恵まれたフィジカルと運動能力を持つだけでなく、危機察知能力と駆け引きにも優れ、果敢なビルドアップで攻撃の起点にもなった万能型のセンターバック。無骨なパワータイプが多い英国サッカーでは珍しいエレガントさを備え、「イングランド史上最高のディフェンダー」と呼ばれたのが、リオ・ファーディナンド( Rio Gavin Ferdinand )だ。
90年代後半に旋風を起こしたリーズ・ユナイテッド「ヤング・リーズ」の一員としてその名を馳せ、00-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ準決勝進出に貢献。02年に名門マンチェスター・ユナイテッドへの移籍を果すと、DFの中心選手として2000年代の黄金期を支えた。
19歳でイングランド代表に選ばれ、23歳で日韓W杯に初出場。因縁の試合となったグループリーグのアルゼンチン戦では、鉄壁の守りで相手の猛攻を跳ね返し0-1の勝利に貢献。スリーライオンズのベスト8進出に重要な役割を果し、一躍その名を世界に知らしめた。
リオ・ファーディナンドは1987年11月7日、ロンドン南東部に位置するキャンバーウェル地区に生まれた。父ジュリアンはカリブ海に浮かぶ島国・セントルシア出身のアフリカ系で、母ジャニスはアイルランド出身の白人。“リオ” と言う名前は、大河(グランド・リバー)を意味するリオ・グランデからつけられたものである。
両親は籍を入れない事実婚カップルで、やがて移民の多く住むペッカム地域へ引っ越し。兄弟や親族とともに暮らす大家族の中で少年時代を過ごす。
リオが9歳のとき両親はパートナー関係を解消。父ジュリアンは家を出て行ったものの、子供たちとの親密な関係は続き、リオら兄弟を公園に連れて行ってサッカーを教えた。リオの少年時代の憧れはディエゴ・マラドーナ。8つ下の弟には、のちにプロサッカー選手となるアントン・ファーディナンドがいた。
また母ジャニスは、兄弟に「ニガー」の差別的な言葉を吐きかけた地域の住民を、家から引きずり出して謝罪させるというエピソードを持つパワフルな女性。リオはこの両親の教えを守り、決してガラが良いとはいえない街で道を踏み外すことなく成長していった。
学校では数学を得意とし、演劇、バレエ、体操競技なども楽しむ活発な生徒だったという。11歳のときに入団したクィーン・パーク・レンジャーズ(QPR)のユースでも早くから才能の輝きを見せ、コーチから「まるでペレのようだ」と褒められたこともあった。
QPRユースではしばらく攻撃的MFとしてプレーしたが、その計り知れない可能性を見込まれてセンターバックへとコンバート。DFとしての新境地を拓いたリオは、14歳となった92年にウェストハム・ユースへ転籍。ここで終生の親友となるフランク・ランパードと出会う。
95年、17歳にしてウェストハムとプロ契約。96年5月のシェフィールド・ウェンズデイ戦でトップチームデビューを果す。同年9月にレンタルされたAFCボーンマス(2部リーグ)で経験を積み、97-98シーズンはウェストハムに戻ってレギュラーの座を獲得。19歳でクラブの最優秀選手に選ばれ、プレミアの強豪からも関心を寄せられる存在となった。
時々ポカはあるものの、持ち前のスピードとビルドアップ能力でプレミアリーグの有望株となったリオは、2000年11月にリーズ・ユナイテッドへ移籍。このとき当時英国最高となる1700万ポンドの移籍金が支払われた。
この時のリーズはハリー・キューウェル、マーク・ビドゥカ、アラン・スミス、ロビー・キーン、イアン・ハートらの若手を揃えた「ヤング・リーズ」でプレミアリーグを席巻。前シーズンはマンU、アーセナルに続く3位に食い込んでいた。
リオはこの「ヤング・リーズ」でもたちまちDFの中心となり、00-01シーズンのチャンピオンズリーグでは守備陣を支えて準決勝進出に貢献。バレンシアに敗れて決勝へは進めなかったが、クラブはCL初挑戦でベスト4の快挙を成し、大会に旋風を起こした。
01-02シーズンはチームのキャプテンに就任。ビッグクラブ化を目論むリーズは、CL放映権とスポンサー収入をあてにしての投資資金調達に走るが、2季連続でCL出場権を失ったことにより計画は頓挫。多額の負債を抱えたクラブは財政危機に陥り、主力の放出を余儀なくされる。
こうしてリオも放出の対象となり、2002年7月に3000万ポンドの高額移籍金で、かねてから噂のあったマンチェスター・ユナイテッドへ売却されることになった。
97年11月のカメルーン戦で19歳にしてA代表デビュー。実はその2ヶ月前のW杯欧州予選・モルトバ戦での招集が予定されていたのだが、飲酒運転で捕まるという不祥事を起こしてお預け。もし予定通り招集を受けていたら、伝説の名選手ダンカン・エドワーズの持つ代表最年少デビューの記録を破る可能性もあった。(後にマイケル・オーウェンによって最年少記録更新)
だがリオはこれに懲りず、03年と05年にもスピード違反で逮捕。治安判事からは「君は若者のお手本となるべきなのに、彼らに正しいメッセージを伝えていない」と戒められる始末だった。だが最近(20年8月)も4度目の違反を犯し、半年間の免許停止処分と罰金を言い渡されている。
グレン・ホドル代表監督からの信頼を得られなかったリオは、98年W杯ではバックアップメンバーとして参加したのみ。本大会でベンチ入りすることはなかった。そのあと代表を率いたケビン・キーガン監督にも評価されることなく、ユーロ2000のメンバーからは落選となった。
01年7月にスウェーデン人のスヴェン・エリクソンが代表監督に就任すると、リオはようやくスリーライオンズでDFレギュラーの座を確立。W杯欧州予選では8試合6失点の堅守を支え、2大会連続となる出場決定に貢献する。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。初戦は監督の母国であるスウェーデンと1-1で引き分け、第2戦は過去何度も因縁の勝負を繰り広げてきたアルゼンチンと対戦する。試合は前半終了直前、オーウェンが倒されPKを獲得。前回のリベンジを誓うベッカムが渾身のキックで沈め、イングランドが先制した。
後半に入るとアルゼンチンが猛反撃を開始。アイマール、クレスポ、C・ロペスと攻撃の駒を次々と投入した相手に押し込まれるが、イングランドはPエリアを9人で固めた砦を築いて専守防衛。容赦なく放り込まれるクロスボールをことごとく跳ね返す。
こうして逃げ切ったスリーライオンズが1-0の勝利。イングランド砦の中心で奮闘するリオの姿は、世界に強い印象を植え付けた。
猛暑となった最終節の試合は無理をせず、ナイジェリアと0-0の引き分け。イングランドはスウェーデンに続く2位突破を果す。
トーナメント1回戦の相手はデンマーク。開始5分、ベッカムの左CKをリオが頭で合わせて先制点。そのあとオーウェンとヘスキーのゴールでリードを広げ、リオを中心に危なげなく守って3-0の快勝。ベスト8に進んだ。
準々決勝は「3R」の攻撃陣を擁するブラジル。前半23分に相手の隙を突いたオーウェンが先制点を挙げるも、ロスタイムに入った45分、ロナウジーニョの高速ドリブルにリオらDF陣が翻弄されて失点。後半50分にもロナウジーニョにFKを決められてしまい、1-2の逆転負け。3大会ぶりとなる準決勝進出は果たせなかった。
マンU移籍1年目の02-03シーズン、公式戦48試合に出場してクラブの2季ぶりとなるリーグ優勝に貢献。だが翌シーズンが始まったばかりの03年9月、リオが練習後に予定されていたドーピング検査をすっぽかすという前代未聞の不始末。
「練習後に買い物へ行き、失念して帰宅してしまった」という苦し紛れの言い訳も通じず、改めて受けた検査ではシロとなるも、5万ポンドの罰金および8ヶ月間の出場停止処分。さらに代表ではユーロ04大会への出場も禁じられるという、重いペナルティーを科せられる。
それでもファーガソン監督は代役を探すことなく、CBのポジションをやりくりして彼の復帰を待った。そのためかマンUはリーグ2連覇を逃してしまうが、復帰戦となったリバプールとの試合では、監督の期待に応える働きで勝利に貢献。ファーガソンから「落ち着きと確実さが増した」と称賛され、その後は不動のCBとして名門クラブに不可欠な存在となる。
イングランド代表には、04年10月のW杯欧州予選・ウェールズ戦で復帰。8ヶ月の空白期間に台頭してきたジョン・テリーとCBコンビを組み、残り8試合のうち6試合でクリーンシートを達成。3大会連続出場に大きく貢献する。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はパラグアイに1-0と辛勝し、第2戦もトリニダード・トバゴに2-0の勝利。怪我に苦しむオーウェン&ルーニーの2トップが不調にあえぐ中、リオを始めとする守備陣が安定感を見せて早くもグループ突破を決める。最終節はスウェーデンに失点して2-2と引き分けるも、G/L1位で決勝トーナメントに進んだ。
トーナメントの1回戦はベッカムのFKで1-0と勝利し、準々決勝ではポルトガルと対戦する。試合は両者とも決め手を欠いて膠着状態となるが、後半52分にベッカムが足首の負傷により交代。62分にはルーニーが一発退場となり、イングランドは守勢一方となってしまう。
それでもゴール前に張り付いたリオとテリーの粘りで無失点に抑え、延長120分を戦いきるが、PK戦をモノに出来ず敗退。2大会連続のベスト8に終わった。
マンUのディフェンスリーダーとなったリオは、CBコンビのヴィディッチとチームの堅守を支えて06-07シーズンからのリーグ3連覇に貢献。ベストイレブンにも3年連続で選ばれ、特に07-08シーズンは20試合連続クリーンシートの偉業達成に大きな役割を果す。
ときおり物議を醸す言動で騒がすこともあったリオだが、08年からはキャプテンとしてチームをまとめるとともに、フランクな人柄でムードメーカー役も務めた。
2000年代後半の黄金期に入ったマンUはCLでもその強さを見せ、07-08シーズンの決勝では宿敵チェルシーをPK戦で破って9季ぶり3度目の優勝。決勝までの13試合を戦ったマンUが喫した失点は、わずか6という少なさだった。このあとマンUはクラブワールド杯も制し、世界一の称号を手にした。
翌08-09シーズンも2年連続でCLの決勝に進出するが、グアルディオラ監督率いるバルセロナに0-2の完敗。大会連覇はならなかった。
リオはこの頃から背中や腰のヘルニア、ハムストリングの故障に悩まされるようなり、09-10シーズンはリーグ戦わずか13試合の出場。チームもプレミア4連覇を逃してしまう。
ドイツW杯の2ヶ月後に始まったユーロ予選では、クロアチアとロシアの後塵を拝して本大会出場を逃すという失態。スリーライオンズ立て直しのため、ファビオ・カペッロが新監督に招聘された。
08年8月からは南アフリカW杯・欧州予選が始まるが、リオは長引く故障によりプレーの精彩を欠いてしまう。それでもイングランドはみごと1位突破、4大会連続の出場を決める。
W杯本番を4ヶ月後に控えた10年2月、代表キャプテンであるテリーの不倫疑惑が発覚。その不倫相手が元チームメイトで親友でもあるウェイン・ブリッジの恋人だったことで、事は大きなスキャンダルへと発展。騒動を受けてテリーはキャプテンを解任され、新たにリオがリーダーへ指名された。
だが大会直前の6月4日、練習中に左膝靱帯損傷の重傷を負ってチームを離脱。リオは3度目のW杯出場を諦めざるを得なくなり、キャプテンマークをジェラードに託した。
このあとリオはユーロ2012にも招集されることなく、13年5月に代表からの引退を表明。15年の代表歴で81試合に出場、3ゴールを挙げている。
12-13シーズンのリーグ優勝を最後に、マンUの勢いにも翳りが見え、13年5月には恩師のファーガソン監督が退任。全盛期を過ぎたリオは後任のモイーズ監督に重用されなくなり、13-14シーズン終了後の契約満了を持って退団。14年7月にはプレミアリーグに昇格したばかりのQPRと1年契約を交わす。
QPRでは公式戦12試合に出場するも、チームは最下位に沈み1年で2部降格。シーズン終了後の15年5月、37歳での現役引退を発表した。
この引退の時期に、乳がんを患っていた妻のレベッカが34歳で死去。幼い3人の子供とともに残されたリオは、その淋しさを埋めるためのボクシングトレーニングを開始。17年9月にはプロボクサーへの転向を表明するが、結局ライセンス取得が認められず断念となった。
亡くした妻への喪失感と馴れない子育てに向き合うリオの姿は、テレビドキュメンタリーとしてBBCで放送。作品は英国アカデミーの18年「ベストドキュメンタリー賞」を受賞し、日本でも20年3月にNHK『BS世界のドキュメンタリー』枠で放送された。
現在はテレビ解説者として活動し、19年9月にはリアリティ番組の出演者だったケイト・ライトと再婚している。
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