セルゲイ・M・エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」




1925年製作のソ連映画『戦艦ポチョムキン』は、当時27歳の才気溢れる監督、セルゲイ・ミハイロビッチ・エイゼンシュテインが、自身のモンタージュ理論を実践してつくりあげた歴史的なプロパガンダ実験作品。

この映画が後世に与えた影響は計り知れず、ことに「オデッサ階段」の有名な虐殺シーンは、ブライアン・デ・パルマ監督の佳作『アンタッチャブル』(87年)で引用されるなど、そのインパクトある映像は100年近く経った今でも古びない。

物語は1905年に起きた「ポチョムキン号事件」における水平の反乱と抑圧を題材にし、「5幕の悲劇」と呼ばれる演劇形式を踏襲して5つのパートに分け、記録映画として融合。俳優はイタリアの古典演劇であるコメディア・デラルテの方式を踏まえて、それぞれの役割の特徴を帯びている人物を、素人から選んで採用したという。


帝政ロシア時代の日露戦争末期に当たる1905年6月、黒海に停泊中の戦艦ポチョムキンでは、水兵の食卓に出す肉にウジ虫がわき、上官がそのスープを飲ませようとしたことから艦内で反乱が起きる。艦長を始め将校たちはそれを弾圧し、反乱兵を銃殺しようとするが、蜂起はついに艦船全体へと及び、将校は逆に海へ放り捨てられる。

オデッサ軍港に入ったポチョムキン号は、マストに革命の赤旗を掲げ、同調する市民の熱狂的な支援を受ける。だがそのとき革命軍の鎮圧に向かったコサックの軍隊が、逃げ惑う市民を襲撃、高台にあるオデッサ階段から悲鳴が巻き起こる。

老人も母親も、そして幼い子供までもが犠牲になるという惨劇に、ポチョムキンの水兵は怒り震える。艦内からは「海兵隊を上陸させるべきだ」の声があがるが、政府の派遣した艦隊がオデッサ港の外に姿を現すと、ポチョムキン号には緊張が走った。

砲を構えて、相手の様子を窺うポチョムキンの水兵たち。ところが近づく艦隊が発砲してくることはなく、状況を悟ったポチョムキン号の水兵は「兄弟たちだ!」と叫び声をあげる。ポチョムキン号は艦隊に合流、双方の船から歓声が響きわたり、こうしてロシア革命の第一歩が記された。

『国民の創世』(15年)『イントレランス』(16年)などで知られる “映画の父”、デヴィッド・ウォーク・グリフィス(米)が編み出したモンタージュ技法を研究、エイゼンシュテインが独自の理論を加えて撮影・編集した。その結果、映画史に燦然と輝く記念碑的作品が誕生することになった。

内容はソビエト社会主義の単なるプロパガンダに過ぎないが、民衆の闘争のエネルギーを描く力強い映像は圧巻。白黒サイレントならではの迫力と、息をもつかせないテンポとリズム、そして流れるようなモンタージュが冴えわたる。100年後の観客にも、名も無い民衆の怒りや興奮が伝わってくる古典的名作だ。

今ではラグビー精神を示す「みんなは一人のために。一人はみんなのために」の言葉は、この映画の第5幕で使われた書き割り字幕のセリフから生まれたもの。革命期におけるヒューマニズム、同胞愛、連帯感を端的に表している。

そしてエイゼンシュテインのモンタージュ理論を代表するのが、「オデッサ階段」のシーン。コサック兵の襲撃を受け、階段で逃げ惑いながら惨殺されていく民衆たち。射たれて倒れる母親の手を離れ、赤ん坊を乗せた乳母車が階段を下り落ちる。

平和と愛情のシンボルであるはずの乳母車が、破滅へと向かって転落するシーンは、まさに民衆の悲劇と怒りを映像的に語る場面。この比喩的表現がエイゼンシュテインの特徴となっていく。ポチョムキン号は砲撃で逆襲、石像のライオンが立ち上がる3段階のカットが差し込まれ、民衆の蜂起をモンタージュ的に指し示す。

こうしたモンタージュによる隠喩的表現は、観る者の心をとらえ、強いエモーションを喚起するとともに、その意味やメッセージを映像の流れの中で伝えるという効果を生みだしている。

公開された当時は世界でセンセーションを巻き起こすも、革命・反乱などを扱うプロパガンダ映画として戦前の日本では上映が許されなかった。終戦後もアメリカ占領下の検閲に弾かれ上映禁止、そのあとも「輸入割当」の壁に阻まれ、幻の映画となった。日本の映画ファンがようやくこの作品を目にするのは、完成後34年を経た1959年のことである。

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