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今村昌平「復讐するは我にあり」

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今村昌平監督の問題作

1979年公開の『復讐するは我にあり』は、佐木隆三の同名実録小説を原作に、今村昌平監督が三年に及ぶ取材調査を経て描く問題作。

全国を逃走しながら犯罪を続ける連続殺人犯の生い立ちや女性遍歴、そして父親との相克などを通して、人間のすさまじき業の深さに肉薄していく。いわゆるピカレスクものだが、その背景には日本人の宗教観も深く影響している。

主演の緒形拳を始めキャスト陣の鬼気迫る演技合戦も、一度見たら脳裏に焼き付き離れないほどの熱さ。特に三國連太郎との親子対面のシーンは、まさにがっぷり四つの迫力だ。

榎津巌という男

タイトルの「復讐するは我にあり」は新約聖書の一節から採られた言葉で、「復讐は神の業であり、人間がなすべきではない」という意味が含まれている。

実在の犯罪者、西口彰が起こした連続殺人事件を題材に、今村監督が入念な調査を重ねて破滅的な男の行動原理と欲求への根源を探り、その人間像をフラットに描ききった。

わが手で殺人を犯していくクリスチャン、榎津巌(緒形拳)。第一の被害者は2人の専売公社集金人で、41万円余りの現金が目的の犯行だった。

そのあと九州、浜松、東京で5人を殺し、全国規模の重要指名手配の公開捜査をかいくぐって、時には大学教授、時には弁護士と称して淡々と詐欺や悪行を繰り返す。

榎津の正体を知りながら、この男に惚れて匿おうとした宿屋の女将(小川真由美)を、母親(ミヤコ蝶々)ともども殺害。二人の所持品を金に替えて逃走を続けるなど、得体の知れない男の怖さと魅力に、観客はいつの間にか惹きつけられていく。

榎津の父親(三國連太郎)は敬虔なクリスチャン。一方で、自分を慕う息子の嫁(倍賞美智子)への歪んだ愛欲を隠せない、欺瞞的な人間でもある。

まさに榎津と父親は合わせ鏡のような関係。自分を正直に映し出す父親の存在と、愛憎の激しさが、榎津巌という怪物を生み出したのかもしれない。

最後は警察に捕まり、死刑判決を受ける榎津。最後の面接にやって来た父親に向かって、「人殺しをするならあんたを殺すべきだった」と毒づく。その榎津の遺灰は、父親と嫁によって別府湾に蒔かれた。

人間ドラマの傑作

人間の欲求と下層階級のバイタリティー、そして日本人のおおらかな性を、徹底したリアリズムで描き続けた今村昌平監督。

『復讐するは我にあり』は榎津巌という特異な人物を通じ、人間のあるがままの姿や生へのエネルギーを、いつもの今村節で描きあげた人間ドラマの傑作だ。

原作の映画化にあたっては、黒木和雄、深作欣二、藤田敏八といった監督の間で争奪戦が勃発。口約束による二重契約という問題も発生し、騒動はこじれにこじれた。それでもようやく今村プロでの製作が決定し、今村昌平監督が9年ぶりに劇映画のメガホンを取った。

映画が公開されると、同年3位の配給収入となるスマッシュヒット。キネマ旬報のベストテンで第1位を獲得するなど、作品も高い評価を受けている。

これによって今村プロはそれまでの借金を返済、次作『ええじゃないか』の制作に繋がった。その後、『楢山節考』(83年)と『うなぎ』(97年)で、2度のカンヌ国際映画祭・パルムドール賞を受賞、世界にその名を輝かせた。ただ本人は映画賞に関心がなく、授賞式を欠席しているそうだ。

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