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ハリウッドの迷宮入り事件 

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欲望渦巻くハリウッドの世界

華やかな舞台の裏で、ドロドロとした欲望が渦巻いているのがハリウッドの世界。そしてその欲望の世界には、これまで謎の失踪事件や不審な事故死、残虐な猟奇殺人といった未解決事件が多く起きている。

そのハリウッドで起きた未解決事件を扱った本が、ジョン・オースティン著の『ハリウッド 葬られた真実』(原題、Hollywood’s Unsolved Mysteries)だ。

今回はその中からジーン・スパングラー失踪事件、セルマ・トッドの不明な事故死、悲惨な猟奇殺人「ブラック・ダリア事件」の3つを取り上げ、紹介してみたい。

ジーン・スパングラー失踪事件(1949年)

ジーン・スパングラーは、1923年シアトル生まれの当時26歳の女優。といってこれまで出演した7本の映画はいずれも端役、銀幕スターを夢見ながら、ナイトダンサーの仕事などで生活費を稼ぐ毎日を送っていた。また彼女には離婚歴があり、5歳になる娘の養育費を巡って元夫と話し合いを重ねている最中だった。

49年10月7日の夕方頃、ジーンは同居している兄夫婦に、撮影の仕事に出かけるとの言葉を残して自宅を跡にした。しかし翌日になっても彼女は戻らず、家族は失踪届けを出すことになる。

そこで警察が撮影スタジオにジーンの行動を確認すると、その日は撮影の仕事などなかったことが判明する。彼女の元夫にも事情徴収が行われたが、ジーンにはしばらく会っていないと証言。さらに彼には、当日のはっきりしたアリバイがあることが解った。

そして失踪の2日後、自宅から約9キロ離れた公園で、ストラップの引きちぎられたジーンのバックが見つかった。その財布の中にはお金が入っておらず、代わりに「カーク、もう待てない。スコット先生に会ってくる」と書かれたメモが見つかった。

カークもスコット先生の名前も家族には心当たりがなく、この事件がマスコミに報道されるとたちまち世間の憶測を呼んだ。そこで浮上したのが、ハリウッドスターであるカーク・ダグラスの名前である。当時カーク・ダグラスは映画『チャンピオン』でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、注目を浴び始めた新進スターだった。

捜査を進めていくうちに、ジーンが妊娠中で違法な中絶の話を友達にしていたという証言も飛び出し、スコット先生とは闇医者のことだと推測された。そしてジーンはカーク・ダグラスの最新作『情熱の狂想曲』にエキストラ出演、新進スターとの関係が疑われたのだ。

それを知ったカーク・ダグラスは、自ら警察に電話。カークが「彼女とは少し冗談を交した程度で、外で会ったこともない」と嫌疑を否定すると、警察もその訴えをあっさり認めた。さらにジーンにはアンソニー・コネーコやミッキー・コーエンといったギャングとの関係も取り沙汰され、失踪事件は解明するどころか混迷を極めていく。

その後も警察はジーンの行方を求め、また有名コラムニストが1000ドルの報奨金を出すなどして全国的な捜査が続けられた。しかし彼女の姿が発見されることも、メモに書かれた人物が判明することもなく、ハリウッドスターや高名なギャング巻き込んだ事件は、コールドケースとなって現在に至っている。

セルマ・トッド事件(1935年)

女優セルマ・トッドは1905年、マサチューセッツ州ローレンスの政治家の家に生まれた。学生時代は成績優秀で教師を目指すが、ミス・コンテストで州代表に選ばれ、ハリウッドのスカウトに見いだされて映画界入りする。

その快活な性格を生かして多くの喜劇映画に出演し、コメディエンヌとしての才能を発揮、サイレント時代のハリウッドで活躍する。そしてローレル&ハーディー、バスター・キートン、ジョー・E・ブラウン、マルクス兄弟といった喜劇スターと共演し、人気女優の座を不動にした。

スクリーンでは華やかに振る舞っていたセルマだが、30歳が近づく頃から引退に備えてサイドビジネスを始め、34年にはパシフィック・パリセーズのハイウェイ沿いに「セルマ・トッドのサイドウォーク・カフェ」と名付けた飲食店を開業。店はハリウッドセレブや沢山の観光客を惹きつけ、大いに繁盛した。

35年12月14日の土曜日、セルマは自分のためにナイトクラブで開かれたパーティーに出席。数時間後パーティーはお開きとなり、彼女は運転手付きのリムジンで、自宅を兼ねていた「サイドウォーク・カフェ」に向かった。セルマが自宅に戻ったのは、15日の日曜午前2時。彼女は運転手と言葉を交し、ドアの内側に消えていった。

翌16日月曜日の朝8時に、通いの女中が出勤。10時を過ぎても家主が姿を現わさなかったため、不安を感じた女中がガレージを覗くと、そこにはパーティー着のままハンドルに突っ伏し、息絶えているセルマが発見された。

検死の結果は、事故による一酸化中毒死。セルマがドライブしようと酔った状態で車のエンジンをかけ、閉め切ったガレージの中で眠ってしまい、一酸化炭素を吸い込んだことが死因とされたのだ。

しかしセルマの口は血だらけ、顔には打撲の傷があり、車内には血が飛び散っていたことから、世間では他殺も噂された。しかも検視ではすでに死亡していたとされる15日の昼に、セルマの姿を見かけたり、電話の声を聞いたという証言者も現れたのである。

世間では前夫や愛人が犯人だと疑われる中、有力な説として浮上してきたのがマフィアによる謀殺説である。セルマの店「サイドウォーク・カフェ」が、西海岸に進出してきたギャングのラッキー・ルチアーノに狙われ、彼らの要求を拒み続けたセルマは脅迫を受けていたというのである。

大物マフィア、ラッキー・ルチアーノの前に、当時の警察は言いなりの状態、映画界も沈黙を余儀なくされたと言われている。こうして事件の真相は隠蔽され、表面上は解決した事故死に多くの謎が残された。

ブラック・ダリア事件(1947年)

ブラック・ダリア事件とは、06年の映画『ブラック・ダリア』(原作ジェイムズ・エルロイ、監督ブライアン・デ・パルマ、主演ジョシュ・ハーネット)の題材にもなった有名な猟奇殺人事件である。

被害者の女性エリザベス・ショートは、1924年マサチューセッツ州ボストン生まれの当時22歳。エリザベスは女優を目指しながら、ハリウッド大通りにある店でウェイトレスとして働いていた。そして47年1月15日の朝、ロサンゼルスのサウス・ノートン・アベニュー西側の空き地で、腰あたりから真っ二つに切断された彼女の無残な遺体が発見される。

最初に彼女の亡骸を発見した主婦によれば、遠目にそれはマネキン人形のように見えたという。しかし近づいてみると、その口は両耳付近まで切り裂かれ、身体は血抜きされて大理石の如く真っ白。切り離された下半身の脚は大きく広げられ、上半身の両腕は頭向きに直角に曲げられるという、異様な姿で晒された若い女性の亡骸だった。

さらに検死が行われると、胸や脚にも数カ所切り刻まれた傷が発見され、その部分は薄くスライスされていた。しかも体内には汚物が押し込まれ、下半身の両穴には切り取られた皮膚が詰め込まれるという、まさにサイコキラーならではの所業だった。

エリザベスには過去、未成年飲酒による検挙歴があったため、指紋を照合するとすぐに身元が判明した。死体発見直後には新聞社も駆けつけ、ショッキングな現場写真も撮影されている。そして事件はセンセーショナルに伝えられ、エリザベスが黒い服を好んで着たことと、犯罪映画の『ブルー・ダリア』にちなんで、被害者女性は「ブラック・ダリア」とネーミングされるようになった。

難航する捜査

捜査は難航していたが、死体発見の9日後にホテル近くのポストから、新聞社へ宛てられた怪しげな小包が回収された。その小包には新聞紙からの切り抜きで「ダリアの所持品在中。手紙は追って」と書かれていた。実はその3日前に、「ブラック・ダリア事件」の犯人と称する男から新聞社への電話があったのだ。

中身にはエリザベスの出生証明書、社会保険証、男とのツーショット写真が数枚、名刺、アドレス帳などが入っており、小包はガソリンで拭われて指紋は消されていた。新たな展開に事件の報道は過熱、被害者エリザベスについても、有ること無いこと織り交ぜて彼女のプライベートが暴かれた。

初期捜査に当たったロサンゼルス市警の捜査員は750名以上、夜の街でホステスをしていたエリザベスの交友関係は広く、数週間で150人以上の男が尋問された。そして何人もの容疑者が捜査線上に浮ぶが、決め手となる証拠は得られず捜査は行き詰まった。

新たな情報を求め市議会議員が自ら報奨金を出す旨を広告するが、野次馬的な市民が警察に出頭してくるなど捜査を混乱させるだけだった。さらには新聞のゴシップ的な報道も警察の捜査を妨害する形になり、偽情報ばかりが溢れてしまう。

しかし時が経つにつれ、いつしか過熱報道も沈静化。捜査がこれ以上進展することもなく、ついに事件は迷宮入りした。それでも「ブラック・ダリア事件」への世間の関心は深く、数十年たった今も様々な犯人の推測がなされている。

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