《 サッカー人物伝 》 ボビー・ムーア

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「ザ・キャプテン」 ボビー・ムーア ( イングランド )

鉄壁の守りで「サッカーの母国」イングランドをWカップの地元優勝に導き、常に冷静さを失わない姿勢と高いリーダーシップで「キャプテンの中のキャプテン(サ・キャプテン)」と称えられたプレイヤーが、ボビー・ムーア( Robert Frederick Chelsea Moore )だ。

ディフェンダーとしては決して大柄ではなく、身体能力にも秀でていた訳ではないが、ゲームの読みに優れ的確なポジショニングとコーチングでDFラインを統率。1対1の場面では、鋭いタックルで相手の突破を阻止した。またロングキックの名手と知られ、正確なフィードで攻撃の起点となった。

そしてウェストハムでも22歳でキャプテンとなり、16年間チームを牽引、中堅クラブに初タイトルをもたらした。代表では出場した108試合のうち91試合でキャプテンを務め、そのフェアプレー精神や誠実な人柄は、国民の信頼と尊敬を集めた。


ボビー・ムーアは1941年4月12日、ロンドン東部のバーキングに生まれた。スクールサッカーから始めたムーアは、線が細いという理由で何度もテストに落ちながら、15歳で憧れのウェストハム・ユナイテッド下部組織に入団する。

58年、17歳でトップチームデビュー。9月20日の国内リーグ、マンチェスター・ユナイテッド戦で初出場を果たした。59年にはチームメイトのFWジェフ・ハーストとともに、FAユースカップの決勝に進出、惜しくも1-2でブラックバーンに敗れて優勝を逃してしまった。

61年にはトップチームのレギュラーに定着。178㎝と特に大きな身体でもなく足は遅かったが、抜群の状況判断と得意のハードタックルで攻撃の芽を摘み、若くしてDFのリーダーとなった。

62年に代表初招集、5月20日のペルー戦で初キャップを刻んだ。イングランドは前年1-4と敗れたペルーに今度は4-0と快勝、ムーアは21歳とは思えない落ち着いたプレーで勝利に貢献した。こうして早くも輝きを見せた若きディフェンダーは、そのまま5月末に開催されるWカップ・チリ大会のメンバーに選ばれる。

ムーアはWカップG/Lの初戦、ハンガリー戦からハーフバックとして出場。この試合は1-2と落としてしまったが、続くアルゼンチン戦にも出場して相手を1点に抑え、3-1の勝利に寄与した。イングランドは3戦目のブルガリアに0-0と引き分けて、G/L2位で決勝Tへ進む。

準々決勝では、エースのペレをケガで欠いたブラジルと対戦する。しかしこの試合でガリンシャが大爆発、全得点に絡んだ変幻自在の野生児をムーアも止められず、イングランドは1-3の完敗を喫してしまった。しかし4試合全てに出場し、冷静かつ的確な守りを見せたムーア。そのプレーと人間性は高い評価を受けた。

翌63年には代表キャプテンのジョニー・ヘインズが引退。Wカップ大会のあと代表監督に就任したアルフ・ラムゼーは彼の後任として、代表キャップ僅か12試合、22歳のボビー・ムーアをキャプテンに指名した。ムーアが初キャプテンを務めた5月29日のチェコスロバキア戦は、4-2と勝利で飾る。だが3年後のWカップは自国開催大会、若いムーアに大きな責任が課せられた。

ムーアはウェストハムでも62年からキャプテンを任されるようになった。63-64シーズン、ウエストハムはFAカップの決勝へ進出。聖地ウェンブリー・スタジアムで、プレストン・ノースエンドと優勝を懸けて戦った。試合は劇的な展開となり、終了間際にロニー・ボイスが決勝ゴール、ウエストハムが初タイトルを獲得し、主将のムーアは優勝トロフィーを手にした。

ウェストハムを統率したムーアは、この年精巣ガンの治療にも成功し、リーグ年間最優秀選手賞に輝いた。そして翌シーズンの欧州カップ・ウイナーズカップ大会の出場権を得たチームは、そのままの勢いで勝ち上がっていく。

決勝は母国のウェンブリー・スタジアムに、西ドイツのミュンヘン1890を迎えての戦いとなった。試合はアラン・シーリーが2得点を挙げ、ムーア率いる守備陣が相手を封じて2-0の勝利。またも優勝トロフィーはムーア主将の手に渡った。

66年、Wカップ・イングランド大会が開幕する。エリザベス女王が観戦した開幕戦は、地元イングランドとウルグアイの試合。双方守りを固めた試合は、0-0のスコアレスドローとなった。続く第2戦はメキシコとの対戦。ボビー・チャールトンらのゴールで2点をリードしたイングランドは、メキシコの反撃を封じて勝利を挙げた。

最終節はハントの2得点でフランスに2-0と勝利、イングランドは余裕での1位勝ち抜けとなった。主将のムーアとスイーパーのジャッキー・チャールトン(B・チャールトンの兄)、ストッパーのノビー・スタイルズ、キーパーのゴードン・バンクスらで形成する守備陣は鉄壁、G/L3試合で相手に1点も許さなかった。

準々決勝はアルゼンチンとの戦い。開始から反則的なタックルを仕掛けるアルゼンチンに、イングランドも対抗、大荒れの試合となった。36分、主審へ執拗な抗議を行っていたアルゼンチン主将のラティンが退場処分となる。だがそれに納得のいかないラティンは退場を拒否、試合は10分近く中断した。

ラティンは警備員によって強制退去、それでもアルゼンチン選手の乱暴なプレーは収まらなかった。79分、今大会初出場のハーストが決勝ゴール、混乱のゲームはイングランドが1-0の勝利を収めた。試合後ラムゼー監督は対戦相手を「アニマウ(野獣)」と非難、アルゼンチンのラフプレーにはFIFAから罰金が科せられることになった。

そして準決勝で迎えるのは、「黒豹」エウゼビオを擁するポルトガル。エウゼビオは準々決勝の北朝鮮戦で4得点を叩き出すという、驚異的な爆発力を見せていた。だが「手斧師」の異名を持つスタイルズがエウゼビオを徹底マーク、その動きを封じた。

30分にB・チャールトンが先制弾、79分には “キャノンシュート” で追加点を挙げた。そしてムーア、J・チャールトン、バンクスがポルトガル攻撃陣の前に立ちふさがり、相手の反撃をエウゼビオのPKによる1点に抑えた。こうしてイングランドが2-1と勝利、とうとうサッカーの母国が決勝に勝ち上がった。

西ドイツとの決勝は、7月30日にウェンブリー・スタジアムで行われた。12分に先制したのは西ドイツ、イングランドはミスから早い時間にリードを許してしまった。しかしその6分後、FKのチャンスにムーアが素早いクロス、それをハーストが頭で決めた。ムーアとハーストはウェストハムのチームメイト、阿吽の呼吸から生まれた同点ゴールだった。

この後西ドイツが再三のシュートチャンスをつくるも、「イングランド銀行」バンクスが完全防御、試合は1-1のまま後半の終盤まで進んだ。78分、右CKのチャンスでハーストがシュート、跳ね返りをピーターズが決めイングランドが勝ち越した。

詰めかけた観客は地元チームの優勝を確信、試合は90分を過ぎて主審の笛が吹かれるが、それは終了を告げる合図ではなく、J・チャールトンがゴール前で犯したファールを指し示すものだった。エメリッヒの蹴ったFKはイングランドの造った壁に激突、走り込んできたウェーバーにボールが渡り、西ドイツがバンクスの牙城を突き破った。

2-2となった試合は延長に突入する。延長前半の11分、スタイルズからのロングボールを懸命に追ったアラン・ボールが折り返しのクロス、ハーストがシュートを放つとボールはクロスバーの下側を叩き、ゴールライン上へ落下した。西ドイツの選手が抗議を行うも、主審・線審の判定はゴールイン、イングランドの勝ち越し弾が認められた。

その後西ドイツの猛反撃をしのいだイングランド、延長後半も終了が近づいた時間に、ムーアは相手からボールを奪い返した。ムーアの耳にはチームメイトからの「(時間稼ぎで)観客席に蹴り込め!」の声が届くが、常にピッチを見渡していた主将は前線に35mのロングフィードを送る。するとそこに走り込んでいたハーストへボールが渡り、ハットトリックとなる得点が決まった。

直後に笛が吹かれ、延長となった決勝は4-2で終了。ついにイングランドが地元で初優勝を飾った。39段の階段を登り、エリザベス女王から優勝杯を受け取ったボビー・ムーア。偉大な主将は偶然にも3年連続ウェンブリー・スタジアムで、栄光のトロフィーを頭上に掲げた。

68年には欧州選手権に出場、準決勝でユーゴスラビアに0-1と敗れるが、3位決定戦ではB・チャールトンとハーストのゴールで2-0と快勝。大会過去最高となる3位の成績を残した。

70年、ディフェンディング・チャンピオンとしてWカップ・メキシコ大会に出場する。だが大会前に親善試合のため滞在したコロンビアで、イングランドの主将は災難に遭ってしまう。宿泊中のホテル内にある宝石店にB・チャールトンと立ち寄ったムーアは、なぜかブレスレットを盗んだと疑われ、逮捕されてしまったのだ。

当然ながら無実を主張するムーア、外交交渉の末に無事釈放され、ようやくチームに合流する。真相は不明だが、南米諸国に嫌われたイングランドが嫌がらせを受けたとも、前回優勝国に対する陰謀だとも噂された。だがそんなトラブルにも動揺を見せることなく、ムーアは毅然とした姿勢で大会に臨む。

G/Lでは、今大会最強と目されたブラジルと対戦する。試合は37度の灼熱の中で行われたにもかかわらず、ハイレベルのゲーム内容となった。開始早々ムーアのFKからハーストがフリーでシュート、惜しくもボールは枠を外した。

その10分、高速ドリブルで抜け出したジャイルジーニョが鋭いクロス、ペレの完璧なヘディングゴールが決まったかに見えたが、逆を突かれたバンクスが奇跡の反応、指先でボールを弾き出した。このあと再びジャイルジーニョがチャンスを創出、鋭いドリブルでイングランドDFを切り裂き、最後尾で構えるムーアと1対1になる。

間合いを図りながら、ムーアを抜きにかかるジャイルジーニョ。しかし冷静なムーアは慌てず騒がず、出てきた瞬間を見定め、右足アウトでのタックル、ボールを前へ運ばせなかった。不意を突かれたジャイルジーニョはバランスを失って転倒、ムーアは悠々と味方へパスを繋いだ。

しかし後半に入った59分、トスタンが3人を抜く鮮やかなドリブルで左サイドを突破。待ち構えるムーアを強引に腕で押しのけ、ゴール前に走るペレへボールを送る。ペレは右方向に軽やかなパス、走り込んできたジャイルジーニョがゴールを決めた。

イングランドは反撃を試みるもチャンスで絶好機を逃し、ついに追いつくことは出来なかった。0-1で試合は終了、すると負けたイングランド主将のもとに歩み寄ってきたのは、あのペレだった。ムーアの真摯なプレーに心打たれたサッカーの王様が、ユニホーム交換を申し入れてきたのだ。

イングランドは2位でG/Lを勝ち上がり、前大会優勝を争った西ドイツと準々決勝で対戦する。2点をリードしたイングランドだが、守護神バンクスが腹痛で欠場。ベッケンバウアーのゴールから、2-3の逆転負けを喫してしまった。

ベスト8に終わってしまったイングランドだが、ムーアの堂々たるプレーは強い印象を残し、その年のヨーロッパ・フットボール・オブ・ザ・イヤーの投票第2位に選ばれる。(第1位はWカップ得点王のゲルト・ミュラー

イングランドが74年のWカップ出場を逃すと、ボビー・ムーアは代表を退いた。その74年にはプロ生活を始めたウェストハムを離れ、フルハムに移籍。その後アメリカに渡ってMLSでプレーし、83年に42歳で現役を引退した。

引退後は下部リーグの監督を務めていたが、91年に大腸癌を発症し手術を受ける。だが93年2月14日に肝臓への癌移転を公表、その10日後の24日、ムーアは51歳で息を引き取った。08年8月、ウェストハムは彼のつけていた背番号6を、永久欠番にすると発表した。

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