しなやかな身のこなしと強靱なバネを持ち、強烈な加速力と豪快無比なシュートで相手を震え上がらせたモザンビーク生まれのCF。その驚異的な身体能力と精悍な見た目で「パンテラ・ネグラ(黒豹)」と呼ばれ、60年代を代表するストライカーとして活躍したのが、エウゼビオ( Eusébio de Silva Ferreira )だ。
19歳でポルトガルに渡り、リスボンの名門SLベンフィカのエースストライカーとして活躍。ベンフィカ在籍の15シーズンでで7度の得点王に輝き、リーグ優勝11回、国内カップ優勝5回、チャンピオンズカップ優勝1回などに大きく貢献。大黒柱としてクラブの黄金期を支え、65年にはバロンドールも受賞した。
66年にはポルトガル代表としてW杯イングランド大会に出場。1次リーグではブラジルやハンガリーなどの強敵を打ち破って首位突破。準々決勝では北朝鮮に3点をリードされながら、エウゼビオひとりが4得点を決めて大逆転。準決勝で地元イングランドに敗れたものの、得点王の活躍で初出場のポルトガルを大会ベスト3に導く。
エウゼビオは1942年1月25日、南インド洋に面するポルトガル領・東アフリカ(現モザンビーク)のロウレンソ・マルケス(現在の首都マプト)に、7人兄弟の4番目として生まれた。鉄道員の父ラウリンドはアンゴラ出身の白人で、元サッカー選手。母エリサは現地生まれのアフリカ人女性だった。
エウゼビオ8歳のとき父ラウリンドが破傷風で亡くなり、母エリサひとりが家計を支えるという厳しい生活環境の中、兄弟たちは互いに助け合って日々の暮らしを送る。
小さい頃は裸足と新聞紙を詰めたボールで、硬い地面でのストリートサッカーを楽しんでいたエウゼビオ。勉強はあまり得意ではなく、時に学校をサボってまでボール蹴りに熱中していたため、いつも母親から叱られていた。
15歳のときには、同郷出身で憧れのスター選手マリオ・コルナが所属するSLベンフィカの下部組織であるディポルティーボLMへの入団を希望するが、クラブからは冷たく門前払いされてしまう。それに反発したエウゼビオは、以前から誘われていたライバルクラブのスポルディングLM(スポルディングCPの下部組織)への入団を決めた。
100m11秒を誇る快速と、迫力あるドリブル突破。そして左右の足から繰り出される強烈なシュートでたちまち頭角を現したエウゼビオ。たまたま彼のプレーを見たユベントスのスカウトから将来性を見込まれてオファーを受けるも、このときは母親に反対され話は進まなかった。
エウゼビオが18歳となった60年には、20試合36ゴールの驚異的な活躍でモサンボラ(モザンビーク選手権)優勝に貢献。するとアフリカ遠征でロウレンソ・マルケスを訪れていたブラジル人のカルロス・パウエル監督が、南海の地でこの若き才能を発見する。
パウエル監督は選手時代の古巣であるサンパウロFCに彼を獲得するように薦めるが、ブラジルの名門クラブが未知のアフリカ人選手に関心を示すことはなかった。そこで今度はベンフィカの指揮官で旧知の間柄でもあるベラ・グッドマンにその存在を知らせると、グッドマン監督はさっそくエウゼビオの獲得に動き出す。
エウゼビオと母エリサに提示された契約金は250万エスクード。それまで貧乏暮らしをしていた一家が見たこともないような大金で、元々ベンフィカに憧れていた若者には願ってもない話だった。それでも息子が遠くに行くことを心配する母は、「もしリスボンでの生活に馴れずに帰ってくるようなら、お金はクラブに戻します」と言ったという。
これでベンフィカとの契約が決まるも、自チームの有望選手をライバルにさらわれた形となったスポルディングは黙っていなかった。エウゼビオの所有権を主張するスポルディングと、契約を盾にするベンフィカの間で一悶着。ポルトガルに到着したエウゼビオは、事態が解決するまで半年間に及ぶホテルでの隠棲生活を強いられた。
それでも無事ベンフィカとの契約が認められ、61年5月に行なわれたアトレティコCPとの親善試合でハットトリックを決めての鮮烈デビュー。6月にはヴィトーリア・セトゥバウとの国内カップ戦で公式戦デビューを果し、初ゴールを挙げて4-1の勝利に貢献。その10日後にはシーズン最終戦となるベレネンセス戦で国内リーグにも初登場し、ここでもゴールを決めてみせた。
そして彼の名を広く知らしめることになったのが、その夏パリで行なわれた国際親善大会だった。ベンフィカは「王様」ペレ擁するサントスFCと対戦。チームは精彩を欠き0-5とリードされるが、エウゼビオがピッチに送り込まれるとたちまち2得点の活躍。試合は3-5と敗れるも、翌日に有名スポーツ紙『レキップ』の一面を飾ったのはエウゼビオの雄姿。ペレから主役の座を奪ったのだ。
本格デビューシーズンとなった61-62シーズンから17試合12ゴールの成績。チームはリーグ3位に終わるも、国内カップでは7試合11ゴールの活躍で3季ぶりの優勝に貢献する。
またこの年のチャンピオンズカップでは、前回王者のベンフィカが2大会連続の決勝へ進出。決勝の相手は、大会創設の55年から5連覇の偉業を成した「白い巨人」レアル・マドリードだった。
試合はたちまちフェレンツ・プスカシュの左足が炸裂し、18分、23分と立て続けにゴールを決められ2点を先攻される。
それでも25分にエウゼビオのFKからアグアスが1点を返すと、33分にはカベムのゴールで同点。しかし39分にプスカシュのハットトリックとなる3点目を許し、1点ビハインドで前半を折り返す。
後半の50分、コルナのミドルシュートが決まり同点。65分にはドリブル突破を試みたエウゼビオが倒されPKを獲得。これをエウゼビオ自身が豪快にネットを揺らし、ついに試合をひっくり返す。その5分後には、コルナのセットプレーからエウゼビオが追加点。ベンフィカが5-3と鮮やかな逆転勝利を収め、チャンピオンズカップ2連覇を達成した。
2得点1アシストの活躍で優勝の立役者となった20歳のストライカーには、レアルの名選手アルフレッド・ディ・ステファノからユニフォームが譲られ、新旧スター選手の交代が告げられた。
62-63シーズン、24試合23ゴールの活躍で2季ぶりとなるリーグ優勝に貢献。チャンピオンズカップでは3年連続となる決勝進出を果す。
決勝の相手はACミラン。前半19分、トーレスからのパスを受けたエウゼビオが、追いすがるジョバンニ・トラパットーニを振り切り60mを独走。シュートはポストに当たりゴール、ベンフィカが先制した。
しかし後半58分にジョゼ・アルタフィーニの同点弾を許すと、69分にはジャンニ・リベラのスルーパスから再びアルタフィーニ決められ逆転。2-1と敗れて3連覇を逃すも、アルタフィーニと並ぶ6得点を挙げたエウゼビオは得点王に輝く。
63-64シーズンは19試合28ゴールと抜群の得点力を見せつけ、初のリーグ得点王。翌64-65シーズンも20試合28ゴールで2季連続の得点王。チームはリーグ3連覇を達成する。エウゼビオは「南海の黒豹」「黒い真珠」「オレイ(王様)」などの愛称で呼ばれるようになり、圧倒的な存在感で得点を量産していった。
チャンピオンズカップでは2季ぶりの決勝へ進出。対戦相手となったのは、前回王者のインテル・ミラノ。当時カテナチオ戦術でセリエAを席巻し、「グランデ・インテル」の隆盛期を誇っていた強敵だった。
そして相手の本拠地サンシーロ・スタジアムで行なわれた決勝は、インテルの堅守を崩せず0-1の敗戦。ベンフィカはまたも3度目のビッグイアーを手にできなかったが、9ゴールを挙げたエウゼビオはチームメイトのトーレスと並んで得点王を獲得する。
その顕著な活躍により、欧州王者インテルのジャチント・ファケッティ(2位)やルイス・スアレス(3位)を差し置きバロンドールに選出。ポルトガル、そしてアフリカ出身の選手としては初めての受賞となった。
ベンフィカでデビューを果したわずか4ヶ月後の61年10月、ポルトガル代表に招集されてW杯予選のルクセンブルグで初出場。いきなり初ゴールを記録してデビュー戦を飾るも、ポルトガルのW杯初出場には繋がらなかった。
それまで隣国スペインの影に隠れていたポルトガルだが、エウゼビオ、マリオ・コルナ、ホセ・アウグスト、アントニオ・シモンエスら60年代に躍進したベンフィカの主力選手が代表の中核を担うようになり、65年1月から始まったW杯欧州予選では快進撃を続けて首位突破。エウゼビオは予選最多となる7ゴールを挙げ、ポルトガルを初めてのW杯出場に導く。
66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕。初戦で東欧の強豪ハンガリーを3-1と退けると、第2戦はエウゼビオのW杯初ゴールでブルガリアを3-0と一蹴。第3戦で大会連覇中のブラジルと対戦する。
開始14分、エウゼビオのクロスからシモンエスが先制点。25分にはコルナのセットプレーの流れからエウゼビオが追加点を決める。その直後には、ポルトガルDFの激しいタックルを浴びたペレが、膝を痛めてプレー続行不可能。当時は途中交代が許されていなかったため、ブラジルは10人となった。
それでも後半72分に1点を返されるが、85分にはエウゼビオが試合を決定づける3点目。初出場のポルトガルが優勝候補ブラジルを1次リーグ敗退に追いやり、3戦全勝での決勝トーナメント進出を決めた。
トーナメント1回戦の相手は北朝鮮。ポルトガルは北朝鮮の驚異的な運動量と機敏さに出足を挫かれ、開始1分に早くも失点。その後もペースを取り戻せないまま、22分、25分と続けて失点する。
そんな劣勢にあったチームを救ったのはエウゼビオ。28分にシモンエスのスルーパスから1点を返すと、44分にはPKを沈めて2点目。後半の56分には鮮やかな突破からハットトリックとなる同点弾を叩き込む。
その2分後には、自ら得たPKを決めてついに逆転。80分にはアウグストの追加点が生まれ、5-3と奇蹟の大逆転勝利。チームを蘇らせたエウゼビオ4得点の活躍で、ベスト4進出となった。
だがウェンブリー・スタジアムで行なわれた準決勝はボビー・チャールトンの2発に沈み、開催国イングランドに1-2の敗戦。ノビー・スタイルズのしつこいマークに動きを封じられてしまったエウゼビオだが、終盤にPKを決めてゴードン・バンクスのW杯無失点記録を708分でストップさせた。
優勝への道は閉ざされてしまうも、ソ連との3位決定戦を制して初出場ベスト3の快挙。9ゴールを挙げて大会の主役となったエウゼビオは得点王に輝くとともに、ベストイレブンに選ばれる。
67-68シーズン、24試合42ゴールという圧倒的な決定力で5季連続のリーグ得点王。チームも60年代に入って6度目の優勝を果す。
チャンピオンズカップでは3年ぶりの決勝へ進出。ファイナルの会場となったウェンブリー・スタジアムで、初優勝を狙うマンチェスター・ユナイテッドとの一戦に臨んだ。
この試合もノビー・スタイルズの密着マークに苦しむが、前半終了直前にFKのチャンス。エウゼビオの弾丸キックはGKステップニーの頭上を破るも、クロスバーに弾かれて得点とはならなかった。
0-0で迎えた後半の53分、B・チャールトンのヘディングゴールを許してユナイテッドが先制。だが79分にグラサのゴールが決まって同点に追いつくと、後半の終了時間が迫った85分、シモンエスのパスからエウゼビオが抜けだし絶好のチャンス。
だがDFをかわして撃ったシュートは、ステップニーのナイスセーブに阻まれ勝ち越しならず。それでもエウゼビオはスポーツマンらしく、ステップニーのナイスプレーに拍手を送った。
試合は1-1のまま延長に突入し、その99分、ステップニーのロングパスに抜け出したジョージ・ベストが勝ち越し弾。そのあとユナイテッドに2点を追加されて1-4の敗戦。またも敗者となってしまったエウゼビオだが、6ゴールを挙げて大会3度目の得点王。スポーツマンシップを貫く姿も大いに称賛された。
66年W杯の栄光は一時的なものに留まり、ポルトガル代表は再び低迷期へと突入。エウゼビオは2度目の大舞台に立つことなく、W杯欧州予選の敗退を受けて73年に代表を引退。13年間の代表歴で64試合に出場、41ゴールを挙げた。
60年代後半から膝の故障に苦しみだしたエウゼビオ。通算7度にわたる膝の手術を受けながら、「黒豹」に依存するチーム事情により休むことを許されず、痛みを堪えながらプレーを続けていた。
また事業の失敗もあり現実逃避から私生活が乱れ、英雄と称えられた彼も次第に陰口をたたかれるようになる。エウゼビオはベンフィカで差別的待遇を受けていたこともあり「自分は一度もポルトガル人と思ったことはない」と恨み言を漏らすようになった。
そして75年6月、15シーズンを過ごしたベンフィカを退団。クラブに黄金期をもたらした男は、公式戦440試合473ゴール、リーグ得点王7回という驚くべき記録を残し、リスボンの街を去って行く。
このあと請われるまま、北米などいくつかのチームでプレー。78年からはインドアサッカーで現役を続け、80年には38歳で輝けるキャリアに終止符を打つ。
現役引退後はフロントとしてベンフィカに戻り、クラブの顔として活動。またポルトガルサッカー連盟の要職も務め、ユーロ04の招致に尽力した。
07年4月には脳梗塞により緊急手術。この時は一命を取り留めたが、2011年には肺炎により1ヶ月の入院。12年のユーロ大会で代表に同行したときも脳卒中で倒れてしまうなど、60歳半ばを過ぎて入退院を繰り返すようになる。
14年1月5日、リスボンの自宅で不調を訴え、医者の手当も虚しく心不全により71歳で死去。世界中のファンが「黒豹」と呼ばれた英雄の死を悼んだ。