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《 サッカー人物伝 》 エウゼビオ

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「 南海のブラックパンサー 」エウゼビオ(ポルトガル)

しなやかな身のこなしで相手DFを抜き去り、強烈な加速力と豪快無比な右足シュートで観客を魅了したモザンビーク生まれのセンターフォワード。その驚異的な身体能力と精悍な姿で「黒豹」の異名を持ち、60年代を代表するストライカーとして活躍したのが、エウゼビオ( Eusébio de Silva Ferreira )だ。

56年の第1回大会から欧州チャンピオンズ・カップ5連覇を達成し、「白い巨人」と称されたペインのレアル・マドリード。その牙城を突き崩して最強クラブとなったのが、それまで長い間隣国の影に隠れていたポルトガルのベンフィカだった。

59年にハンガリー人のベラ・グッドマンがベンフィカ監督に就任。壁パスの練習に多くの時間を費やし、敵の密集を破る攻撃を磨いた。その鋭く巧みな攻めは、相手守備陣を酷く悩ませたという。

また、ブラジルで指導経験のあるグッドマンは黒人選手の能力の高さを知っており、アフリカの植民地に眠る原石を発掘して積極的に活用する。当時欧州ではまだ珍しかった、黒人選手が活躍する異色のチーム。そのチームが最強と呼ばれたのは、なんと言ってもエウゼビオの存在があったからだ。

ベンフィカの絶対的エース

エウゼビオは1942年1月25日、ポルトガル領・東アフリカ(現モザンビーク)に生まれた。小さい頃は裸足と新聞紙を詰めたボールで、ストリートサッカーを楽しんでいたエウゼビオ。やがてその運動能力に目をつける者が現れ、ポルトガルの名門スポルティング・リスボンの下部組織に入団することになる。

そこで卓越したストライカーとしての才能を発揮し始めると、本国ポルトガルにもその活躍が届くようになった。するとベンフィカが争奪戦に参入、スポルディングから奪い取る形で19歳のエウゼビオと契約をかわす。

その半年後の61年5月、エウゼビオはベンフィカのエキシビジョンマッチでデビュー、いきなりハットトリックを決めた。そしてこのあとベンフィカはチャンピオンズ・カップ決勝を戦い、エウゼビオは出場しなかったがコチシュやチボールを擁するバルセロナを撃破して優勝、黄金期への一歩を刻んだ。

エウゼビオの名前を世界に知らしめることになったのは、その夏パリで行なわれた国際親善大会だった。ベンフィカは「王様」ペレ擁するサントスFCと対戦、チームは精彩を欠き0-5とリードされる。そこへエウゼビオがピッチに送り込まれると、たちまち2得点の活躍。試合には負けてしまったが3-5まで追い上げる原動力となり、ペレから主役の座を奪って見せたのだ。

この5年後、エウゼビオとペレはWカップの1次リーグで対戦。世界一のストライカー対決となったが、エウゼビオは再びその輝きを見せることになる。

62年、ベンフィカは2年連続でチャンピオンズ・カップ決勝へ進出した。エウゼビオは、ディ・ステファノプスカシュを擁するレアル相手に2得点。スペインの名門を5-3と逆転で下し、チームを2年連続の優勝へ導く。この試合ハットトリックを決め、スポットライトを浴びるはずだったプスカシュも「5点も取られて負けるとは」と呆然、欧州の主役交代を印象づけることになった。

絶対的エースとなったエウゼビオ、国内リーグでも2年連続で得点王となる。そしてクラブの3連覇への貢献が認められて65年にはバロンドールに輝き、黒人選手として初の偉業を成し遂げた。

世界に名を轟かせたブラックパンサー

エウゼビオは61年に代表入り。欧州予選で6試合7得点の活躍で、強豪チェコスロバキアをも破り、66年Wカップ・イングランド大会のポルトガル初出場に大きく貢献した。まさにこの大舞台が、エウゼビオのサッカー人生におけるハイライトとなる。

1次リーグで優勝候補ブラジルと同組になったポルトガル。するとエウゼビオは2得点を挙げてブラジルを粉砕、優勝候補を予選敗退に追い込んだ。決勝T1回戦の相手は、強豪イタリアを破る波乱を起こした北朝鮮。ポルトガルも体力任せの相手に立て続けに得点を奪われ、前半で0-3の劣勢を強いられてしまう。

大混乱に陥るポルトガルだが、その危機を救ったのがエウゼビオ。怒濤の突破でゴールを決め、前半のうちに2点を返すと、後半にも2得点。エースの憑かれたような活躍で、ポルトガルは5-3と奇蹟の大逆転を成し遂げる。大逆転劇を生み出したエウゼビオは、その名を世界に轟かせることになったのだ。

準決勝では開催国イングランドに敗れてしまったが、3位を決めるソ連戦ではPKで名手レフ・ヤシンから得点を奪った。こうして初出場のポルトガルは大会3位と大健闘を見せ、その立役者となった「黒豹」エウゼビオも9ゴールで得点王に輝いた。

英雄の晩年

60年代隆盛を誇ったベンフィカだが、68年のチャンピオンズ・カップ決勝では、延長戦にマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストに決勝点を奪われて準優勝。栄光の時代にも終止符を打つことになる。

この頃から膝の故障に苦しみだしたエウゼビオ。事業の失敗もあり現実逃避から私生活が乱れ、英雄と称えられた彼も次第に陰口をたたかれるようになる。エウゼビオはベンフィカで差別的待遇を受けていたこともあり「自分は一度もポルトガル人と思ったことはない」と恨み言を漏らすようになった。

そして75年にベンフィカを退団、80年に現役を引退した。だがエウゼビオは、対戦相手にも敬意を払うなどフェアプレー精神で知られ、引退後にフロントとしてベンフィカに戻ると、その功績が称えられレジェンドとして尊敬された。2014年、心不全で死去。享年71歳だった。

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