《 サッカー人物伝 》 ガリー・リネカー

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「英国紳士のストライカー」 ガリー・リネカー ( イングランド )

鋭い得点感覚と俊敏な反応で、いち早くゴール前に飛び込んで得点を生み出したストライカー。またそのキャリアの中で一度も警告を受けたことのないという、紳士のフットボールを体現したイングランドの選手が、ガリー・リネカー( Gary Winston Lineker )だ。

86年のメキシコ・ワールドカップでは、ポーランド戦のハットトリックやアルゼンチン戦でのゴールなどで6得点を記録、大会得点王に輝いた。90年のイタリア・ワールドカップでも4得点を挙げ、自国開催の66年大会以来となるベスト4進出の原動力となった。

キャリアの晩年には名古屋グランパスと契約し、誕生したばかりのJリーグでの活躍が期待された。だが足の故障により、僅か2シーズンのプレーで現役を終えている。

ストライカー覚醒

リネカーは1960年11月30日、イングランドの中央部に位置するレスター市の、青果業を営む家庭で生まれた。学校時代はサッカーとクリケット(クリケット部ではキャプテン)で才能を見せたが、76年にプロ選手を目指してレスター・シティーのユース・アカデミーに入学する。

78年、当時2部リーグに所属していたレスターで、18歳のリネカーはトップチームデビューを果たす。だがストライカーとして鋭い得点感覚を見せるものの、そのプレーはまだまだ荒削り。最初のうちは結果を残すことが出来なかった。

決してテクニシャンタイプでは無かったリネカー。己の役割はペナルティー・エリアでの仕事にあると見定め、ポストプレーを磨くべく厳しいトレーニングに励んだ。

そしてデビュー後3年が経った81-82シーズン、ようやくその練習の成果が現れる。レギュラーの座を掴んだリネカーは、39試合に出場して17ゴールを記録。この年のFAカップでも、2部のレスターを準決勝に引き上げる原動力となった。

そして翌82-83シーズンは40試合26ゴールとさらに成績を伸ばし、レスター1部昇格に大きな役割を果たす。そして翌シーズンのトップリーグでも、39試合22ゴール(2位)とその実力を発揮する。

さらに84-85シーズンは24ゴールを記録してリーグ得点王となり、リーグ優勝を果たしたエバートンに移籍。エバートンでも30ゴールを挙げて2季連続得点王に輝き、リネカーはイングランドを代表するストライカーと目されるようになった。

ワールドカップでのブレイク

代表には84年5月に初招集され、26日に行われた英国4カ国対抗、スコットランド戦でデビューを果たす。翌85年のアイルランド戦で代表初ゴールを記録すると、同年10月のWカップ欧州予選・トルコ戦ではハットトリックを達成し、本大会出場に貢献している。

86年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。イングランドはG/L初戦のポルトガル戦を0-1と落とし、第2戦でもモロッコに0-0と引き分け。リネカーを始めとする攻撃陣も不発で、イングランドは苦戦を強いられていた。

しかも最終節のポーランド戦では、前の試合で主審にボールを投げつけたゲームメイカーのウィルキンソンが出場停止処分。キャプテンのブライアン・ロブソンも、肩の脱臼でチームを離脱し、イングランドチームには暗雲が漂っていた。

追い込まれたイングランドは大幅にメンバーを入れ替えてポーランド戦に臨むが、この応急措置の布陣が予想以上の成果を見せる。

開始8分、初出場となったベアズリーの敏捷な動きから好機が訪れ、クロスを捉えたリネカーの先制弾が決まった。そしてその6分後、ベアズリーとホッジによる初先発コンビのお膳立てで、リネカーの2点目が生まれる。

さらに34分、イングランドのCKをポーランドのGKがファンブル。そこへすかさずリネカーが詰め、3点目を叩き込んだ。こうしてイングランドが、リネカーのハットトリックで3-0と勝利。ポーランドとの勝ち点差を逆転し、G/L2位でベスト16に進むことになった。

伝説の目撃者

決勝トーナメント1回戦の相手はパラグアイ。前半31分、グレン・ホドルのクロスをホッジが頭で折り返し、リネカーががら空きのゴールへ先制点を入れる。56分にはベアズリーが追加点、73分にもリネカーが仕上げのゴールを決め、3-0の快勝を収める。

パラグアイは後半に入ると悪質なプレーを繰り返すようになり、喉にチョップを喰らったリネカーは、フィールドの外に出て治療を受けている。それでも「あれは事故だ。少なくともそう願うよ」と紳士のコメント。ラフプレーが当たり前だった時代に、報復の素振りも見せなかった。

そして準決勝では、“フォークランド紛争” の因縁が残るアルゼンチンと対戦。イングランドはマラドーナの伝説的な「神の手ゴール」と「5人抜きゴール」の前に1-2の敗戦を喫するが、リネカーは天才児のプレーに素直な賛辞を送っている。ちなみにイングランドの1点は、リネカーによるものである。

イングランドはWカップ・ベスト8に終わったが。6ゴールを記録したリネカーは大会得点王に輝く。そして同年のバロンドール賞でも2位に選ばれ、世界にその名を馳せることになった。

バルセロナのリネカー

Wカップ終了後、スペインの名門FCバルセロナへ移籍。デビュー戦となったレーシング・サンタンデール戦でさっそく2得点を記録すると、カンプ・ノウで行われたクラシコでもハットトリックの活躍を見せ、ライバルのレアル・マドリードを3-2と撃破する。

86-87シーズンは37試合に出場して22ゴールを記録、期待に違わぬ実力を見せつけた。ことにレアル戦での活躍はバルセロナ・サポーターを歓喜させ、リネカーはたちまちクラブのアイドルとなる。

翌87-88シーズンも、36試合で16ゴールの好成績。社交的なリネカーはスペイン語の習得も早く、チームメイトとも溶け込んでいた。またバルセロナのファンや街も気に入り、このクラブでキャリアを終えたいと考えるまでになっていた。

だが88年にクライフがバルセロナの監督へ就任すると、その環境が一変する。88-89シーズンの最初の3ヶ月間は、肝炎を患って試合を欠場。体調を回復させてチームに戻ったリネカーに用意されたのは、今までやったことのない右ウィングのポジションだった。

ポストタイプの典型的なセンターフォワードとして、これまで多くの得点を積み重ねてきたリネカー。決してドリブルの使い手ではない彼に、右ウィングのポジションは適正と思えなかった。

案の定、89-90シーズンは26試合6ゴールと低調な成績。クライフ監督に必要とされていないと感じたリネカーは、シーズン終了後にバルサを去って行く。

2度目のワールドカップ

88年6月には、西ドイツで開催された欧州選手権に出場するが、イングランドは3戦全敗で1次リーグ敗退。リネカーも無得点に終わった。この大会後、リネカーが肝炎に苦しんでいたことが明らかにされる。

その後体調は回復、Wカップ欧州予選でも2ゴールを挙げている。90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。リネカーはG/L初戦のアイルランド戦で先制点を挙げるが、後半に追いつかれて1-1の引き分けとなった。

第2戦は優勝候補、オランダとの試合。オランダは「ミラン・トリオ」がそろって不調で、いつもの攻撃力に精彩を欠いていたが、イングランドもリネカーが再三の得点機を外し、ゲームは0-0のスコアレスドローに終わる。

最終節のエジプト戦は、ポール・ガスコインのFKからDFのマーク・ライトがヘディングゴール。1-0と貴重な白星を挙げ、混戦となったG/Lを1位で勝ち抜いた。

決勝トーナメントの1回戦の相手は、難敵ベルギー。ゲームは0-0で延長戦にもつれ込むが、終了直前の119分、ガスコインの巧みな浮き球からデヴィッド・プラットが決勝点を決め、イングランドが2大会連続のベスト8に進む。

FIFAフェアプレー賞を受賞

準々決勝はカメルーンとの対戦。イングランドは前半にプラットのゴールで先制するが、後半投入された「アフリカの老雄」ロジェ・ミラに苦しめられる。

61分にミラの得たPKで同点とされると、その4分後にはミラのアシストで逆転されてしまう。そこからイングランドは必死の反撃を開始。83分にPKを得たリネカーは、自らそのゴールを沈め、なんとか延長戦に持ち込んだ。

その延長の105分、ガスコインのスルーパスから再びリネカーが倒されPK。これをまたリネカー本人が決めて、3-2と激戦を制した。

24年ぶりに準決勝へ進出したイングランドは、ベッケンバウアー監督率いる西ドイツと対戦。後半60分にブレーメのゴールで先制を許すが、終盤の80分、リネカーが相手DFの隙を突く得点を決め、同点に追いつく。

試合は3戦連続の延長に突入。しかし120分を終わっても均衡は破れず、勝負はPK戦に持ち込まれた。1人目のリネカーは落ち着いてゴールを決めるが、イングランドの3人目と4人目が失敗。PK戦に絶対の自信を持つ西ドイツに、3-4で敗れてしまった。

この敗戦の後、リネカーは「フットボールは単純だ。22人がボールを奪い合い、最後はドイツが勝つ」の名言を残している。

それでもリネカーの記録した4ゴールはいずれも重要な場面での得点。Wカップ通算でも10ゴールまで伸ばし、前回の得点王がフロックで無いことを証明した。さらにそのスポーツマンシップも評価され、91年にはFIFAフェアプレー賞を受賞している。

余力を残しての代表引退

89年に移籍したトッテナムでは本来の調子を取り戻し、ストライカーとしての復活を見せる。89-90シーズンは24ゴールで得点王となり、90-91シーズンはFAカップ優勝に貢献。91-92シーズンにはリーグ2番の28得点を挙げた。

92年6月には、スウェーデンで開催されたユーロ92に出場。ボビー・チャールトンの持つ代表通算得点記録(49点)にあと1点と迫っていたリネカーだが、3試合で1点も上げられずに終わってしまう。

大会終了後に代表からの引退を表明。8年間の代表歴で80試合に出場、48得点の記録を残した。

日本での終焉

すでに32歳となっていたリネカーは、キャリアの最後をプロリーグが発足したばかりの日本で終えることに決め、英国国民の反対を押し切って、当時Jリーグ最高となる年俸3億円で名古屋グランパスと契約を交す。

Wカップ得点王のグランパス入団はマスコミでも大きく扱われ、Jリーグ開幕を控えた日本でも大きな話題となった。そして開幕戦が行われた93年5月、鹿島アントラーズ戦でデビュー。だが鹿島の大物スター、ジーコがハットトリックの華々しいデビューを飾ったのに対し、リネカーは何の仕事も出来ず、0-5の惨敗を喫してしまう。

第4節の横浜フリューゲルス戦でようやくJ初ゴールを記録するも、第7節・6月のガンバ大阪戦で左足中指を疲労骨折、残りシーズンの欠場を余儀なくされた。

94年にはストイコビッチがグランパスに加入。Wカップのスター共演が期待されたが、懸命のリハビリも虚しく、怪我が完治しないまま、11試合に出場しただけで2年目を終える。

シーズン終了後、リネカーは34歳で現役引退を表明。グランパスの2年間では18試合に出場、4ゴールと、期待外れの結果になってしまった。

引退後はテレビや新聞のコメンテーターとして活躍。英国紳士らしい洒脱な喋りと明るい人柄で、英国国民の人気を博している。

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