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《 サッカー人物伝 》 レフ・ヤシン

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「モスクワの黒い蜘蛛」レフ・ヤシン(ソビエト連邦)

190㎝近い長身と長い手足、そして濃い色のユニフォームから「黒蜘蛛」と呼ばれ、20世紀最高のゴールキーパーと称されたのが、レフ・ヤシン(Lev Yasin )だ。

ヤシンは50年代から60年代にかけて、ディナモ・モスクワとソ連代表で活躍。高い身体能力でアクロバティックなセービングを見せ、猛練習で至近距離からのシュートも止めた。そしてペナルティー・エリアを飛び出してクリアする果敢なプレーも、当時としては革新的なものだった。

63年にはバロンドールの栄誉に輝くが、これは現在に至るまでゴールキーパー唯一の受賞歴となっている。その偉業から、FIFAワールドカップでは06年大会まで最優秀GK賞にレフ・ヤシンの名が冠され(現在はゴールデングローブ賞)、19年のバロンドール賞から、世界の優秀GKを対象としたヤシン・トロフィーが新設されている。

それだけで偉大さが窺えるヤシンだが、彼はプレーだけではなく高潔なスポーツマンシップを持つ選手として知られた。

遅咲きの守護神

ヤシンは1929年10月22日、モスクワに生まれる。6歳のときに母を亡くし、戦争のため11歳の頃から近くの軍需工場で働き始める。食生活は貧しかったようだが少年時代から背が高く運動神経も抜群で、父親の勧めでバレーボール、バスケットボール、アイスホッケー、陸上、体操、飛び込みと様々なスポーツを経験している。

14歳で学校を出ると、工場のアイスホッケーチームに入団。そののち兵役を経て49年にディナモ・モスクワに加わり、アイスホッケーチームとサッカーチームのGKを務めるという二足の草鞋を履く。だがサッカーチームにはアレクセイ・ホミッチという名キーパーが君臨、その座を奪うのは至難の業だった。

ベンチを温める日々が続き、一時はサッカーを断念することも考えたヤシン。しかし彼を後継者と考えるホミッチに励まされ、ヤシンはサッカーを続け猛練習を重ねていった。53年、ホミッチの怪我によりチャンスを得て、24歳にしてようやくレギュラーの座を掴むことになる。

70年に引退するまで20年間ディナモ・モスクワ一筋のサッカー人生を送ることになるヤシン。ゴールを守った326試合のうち160試合を完封し、国内リーグ戦で五回、カップ戦3回の優勝に貢献した。代表には54年に初招集、すぐに正GKのポジションを獲得している。

ワールドカップでの躓き

56年、ソ連はメルボルン五輪に初参加。ヤシンは5試合中4試合に先発し、計2失点に抑えてチームを金メダルに導いた。こうして世界で名声を高めつつあったヤシンは、2年後にいよいよワールドカップデビューを果たすことになる。

Wカップ・スウェーデン大会の1次リーグ、初出場のソ連は強豪ブラジルと戦った。ヤシンは再三の好セーブでブラジルを苦しめるが、この試合でWカップに初登場したペレとガリンシャが躍動、2失点を喫して敗れてしまった。それでもヤシンの美技を目の当たりにしたペレは、「彼からゴールを奪うのは不可能だ」と感じていたという。

初めてのWカップは決勝T一回戦で地元スウェーデンに敗退するという結果に終わってしまったが、雪辱のチャンスは2年後にやってきた。60年新たに創設された欧州ネーションズ・カップ(後の欧州選手権/ユーロ)にソ連も参戦、第一回大会のチャンピオンとなった。ベルトイレブンにも選ばれたヤシンは、名実ともに世界最高のキーパーとなった。

62年のWカップ・チリ大会では、優勝候補の一角にも数えられることになったソ連。だが1次リーグではコロンビア相手にヤシンが4失点、試合は引き分けたものの守護神の不調が囁かれた。そして決勝Tの一回戦、ヤシンは地元チリ相手にらしくない凡プレーで2点を献上。ソ連は1-2と敗れ去ってしまった。

高潔なスポーツマン

チリ大会敗退の戦犯とされたヤシン。自分に向けられる激しい非難に一時引退も考えるが、それでも挫けることなく、64年には復活の輝きを見せた。国内リーグ戦では、24試合に出場して失点は僅か6点、ディナモ・モスクワ優勝の立役者となる。さらに第2回ネーションズカップでも大奮闘、優勝は逃したもののチームを2大会連続の決勝へ導いた。

66年のWカップ・イングランド大会では、6試合中4試合に出場を果たした。大会準決勝の西ドイツ戦、相手のラフプレーによりソ連は2人の選手が負傷退場となる。ボールを取りに来たヤシンにもタックルを仕掛けてくる西ドイツ。ヤシンはしっかりボールを掴むと、いきり立つ西ドイツ選手を諭すように人差し指を振った。

ラフプレーが当たり前のように行なわれていたこの時代、彼はその高潔さでスポーツマンシップのあり方を指し示してくれたのだ。そしてヤシンはソ連のベスト4入りに貢献し、36歳のベテランとなってもその健在ぶりを見せた。

苦難の後半生

70年Wカップ・メキシコ大会には控えメンバーとして参加、出番はなかったが精神的支柱としてチームを鼓舞した。そしてWカップ終了後40歳で現役引退を発表する。代表キャップは78試合、正式な記録ではないが、ヤシンはその選手時代を通じて150回PKを阻止したと伝えられている。

翌年行なわれた引退試合には、ペレベッケンバウアーゲルト・ミューラーエウゼビオボビー・チャールトンといったスターたちが駆けつけ、会場となったモスクワのスタジアムには10万人の観客が集まった。ヤシンも莫大な収益を得たが、その大半は孤児に寄付された。

引退後はディナモ・モスクワのスタッフとなるが、血管の病気で右足を切断。苦難の後半生となった。そして子供の頃の劣悪な食生活からか晩年には胃癌を患い、90年に惜しまれつつ亡くなっている。まだ60歳の若さだったが、皆に尊敬され最高のスポーツマンを貫いた人生だった。

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