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「歴史秘話ヒストリア」小津安二郎

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小津安二郎の歴史秘話

歴史の中に埋もれた物語を掘り起こし、毎回再現ドラマとともに過去を生きた人々やエピソードを伝えるNHKの番組『歴史秘話ヒストリア』、今回は【小津安二郎 日常というドラマ】。

名作『東京物語』など家族の日常のドラマをテーマとして描き続け、その端正かつ独特なスタイルで海外にもファンの多い日本映画の巨匠、小津安二郎。その小津監督の若き日のエピソード、貴重なフィルムや若かりし頃の写真、撮影中を写したものなどが紹介されて、非常に興味深い内容だった。

また小津がなぜ家族にこだわったのか、また生涯独身を貫いた彼がどうして家族の物語を生み出せたのか、番組はその経緯と心の動きを丁寧に追っていく。

深川の映画青年

小津安二郎は東京の深川で1903年に生まれ、商家の次男として育った。9歳で三重県に移り住み、伊勢の地でヤンチャをしながら青春を謳歌したそうだ。そんな彼を夢中にさせたのが活動写真、学校から鑑賞を禁止されたことが、余計に彼をのめり込ませることになった。

高校受験を間近に控えた10代なかば頃、小津は仲間と共に映画を観ては批評をし、新聞社へ投稿したり同人誌を発行したりしていた。その原稿の中には「日活に名監督が一人欲しい」と書かれていたりするのが微笑ましい。そして小津の日記には鑑賞した映画の題名がズラリ、一年で40本近く観ているようだが、当時の環境を考えるとかなりのものなのだろう。

そんな中、小津の運命を変えたのがアメリカ映画『シヴィリゼーション』(1916年)、戦争によって翻弄される人々を描いた超大作だ。ドラマチックなこの作品に心を揺さぶられた小津少年、以降映画監督を目指すようになった。

だが映画に夢中になりすぎ、高校受験には失敗。小学校の代用教員の職に就くが、映画監督への思いは消えず1年で退職。つてを頼って、23(大正12)年に19歳で松竹キネマ蒲田撮影所へ入社している。撮影助手から始め、数年後には助監督となって映画人生をスタートさせた。

27年、開明派の撮影所所長・城戸四郎に見込まれ昇進、時代劇『懺悔の刃』(野田高梧、脚本)で監督デビューを果たす。番組では「カレーライス事件」が昇進のきっかけになったように語られているが、そこは未確認なので面白エピソードのひとつと捉えた方がいいだろう。

戦前、戦中の活動

現存する小津最古の映画とされているのが、29年の『学生ロマンス 若き日』。後年の渋い小津作品からは想像も出来ないような、明朗で無邪気な青春映画である。スキーで転ぶシーンでは、カメラも一緒に転倒。アメリカ映画に影響を受けた小津らしい、バタ臭いというくらいにハリウッド的な作品だ。その頃の小津は、こういった作品を多く撮っていたのだ。

その後、『大学は出たけれど』『東京の合唱』『生まれてはみたものの』『一人息子』などの作品で小津はその名声を高めていく。小津映画の代名詞ともなる「ローポジション撮影」を使うようになったのもこの頃だ。小津がはっきりその意図を説明しなかったため諸説あるが、やっぱり日本間に合う安定した構図になるということなのだろう。

37年に招集され、戦地に趣くことになった小津。親しくしていた後輩の山中貞雄監督と戦地で偶然出会うが、再会を誓った数ヶ月後に山中は病死、小津は大きな衝撃を受ける。それら体験した戦争の悲惨な現実が、のちの人生観に大きな影響を与えることになった。

41年、小津は撮影現場に復帰。映画への検閲が厳しくなる中、帰還後の第一作としてあえて戦争をほとんど描かない家族物語『戸田家の兄妹』を監督する。非日常の中で感情が失われてしまう戦争を描くより、日常的な家族を扱うほうが人間の本質に迫れると考えたからだ。

日米開戦後、戦争記録映画を撮るためシンガポールに派遣された小津。そこで米軍から押収した、『風と共に去りぬ』『市民ケーン』『嵐が丘』など100本以上のハリウッド映画を鑑賞。それらの作品群に圧倒された小津は、家族の日常を描くことこそ自分が目指すものだと確信する。

スランプの時代

昨年、小津監督の故郷、東京深川で貴重な資料が初めて公開された。代表作『東京物語』の製作過程を記録した、1,000枚近くの写真によるアルバムだ。昔の写真だけに多少不鮮明だが、老夫婦が熱海の防波堤に腰掛ける有名なシーンの撮影の様子を見るだけで、ちょっと感激してしまった。

その写真の中で、小津監督に寄り添うように写っていたのが、野田高梧。黒澤明に橋本忍・小国英雄、溝口健二に依田義賢がいたように、戦後の小津作品を支えた名脚本家である。

終戦後復員した小津は『長屋紳士録』(47年)のあとに『風の中の牝鶏』(48年)を発表。だが戦後の荒廃を夫婦の危機に反映させた意欲作『風の中の牝鶏』には、「時流に迎合した失敗作」(当時、民主主義を啓蒙した映画が沢山作られていた)との低評価がなされてしまう。

「こんなものを作ってちゃ駄目だ」と、監督デビュー時から仕事をしてきた野田高梧も厳しく批判、小津はその批判を素直に受け入れた。そして自身の持ち味である様式美スタイルを生かすため、中流階級の穏やかな生活の中で家族の本質を描こうとした。

日常を描いた映画作家

そして出来上がったのが、小津の復活作となった『晩春』(49年)だ。父娘二人の日常が淡々と綴られる中、結婚を巡る心のひだも丁寧に描かれて高い評価を受けた作品である。小津は野田と脚本に1年を掛け映画化。『晩春』の成功により、以降二人は62年の『秋刀魚の味』までコンビを続けていくことになる。

番組では小津作品を陰で支えた野田の家族にも言及。原稿の清書を担当した野田の娘、玲子の存在は、『晩春』『東京物語』『麦秋』のいわゆる「紀子三部作」で原節子の演じたヒロイン像に投影されているそうだ。小津の描く日常は、野田一家を通した家族の姿なのだろう。

番組の最後は、小津監督の遺作『秋刀魚の味』で、笠智衆の娘役を演じた岩下志麻さんが語るエピソード。映画の終わり近く失恋の悲しみを表現するシーンで、巻き尺を手に巻き付ける仕草に100回を越えるNGを出されたが、意味も分からず同じ事を繰り返していた岩下さん。

終了後食事に誘われ、岩下さんは小津監督から「悲しいときに悲しい顔をするもんじゃないよ、人間の喜怒哀楽はもっと複雑なものだよ」と言葉を掛けられた。岩下さんにとって、それが演技の原点となったそうだ。

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