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《 サッカー人物伝 》 ベルント・シュスター

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「金髪の天使」 ベルント・シュスター ( 西ドイツ )

華麗なボールコントロールとダイナミックなドリブルで好機を演出、西ドイツには珍しいファンタジスタタイプのプレーヤー。ブロンドヘアーをなびかせ、巧みにボールを操る華麗なスタイルから「金髪の天使」と呼ばれたのが、ベルント・シュスター( Bernd Schuster )だ。

80年の欧州選手権で彗星のように現れ、20歳の若さで攻撃の中心を担い西ドイツを2度目の優勝に導く。W杯への出場がなかったため知名度こそ劣るが、同時代に活躍したジーコプラティニと並び称された稀代のゲームーメーカー。

80年代から90年代始めにかけてスペインリーグで活躍。バルセロナ、レアル・マドリード、アトレティコ・マドリードとスペインの3大クラブでプレーし、いずれのチームでもタイトルを獲得した初の外国人選手となった。

1.FCケルンのデア・ブローネ・エンゲル

シュスターは1959年12月22日、バイエルン州のアウクスブルグで生まれた。12歳のときSVハメルシュミーデで本格的にサッカーを始め、17歳でFCアウクスブルグに入団。ユースチームでの顕著なプレーが認められ、19歳となった78年にブンデスリーガ・チャンピオンの1.FCケルン(エルステー・エフツェー・ケルン)に引き抜かれる。

当時ケルンの監督を務めていたのは、名将へネス・バイスバイラー。チームにはバイスバイラー監督によって見いだされた奥寺康彦も在籍していた。

シュスターの才能豊かなプレーを見たバイスバイラー監督は、すぐに彼を中盤のかじ取り役へ抜擢。最初のシーズンはチャンピオンズカップでベスト4入り、翌79-80シーズにはDFBポカール(ドイツ杯)の決勝に進出する。

決勝では惜しくもデュッセルドルフに敗れてしまったが、シュスターのエレガントなプレースタイルとブロンドの髪は観客の目を引き、「デア・ブローネ・エンゲル(金髪の天使)」と呼ばれる人気者となった。

欧州選手権に現れた新星

西ドイツ代表には79年5月に19歳で初招集。22日のアイルランド戦でデビューを飾った。これは当時西ドイツ代表の最年少出場記録だった。翌80年の夏にはイタリアで開催される欧州選手権のメンバーに選出。20歳の若さで大舞台のピッチに立つことになった。

欧州選手権本大会は、開催国イタリアと予選を勝ち抜いた計8チームが2組に分かれて対戦。各組1位同士が決勝を行うという形式で行われた。

シュスターはA組初戦のチェコスロバキア戦でいきなり初先発。後半60分に交代となったが、試合はルンメニゲのゴールで1-0の勝利を収める。そして続く第2戦は、宿敵オランダとの対戦だった。

開始1分にイエローカードを受けたシュスターだったが、巧みなボールコントロールと正確無比なロングパスで攻撃を牽引。その優雅な配給でクラウス・アフロスのハットトリックを演出した。

後半はオランダに追い上げられるも、3-2と逃げ切って2連勝。早くもG/L突破を決めた。第3戦の相手は格下のギリシャ。西ドイツは警告1枚のシュスターとアフロスを温存、0-0と引き分けてグループ1位を決める。

決勝の相手は、イタリア、イングランド、スペインの強豪を抑えて勝ち上がってきた伏兵ベルギー。シュスターはこの試合でも見事なゲームメークを披露、ルンメニゲ、アフロス、ホルスト・ルベッシュの攻撃陣を華麗に操った。

開始10分にシュスターが前線にクロスを送ると、ルベッツが胸トラップからのハーフボレー。鮮やかな先制点を叩き出す。後半75分にPKを与えて追いつかれるも、試合終了間際の88分、シュスターのシュートが弾かれ西ドイツがCKのチャンスを獲得する。

そしてルンメニゲの放ったCKに、後方から飛び込んだルベッツが勝ち越しゴール。数分後に試合終了の笛が吹かれ、西ドイツが2-1の勝利。2大会ぶり2度目の優勝を果たした。

最優秀選手賞(非公式)を獲得したシュスターの華麗なプレーは大会に強い印象を残し、この年のバロンドール賞でルンメニゲに続く2位に選ばれている。

年上女房、マギーの存在

若くして西ドイツのスターとなったシュスターだが、1.FCケルンではバイスバイラーの後任、ヘダーゴッド監督と衝突、レギュラーの座を外されてしまう。また首脳陣との折り合いも悪くなり、ケンカ別れのような形でクラブを退団。80年10月にスペインのバルセロナと契約する。

このバルセロナ移籍にあたって、シュスターのマネージャーとして交渉を行ったのは、79年に結婚した6歳年上の妻ギャビーだった。プレイボーイ誌でヌードを披露したこともあるギャビーは、良くも悪くも目立つ存在。世間の噂の対象となった。シュスターが1.FCケルンと決別したのは、クラブ関係者から彼女の悪口を聞かされ続け、嫌気がさしたことが要因になったと言われている。

移籍したバルセロナでは、早くもチームの司令塔として活躍、80-81シーズンのコパ・デル・レイ(国王杯)優勝に貢献する。だが翌81-82シーズンは、「ビルバオの屠殺人」ゴイゴエチュアの手荒いタックル受けて膝を負傷。手術とリハビリで公式戦17試合出場にとどまったが、UEFAカップウィナーズ・カップでは2ゴールを挙げて優勝に寄与している。

いっぽう西ドイツ代表では、妻ギャビーとのプライベートを大切にするあまり、チームメイトや監督との関係に亀裂が生まれていった。80年の欧州選手権出場に際し、選手でただ一人妻をイタリアに帯同、一緒のホテルに泊まらせるよう要求した。83年には妻の第3子出産に立ち会うため、親善試合への参加をキャンセルしてチームを離脱したことが、マスコミの話題となった。

代表選手やコーチングスタッフたちが参加する親睦パーティーにも毎回のように欠席。代表チームの集まりよりギャビーとの会食を優先する行為はサッカー協会の不興を買い、代表メンバーから外されることもあった。

82年は膝の故障の影響もあり、西ドイツが準優勝を果たしたWカップ・スペイン大会の出場を辞退。その後ユップ・デアヴァル監督と確執が生じたことから、代表への招集拒否を宣言することになる。

84年には招集拒否宣言を撤回し2年ぶりに代表へ復帰するも、2月24日の国際試合を最後に再び招集に応じなくなってしまう。

そのあと代表監督に就任したベッケンバウアー(監督ライセンスを所持していなかったため、肩書きは統括責任者)からは幾度も再復帰を要請されるが、マネージャーのギャビーは100万マルクのギャラを要求。復帰話はこじれ、結局シュスターが86年のWカップ・メキシコ大会に出場することはなかった。

バルセロナでのキャリア

82-83シーズン、バルセロナにアルゼンチンの神童ディエゴ・マラドーナが入団。それでも開幕戦でカンプノウに集まったサポーターから最も大きな歓声を浴びたのは、チームの人気者シュスターだった。

マラドーナはバルセロナに在籍した2シーズンで、左足首の負傷(ゴイゴエチュアに狙われてのもの)、乱闘騒ぎを起こしての3ヶ月間出場停止、乱れた生活によるウィルス性肝炎など、たびたびチームを長期離脱。その間、バルサの攻撃を牽引し続けたのはシュスターである。

82-83シーズンは、ウド・ラテック監督を批判し罰金を科せられる騒動を起こすが、自身2度目となるコパ・デル・レイのタイトルを獲得。マラドーナが去った84-85シーズンは、バルサの10季ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献する。

そして翌85-86シーズンは、公式戦41試合出場18ゴールとキャリアハイを記録。この年のチャンピオンズカップでも、バルサ25年ぶりとなる決勝進出に重要な役割を果たした。

スペイン・セビリアで行われた決勝は、ルーマニアのステアウア・ブカレストと対戦。バルセロナ優勢かと思えたが、相手の粘りにあい思わぬ苦戦となった。いまひとつ機能しなかったシュスターは85分に交代。これに怒り狂った彼はスタジアムを飛び出すと、そのままホテルに帰ってしまった。

試合は延長の120分を終わって0-0。PK戦ではブカレストの守護神ヘルムート・ドゥガダムが相手4人のキックを阻止する大当たり。バルセロナは25年ぶりの優勝を逃してしまう。

「エスペリアの反乱」とレアル移籍

バルセロナで確固たる地位を築いてきたシュスターだが、チャンピオンズカップ決勝のような協調性を欠く振る舞いが目立つようになり、ヌニェス会長との関係も悪化。86-87シーズンにWカップ得点王のリネカーが加入するとチームの登録者名簿から外され、1試合も出られずに1年間飼い殺しにされるという憂き目に遭う。

88年4月、バルセロナの二重契約書に端を発する税金未納問題が発覚、国税庁の査察が入る事態となった。この問題をやり過ごそうとするヌニェス会長に対し、未納税分の負担を科せられた選手たちが反発。28日にエスペリアホテルで記者会見を行い、ヌニェス会長の辞任を要求する。これがのちに「エスペリアの反乱」と呼ばれるようになった事件のいきさつである。

だが会長側はソシオ(有料会員制の運営組織)を味方につけ、反乱した選手たちを劣勢に追い込む。記者会見の2日後に行われたレアル・マドリードとのクラシコでは、カンプノウに集まったホームのサポーターから選手がブーイングを浴びる始末。バルサは崩壊寸前となった。

失地回復を図るヌニェス会長は、クラブのレジェンド、ヨハン・クライフをバルサの監督に招聘。新監督へ就任したクライフはそのカリスマ性をもってチームの刷新を断行、反乱に荷担した10人以上の選手が放出されることになった。

シュスターは「エスペリアの反乱」に加わっていなかったが、契約終了を機にバルセロナを退団。88-89シーズンにはこの前までのライバル、レアル・マドリードへ移籍する。そのタフな交渉に当たったのは、もちろん妻のギャビーだった。

当時のレアルは、ブトラゲーニョら下部組織出身者による「ラ・キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」の全盛時代。シュスターはその中にあっても司令塔の地位を確保、リーグ5連覇とコパ・デル・レイ優勝に貢献する。

スペイン3大クラブでのタイトル獲得

90-91シーズンにはアトレティコ・マドリードに移籍。中盤底のシュスターが放つ正確なロングパスは、アトレティコの攻撃を活性化。コパ・デル・レイ2連覇に大きな役割を果たし、スペイン3大クラブでタイトルを獲得した初の外国人選手となった。

83年には14年ぶりにドイツへ戻り、レバークーゼンと契約。このときクラブマネージャーを努めていたライナー・カルムンドは、契約交渉に当たった妻のギャビーを「彼女ほど手強い相手に会ったことがない。プロフェッショナルだ」と高く評価。

またギャビーは資産運営でも手腕を発揮、夫の稼ぎを有効に活用した。彼女の評判は「年下の旦那を操る悪妻」から、「サッカー界で女性の地位を向上させた先駆的存在」へと変わっていった。

レバークーゼンで好調さを維持したシュスターは、テレビ出演でアピールするなど94年W杯出場への意欲を見せるが、結局フォクツ監督に呼ばれることはなかった。そのあとメキシコ・UNAMプーマスでのプレーを最後に、97年に37歳で現役を引退する。

西ドイツ代表での実績は、25歳までの6年間で21試合出場4ゴール。82年欧州選手権での活躍が、代表唯一の輝きとなった。

引退後のシュスター

引退後は指導者の道に進み、ドイツやスペインを中心に各クラブの監督を歴任。しかしその性格が災いしてか、ほとんど1シーズン限りの短期政権に終わっている。

07-08シーズンにはレアル・マドリードの監督に就任し、名門クラブでリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。しかし選手に丸投げの指導がたたり、翌シーズンは成績が低迷。任期途中での解任となった。

11年には、30年以上連れ添ったギャビーと長い別居生活を経て離婚。翌12年には、6年前から恋人関係にあった18歳年下のエレナ・ブラスコと再婚している。

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