「ミスター・イングランド」ボビー・チャールトン(イングランド)
唸りを上げる「キャノン・シュート」を武器とした攻撃のマエストロ。また高いテクニックと軽やかさも持ち合わせ、よどみなく流れに乗って敵陣を切り裂いた。ピッチの内外で見せる紳士的かつ模範的なスポーツマンシップで尊敬を集め、「ミスター・イングランド」と称賛されたのが、ボビー・チャールトン( Robert Charltonn )だ。
キャリアを始めたばかりのマンチェスター・ユナイテッドで、「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれる飛行機事故に遭遇。多くの仲間を失いながら再建を進めるチームの中核となり、ユナイテッドを2度のリーグ優勝とFAカップ制覇に導く。68年のチャンピオンズカップ決勝では、2ゴールを決めて優勝に貢献。チームに悲願のビッグイアーをもたらした。
イングランド代表でもチームの大黒柱として活躍。自国開催となった66年W杯では攻撃のリーダーとしてチームを牽引し、イングランドの大会初優勝に大きく貢献した。その功績により、同年のバロンドールに選出。グレートブリテンの輝けるレジェンドとなった。
ボビー・チャールトンは1937年10月11日、ブリテン島北部に位置する炭鉱の町アシントンに、4人兄弟の次男として生まれた。2歳上の兄は、のちに代表でともにW杯優勝の喜びを味わうことになるジャッキー・チャールトン。また母方の親族にも3人のサッカー選手がいるという、フットボーラーの家系だった。
炭鉱労働者の父ボブはまったくサッカーに興味がなかったが、母シシーは女性ながら元フットボール選手。子供たちは母親からサッカーの手ほどきを受けて育った。
そんな環境の中で兄弟とともにサッカーに熱中したボビー少年は、ノーサンバーランド・スクールのチームで活躍。15歳のとき、そのしなやかな身のこなしと巧みなボール捌きがプロクラブの目にとまり、マンチェスター・ユナイテッドからスカウトされる。
このとき将来を見据えて電気技師の見習いをしていたボビーだが、17歳でマンチェスター・ユナイテッドへの入団を決意。すでにリーズ・ユナイテッド入りしていた兄ジャッキーの後を追うように、プロ選手を目指すことになった。
入団したユナイテッドではFAユースカップ3連覇に貢献し、56年に19歳でトップチーム昇格。10月のチャールトン・アスレチック戦でフットボールリーグ1部デビューを飾る。そしてプロ1年目の56-57シーズンから14試合10ゴールと活躍。チームのリーグ連覇に貢献した。
45年からマンチェスター・ユナイテッドを率いるマット・バスビー監督は、チーム編成や移籍・獲得の権限、トレーニング計画などすべてを管理するゼネラルマネージャーとしての地位を確立。長らく低迷していたチームを強豪へと導く。
50年代に入ると下部組織の整備に取りかかり、チーフスカウトのジョー・アームストロング、アシスタントコーチのジミー・マーフィーとともに若い才能を発掘・育成。そこからチームの主力に成長した若手たちは「バスビー・ベイブス」と呼ばれ、55-56シーズンのリーグを制覇。ボビーが加わって連覇を果したシーズンには、レギュラーの平均年齢がまだ22歳という若さだった。
その中でも将来を嘱望されたのが、ボビーよりひとつ年上のダンカン・エドワーズ。エドワーズは当時史上最年少の18歳でイングランド代表入り。生まれながらのリーダシップも備え、次代のイングランド代表を背負うと期待された逸材。ボビーが最も尊敬したチームメイトである。
そんな若きタレントたちを揃え、これからの黄金期を築くかに思えたマンチェスター・ユナイテッド。翌57-58シーズン、2度目となる欧州チャンピオンズカップに参加。前年準決勝で敗れたレアル・マドリード(大会2連覇中)打倒を目指し、準々決勝へ勝ち上がる。
準々決勝の相手は、ユーゴスラビアの強豪ツルベナ・ズベズダ(レッドスター)。ホームでの第1戦をボビーの先制点で2-1と勝利し、58年2月5日には敵地ベオグラードへ乗り込んでの第2戦に臨む。
試合は開始2分に先制し、30、31分とボビーが立て続けに追加点。後半猛反撃を受けて同点に追いつかれるが、どうにか逃げ切って3-3の引き分け。2戦合計5-4として準決勝へ駒を進める。
翌6日、意気揚々と帰国のチャーター便に搭乗したユナイテッドの選手とスタッフたち。しかし給油のため立ち寄ったミュンヘンの空港は大雪だった。チャーター機は悪天候に阻まれ2度の離陸失敗。3度目のトライでオーバーランしてしまい、滑走路の先にある民家へ突っ込み大破炎上。乗員乗客44名のうち23名が亡くなる大惨事となった。
この「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれた飛行機事故により、ダンカン・エドワーズを始めとする8人の選手が死亡。重傷を負った2名が選手生命を断たれた。ボビーはシートごと機外に放り出されて頭に傷を負ったものの、奇蹟的に軽傷。一週間の入院で済んだ。だが大勢の仲間を失ったことによる精神的ダメージは、計り知れないものだった。
バスビー監督も2度の危篤状態に陥りながら一命をとりとめ、長期の入院で体は回復に向かっていた。チャンピオンズカップ準決勝はコーチのジミー・マーフィーが代わって指揮を執るも、ACミランに完敗を喫する。主力の大半を失ったチームは、もはや崩壊の危機を迎えていた。
事故の翌月、FAカップのウェスト・ブロミッチ戦でボビーが戦線復帰。心の傷がまだ癒えない中で、つぎはぎだらけのチームを助け、決勝進出のために奮闘。決勝ではボルトンに敗れて準優勝に終わるも、ユナイテッドサポーターを勇気づけた。
翌58-59シーズンはバスビー監督が現場復帰。絶望に打ちひしがれて一時は引退を考えたバスビーだが、「チームにはまたボビー・チャールトンがいる。彼こそ希望の光だ」と再起を決意。そして21歳のボビーを復興計画の中心に据え、生き残ったメンバーにユース昇格組を加えて新たなチーム編成。さらに他チームから戦力補強を行ない、強豪復活を目指した。
心身ともにコンディションを取り戻したボビーは、38試合29得点の活躍。新生ユナイテッドをリーグ2位に導き、「再びチームを強くして、チャンピオンズカップで優勝してみせる」と誓った。
イングランド代表には58年4月に初招集。ブリティッシュ選手権のスコットランド戦で初ゴールを記録し、デビューゲームを飾る。「ミュンヘンの悲劇」からわずか2ヶ月後のことだった。このまま同年のスウェーデンW杯メンバーにも選ばれるが、まだ事故のダメージから抜けきれないボビーが大舞台のピッチに立つことはなかった。
翌59年にはブリティッシュ選手権の得点王に輝くなど主力に成長し、60年10月から始まったW杯予選では4試合5ゴールの活躍。エウゼビオ擁するポルトガルを退け、4大会連続となるW杯出場に貢献する。
62年5月30日、Wカップ・チリ大会が開幕。1次リーグの初戦はハンガリーに1-2と敗れ、第2戦でアルゼンチンと対戦。開始17分にはボビーのセンタリングがPKを誘い、これをフラワーズが沈めて先制。42分にはボビーがキャノン砲を炸裂させて追加点を奪うと、67分にはグリーブスが3点目。アルゼンチンの反撃を1点に抑え、3-1の快勝を収める。
第3戦はブルガリアと0-0の引き分け。グループ2位でベスト8に進んだイングランドは、準々決勝で前回王者のブラジルと対戦する。ブラジルはエースのペレこそ負傷で欠いていたものの、ガリンシャのプレーに翻弄され1-3の完敗。ボビーのプレーも精彩を欠いて準決勝に進めなかった。
ユナイテッドで得点を重ねて邁進するボビーだが、毎年のように多くの選手が入れ替わり、チームは足踏み状態から抜け出せずにいた。それでもボビーは、再建途上のユナイテッドを支える不動の大黒柱であり続けた。
62-63シーズンには、マンチェスター・シティーで高い得点力を発揮したデニス・ローが加入。ボビーは攻撃の下がり目のポジションに役割を替え、新戦力の23ゴールの活躍を助けた。しかしチームは降格圏ぎりぎりの19位へと低迷。一方FAカップでは好調さを見せ、5季ぶりとなる決勝へ進出。
決勝ではローの先制点でレスター・シティーを3-1と打ち破り、6年ぶりのタイトル獲得。ようやく陣容を整えたユナイテッドは、ここから復活の狼煙を上げる。
63-64シーズンはリーグ2位へと躍進。翌64-65シーズン、生え抜きのジョージ・ベストが主力へと成長。攻撃力を増したチームは首位戦線を快走し、8年ぶりのリーグ優勝を達成する。最高の栄誉であるバロンドールこそ30ゴールの活躍で得点王に輝いたローに譲ったが、キャプテンとしてチームを牽引したボビーの功績も大きなものだった。
66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕。イングランドはサッカーの母国としてのプライドを懸け、地元での初優勝を狙った。
守護神ゴードン・バンクス、キャプテンのボビー・ムーア、ボビーの兄ジャッキー・チャールトンらで築く守備の砦は難攻不落。1次リーグの3試合を無失点の堅守でベスト8に勝ち上がる。攻撃のリーダーであるボビーも、メキシコ戦で1ゴール1アシストと好調さを見せた。
準々決勝のアルゼンチン戦は、肉弾相打つ荒れたゲームとなったが、終盤にハーストがゴールを決めて1-0の勝利。そして準決勝の相手となったのは、初出場ながらエウゼビオの活躍でベスト4に勝ち上がってきたポルトガルだった。
イングランドはノビー・スタイルズのしつこいマークでエウゼビオの動きを封じ、前半30分には相手キーパーが弾いたボールをボビーが押し込んで先制点。後半の79分にもボビーが「キャノン・シュート」を叩き込んで追加点を決める。
82分にはジャッキーの反則からエウゼビオにPKで1点を返されるが、堅い守りで逃げ切って2-1の勝利。ボビーの生涯「ベストゲーム」と言える活躍で、イングランドが初優勝への王手をかけた。
聖地ウェンブリー・スタジアムでの決勝は、西ドイツとの戦い。好調ボビーのマークには、西ドイツの新鋭ベッケンバウアーが付いた。試合は開始12分に西ドイツの先制を許してしまうが、すぐにハーストのゴールで追いつく。終盤の78分にはハーストのシュートの跳ね返りを、すかさずピータースが決めて勝ち越し点。イングランドサポーターの誰もが優勝を確信した。
しかし終了直前の89分、ジャッキーの与えたFKからゴールを奪われまさかの同点。決勝は延長戦へともつれ込む。その延長前半の101分、ハーストのシュートがバーを叩き真下へ落下。これがゴールラインを割ったと認められ、イングランドが勝ち越し。のちのちまで物議を醸すことになる「疑惑のゴール」だった。
このあと気落ちした西ドイツからハーストがハットトリックの追加点を決め、4-2の勝利。ついにサッカーの母国が地元で優勝杯を掲げた。
チームを牽引して初優勝の立役者となったボビーは、大会ベストイレブンに選出。さらにFWA(イングランド・ライター協会)のMVPに選出され、年末にはバロンドールも受賞。その名声を不動のものとしてキャリアを極めたかに思えたが、彼にはまだ成し遂げるべき目標が残されていた。
66-67シーズン、42試合12ゴールの成績で2季ぶりとなるリーグ優勝に貢献。そして翌67-68シーズン、ユナイテッドはチャンピオンズカップを快進撃。準決勝ではベストの活躍で強敵レアル・マドリードを打ち破り、初の決勝へ到達する。
決勝の相手は、ポルトガルのベンフィカ。マリオ・コルナとエウゼビオを擁し、5回のファイナル進出。大会2連覇の実績を誇る強豪クラブである。その決勝の舞台となったのは、ウェンブリー・スタジアムだった。
この試合でもノビー・スタイルズがエウゼビオを抑え、前半を0-0で折り返し。そして後半の53分、左からのクロスをボビーが頭でコースを変え先制点。ユナイテッドがリードするも、終盤は経験豊富なベンフィカが逆襲。79分にはDF陣がエウゼビオの動きに引きつけられ、グラッサの同点ゴールを許してしまう。
このあともエウゼビオにキーパーとの1対1で強烈なシュートを打たれるが、GKステップニーがビッグセーブでピンチを防ぐ。ゲームは延長戦に突入。その直後の92分、ステップニーのキックからブライアン・キッドがベストへパス。得意のドリブルで相手ゴールに迫ったベストが、GKをかわして勝ち越しのゴールを決める。
94分にはキッドが追加点。99分にもボビーがダメを押して4-1の勝利。ついにマンチェスター・ユナイテッドが栄光のビッグイアーを手にする。あの「ミュンヘンの悲劇」から、ちょうど10年目となる悲願達成だった。試合終了後ボビーは人目もはばからず涙を流し、バスビー監督と喜びを分かち合った。
チャンピオンズカップ優勝を成し遂げた1週間後、イタリアで行なわれた欧州選手権に出場。しかし準決勝でドラガン・ジャイッチ、イビチャ・オシム擁するユーゴスラビアに0-1と敗れ、決勝に進めなかった。
それでも3位決定戦ではボビーとハーストがゴールを決め、ソ連に2-0の勝利。ベスト3を確保してまずまずの結果を残した。
その2年後にはWカップ・メキシコ大会が開幕。1次リーグではブラジルに敗れたものの、2勝を挙げて2位突破。準々決勝で前回ファイナルの再戦となる西ドイツと戦う。
前半31分にイングランドが先制すると、後半49分にも追加点。2点をリードして優位に試合を進める。だが69分にベッケンバウアーのミドルシュートで1点を返されると、疲れの見えるボビーがベンチに下がり、若手のコリン・ベルに代わる。
だがこの交代策が西ドイツに付け入る隙をあたえてしまい、76分にはウーベ・ゼーラーのバックヘッドで同点とされる。さらに延長の108分にはゲルト・ミュラーにボレー弾を叩き込まれ、2-3の逆転負け。前大会の雪辱を許してしまった。
W杯敗退後、ボビーは兄のジャッキーとともに代表からの引退を表明。13年間の代表歴で106試合に出場し、49ゴールを挙げた。これは当時の代表通算最多得点記録で、現在でもハリー・ケイン、ウェイン・ルーニーに続く3位の記録となっている。
69年にマット・バスビー監督が勇退。30歳を過ぎたボビーのプレーにも衰えが見えきた。故障がちのデニス・ローに以前の輝きはなく、ジョージ・ベストは若くして転落の道へ。「ホーリー・トリニティー(聖なる三位一体)」の時代も長く続かず、チーム成績は次第に下降線をたどっていった。
そしてリーグ18位に沈んだ72-73シーズンを最後に、35歳で現役を引退。17年間を過ごしたマンチェスター・ユナイテッドで公式戦758試合に出場し、249ゴールを記録。スポーツマンシップで知られたボビーが、キャリアを通じて受けたカードはたった一回。それもFKの際、後退するのを怠ったという理由だった。
73年にはプレストン・ノースエンド(3部リーグ)の監督に就任。選手としても出場して8ゴールを挙げた。そのあとアイルランドやオーストラリア、南アフリカのクラブでも顔見せ程度に出場し、80年代始めまでプレーを続けた。
84年にはマンチェスター・ユナイテッドのフロント入り。94年には英国皇室からナイトの称号を授与され、「サー・ボビー・チャールトン」となった。
以降、英国のレジェンドとしての余生を送っていたが、2020年7月には兄のジャッキーが悪性リンパ腫により85歳で死去。同年11月には、ボビーの認知症が公表された。
追記:2023年10月21日、入院先の病院で死去。死因は「外傷性血気胸と転倒、認知症」と発表された。介護施設での転倒による肋骨の骨折で、肺炎の可能性が高くなり、末期医療に入って5日後に亡くなったという。享年86歳。