「ミスター・イングランド」ボビー・チャールトン(イングランド)
マンチェスター・ユナイテッドの主将として、そして代表の大黒柱として、60年代イングランドに栄光をもたらした偉大なプレイヤーが、ボビー・チャールトン( Robert Charltonn )だ。
「キャノン・シュート」と呼ばれる強烈なミドルシュートのイメージが強いボビーだが、一方では高いテクニックと軽やかさも持ち合わせ、よどみなく流れに乗ってゴールに向かう姿は、優雅で美しくさえあった。彼の踊るような動きと才能は、イングランドサッカーの歴史の中でも特筆すべきものだと言われている。
またボビーは、ピッチの内外で模範的な振る舞いを見せる、紳士かつ至高のスポーツマンでもあった。常に零着沈静なプレーを心がけていた彼が、審判から受けた警告は生涯でたった一回。それも、FKの際に後退するのを怠ったという理由だった。
そして「ミスター・イングランド」と呼ばれたその名声は、引退後45年たった今も色褪せることはなく続いている。
ボビー・チャールトンは1937年10月11日、炭鉱の町アシントンに生まれる。母方の叔父3人がサッカー選手という血筋に生まれたボビーは、54年に17歳でマンチェスター・ユナイテッドへ入団した。ちなみに、2歳年上の兄ジャッキーもリーズ・ユナイテッドの選手で、のちにWカップで一緒にプレーしている。
このときユナイテッドを率いていたのは、マット・バスビー監督。バスビーは若手選手の発掘・育成に力を入れており、ボビーも彼によって引き上げられ、56年10月にホームのオールド・トラッフォードでトップデビューを果たす。
「バスビー・ベイブス」と呼ばれた子飼いの若手たちは順調に育ち、ボビーもレギュラーに定着。56、57年のリーグ連覇に貢献した。翌58年、マンUはイングランド勢で初めて、チャンピオンズ・カップに参戦。準々決勝の第2レグでは、2月に敵地ユーゴスラビアへ乗り込み、ボビーの2ゴールなどでレッドスター・ベオグラードを撃破した。
意気揚々と帰国の途につくマンUの選手とスタッフ。しかしそこに思わぬ悲劇が待ち受けていた。給油で立ち寄ったミュンヘンの飛行場は大雪、選手たちを乗せたチャーター機が離陸に失敗し、乗員乗客44名が死傷する「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれる大事故が起こってしまったのである。
この事故で、将来を嘱望された21歳のダンカン・エドワーズをはじめ8人の選手が死亡、重傷を負った2人が選手生命を奪われてしまった。そしてバスビー監督も一時は生命が危ぶまれるほどの重体となり、長期入院を余儀なくされた。
16歳でトップリーグにデビューしたダンカン・エドワーズは、18歳でイングランド代表入り。大きく頑丈な身体を持ち、テクニックに優れ、ゲーム展開も読める理想的なウィング・ハーフだった。
生まれながらのリーダーシップとファイティング・スピリットも持ち合わせ、将来必ずユナイテッドと代表のキャプテンになる選手だと期待されていた。ユナイテッドとイングランドは、かけがえのない人材を失ってしまったのだ。
奇跡的に軽傷ですみ一命を取り留めたボビーだが、この飛行機事故で多くの仲間を失い、一時はボールを蹴れなくなるほどの精神的ダメージを負ってしまう。この事故の2ヶ月後にイングランド代表に選ばれ、スウェーデンWカップのメンバーにも選ばれるが、プレーに精彩を欠き出番はなかった。
だが翌年、重傷を負ったバスビー監督がチームに復帰。20歳のボビーを主将に据え、壊滅状態となったチームの再建に着手する。そしてプレーへの意欲を取り戻したボビーは、「亡くなった仲間のためにも、必ずチャンピオンズ・カップで優勝してみせる」と心に誓い、事故後の58ー59シーズンは38試合に出場し、28ゴールを挙げるという頼もしさを見せた。
後にバスビー監督が「絶望に打ちひしがれていた我々に、ボビー・チャールトンの存在は大きな励ましとなった」と語っているように、彼はチーム復興の基盤だったのだ。62年にはデニス・ロー、63年にはジョージ・ベストが加わり、次第にその陣容を整えていったマンU。バスビー監督はボビーをFWからMFに下げ、点取り屋から攻撃のキーマンへと役割を変える。
62年、ボビーはイングランド代表の主力として、Wカップ・チリ大会に出場した。そして1次リーグの第2戦で「キャノン・シュート」を炸裂、難敵アルゼンチンを3-1と粉砕する。準々決勝で優勝したブラジルには敗れてしまったが、4年後の自国開催に繋がる戦いを見せた。
62-63シーズン、マンUは15年ぶりにFAカップで優勝。64-65シーズンには「ミュンヘンの悲劇」以降初となるリーグ制覇を成し遂げ、チームは完全復活を果たした。ボビーは安定したプレーでローやベストと連携し、中盤から多くのチャンスを生み出していったのである。
66年、Wカップ・イングランド大会が開幕。29歳となったボビーは、代表の大黒柱として全6試合に出場。準決勝のポルトガル戦では得意の「キャノン・シュート」で2得点を挙げるなどの活躍を見せ、サッカーの母国に初の栄冠をもたらした。この年、ボビーはバロンドールに輝くことになる。
そしてその2年後、ついに積年の悲願を果たす機会がやってきた。68年のチャンピオンズ・カップ、準決勝で強敵レアル・マドリードを激戦の末退けたマンUは、5月29日に聖地ウェンブリー・スタジアムでベンフィカとの決勝戦を迎えることになる。
マンUはベンフィカの厳しいマークに苦戦。だが53分、サドラーの上げたクロスにボビーが反応、先制ゴールを決めた。しかしその後ベンフィカの猛反撃受けるマンU、試合終了まであと9分というところで同点とされてしまった。さらに攻撃を仕掛けるベンフィカ、終了間際にエウゼビオが強烈なシュート。だがこれは、GKステップニーの好セーブでどうにか防いだ。
押され気味だったマンUだが、延長に入り体勢を立て直す。延長の2分、ベストが得意のドリブルから勝ち越し点を挙げると、その直後にもブライアン・キッドがヘッドで追加点を決めた。そして最後にボビーが駄目押し点、ベンフィカを延長で4-1と下した。「ミュンヘンの悲劇」から10年目の、チャンピオンズ・カップ初制覇だった。
試合終了後、ボビーは人目もはばからず涙を流したという。そして感動と疲労で精根尽き果てた彼は、夕方開かれた祝賀パーティーに欠席している。
ボビーは70年のWカップ・メキシコ大会にも出場、4試合全部に先発した。73年にはマンUを離れ、75年に38歳で現役を引退する。そして彼のサッカー界における長年の功績により、94年にナイトの称号を授けられ、“サー・ボビー・チャールトン”となった。