が選ばれ、監督・脚本には才能と実績のある木下惠介へ白羽の矢が立った。

手探りの撮影開始

白黒作品より多額の製作費がかかるという事情で、木下監督は当初、大当たり狙いで山岳アクションを撮ろうと考え、『アルプスの死闘』という脚本を書いて夏の上高地へロケハンに向かった。だが上高地は季節の移り変わりが急で、自然の色がすぐに変わってしまうという難点があった。

こうしたことから手探りの状態でのカラー撮影は困難と判断、木下監督はすぐにこの企画を諦め、東京へ帰る車中で考えついたアイデアを、1週間で脚本に仕上げた。この新しい物語が『カルメン故郷に帰る』(最初の題は『失楽園』)である。

主役リリー・カルメンの高峰秀子を始めとする配役が決定したあと、撮影や照明ら木下組のスタッフと、富士フイルムの専門技術者が一緒に行ったカメラテストで、俳優のメークアップという最初の難問に遭遇する。

それまでの白黒作品で使用されていた化粧品では、どうしても顔の肌色がきれいに写らない。そこでマックス・ファクター日本支社を訪れると、ハリウッドで女優経験を持つ極東支配人のウェスト女史が協力依頼を快諾、大船撮影所でメークアップの指導が始められた。ちなみにそのとき化粧モデルとなったのは、新人女優の岸惠子だった。

こうして撮影・照明スタッフと富士フイルム技術者との打ち合わせとテストが2ヶ月にわたって続けられた後、昭和25年9月5日に木下組は新しくロケ地に決まった浅間高原に向かって出発し、その翌日から撮影が開始される。カラー撮影にはかなりの光量が必要とされるため、ロケの時間は午前8時から午後1時までに限られた。

太陽光を反射させて照明するレフ版は、白黒撮影用より何倍も大きく作られ、枚数も増えてびっしり出演者に向けられた。そのため俳優は本番とテストで無理に目を開くことを強いられ、撮影が終わったあとは眩んだ視力を取り戻すまでしばらく時間がかかったそうだ。

現場にはいつも富士フイルムの技術者が二人立ち会い、撮影されたフィルムは助手によって富士フイルムの足柄工場まで運ばれ現像された。そのラッシュを軽井沢の映画館で試写するが、映写機の光源が弱いため写りが悪く参考にならず、最期は富士フイルム技術者の肉眼チェックが頼りとされた。

撮影は、光量が確保される午後1時までで終わらなかった。カラー版が失敗した場合に備えて、白黒版の撮影も行われていたからだ。この映画が失敗したら社業に甚大な影響を及ぼすと考えた富士フイルムは、作品が鑑賞に堪えない場合は公開を見合わせて欲しいと、松竹に申し入れていた。松竹も「失敗でした」と済ませる訳にはいかないので、白黒版の撮影も同時に行ったのである。

国産カラー映画第一号

9月6日に始まった撮影は、大船撮影所でのセット撮影を挟んで11月14日に終了した。ロケ日数68日のうち実際に撮影がなされたのが29日。狙い通りの天候を待ってからの本番が行われたため、長丁場の日程となってしまった。撮影終了後も、フィルムの修正作業や編集・録音等に通常とは比較にならないほど時間が掛かり、木下監督が次に撮った白黒作品『善魔』のほうが先に封切られた。

昭和26年3月、「1931年我国最初のオールトーキー(『マダムと女房』のこと)を完成した松竹が再び拓く日本映画史上不滅の新紀元! 総天然色映画此処に生まる」のキャッチフレーズとともに、まず築地の東劇でロードショー公開された。

その評判は「テクニカラーの重厚な色彩には及ばないが、日本の自然の色が素直に出ており、事前の予想より遙かに上出来な完成度」というものだった。戦後の自由な雰囲気を投影した軽快な喜劇物語も好評で、興行的にも成功した作品となった。

だが富士フイルムが開発した「リバーサル・外色発光」方式は赤と緑の発色に問題があることが分かり、結局技術的には満足いくものにはならなかった。52年にはアメリカのコダック社が「イーストマン・カラー」と呼ぶカラーフィルムを発表。その品質と利便性・経済性で他の方式を駆逐し、カラー映画撮影の主流となっていった。

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