「 ジェイ ジェイのダンス 」 オーガスティン・オコチャ ( ナイジェリア )
驚異的な身体能力が生み出す変幻自在のプレーで、見る者を魅了したナイジェリアのスタープレーヤー。左右の足から放つ強烈なシュートに加え、得点に結びつくパスセンスにも長けた攻撃のアーティストが、オーガスティン・“ジェイ ジェイ”・オコチャ(Augustine Azuka “Jay-Jay” Okocha)だ。
並外れたテクニックとアイデアを持ち、トリッキーなドリブルで相手を幻惑。一人で状況を打開できる驚異的な攻撃能力は、敵から「マジシャン」と恐れられた。W杯は3大会連続で出場。96年のアトランタ・オリンピックでは母国を金メダル獲得に導く活躍を見せた。
その活躍の一方で天才肌にありがちな気分屋の側面を持ち、やる気が無いときにはボールを追いかけることをせず、集中力が続かないこともしばしば。観客を沸かせるその鮮やかな足技は必ずしも勝利に結びつくものではなかった。
オコチャは1973年8月14日、ナイジェリアの大都市エヌグで生まれた。オコチャの愛称となる「ジェイ ジェイ」は、サッカーを始めるきっかけとなった兄ジェームスの呼び名を受け継いだものである。
小さい頃はあり合わせで作ったボールを蹴ってのストリートサッカー三昧。空きスペースのでこぼこ地面は、オコチャのボールコントロール技を磨いていった。
その後、地元クラブのレンジャーズ・インターナショナルで本格的にサッカーを始め、17歳となった90年にトップチームデビュー。変幻自在の足技でいくつものゴールを奪い、早くも才能の輝きを見せた。
その頃イタリアで開催されたWカップ大会を観戦。それをきっかけに、優勝を果たしたドイツでのプレーを決意する。18歳になるとドイツ3部リーグ・ボルシア・ノインキルヒェンに所属する友人を尋ね、彼の紹介でクラブのトライアルを受けることになった。
オコチャの巧みなボール扱いは、30分のデモンストレーションでノインキルヒェンの監督やコーチを魅了し、更衣室に戻ったときはすでに契約書が用意されていたという。
ノインキルヒェンと契約したオコチャは、すぐに主力の座を獲得、35試合7ゴールの成績を残した。その活躍が認められ、91年12月にはブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ移籍する。
オコチャのトリッキーで華麗なボール捌きは、硬質なドイツサッカーにあって出色の見栄え。たちまちフランクフルトのサポーターを魅了した。
そのプレーが注目されることになったのは、93年8月のカールスルーエ戦。相手Pエリア内でボールを受けたオコチャは、飛び出してきたGKオリバー・カーンを変幻自在のキックフェイントで右へ左へと翻弄。前を塞ぐ3人のDFも棒立ちにさせ、一瞬空いた隙間を狙ってゴールを決める。
この得点は93-94シーズン・ブンデスリーガの「ゴール・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、20歳のオコチャはその名を広く知られるようになった。
その軽快なリズムと巧みな足技から生まれるドリブルフェイントは「オコチャ・ダンス」とも呼ばれ、フランクルトではロックのCDやミュージックビデオ(タイトルは『アイム、ジェイ ジェイ』)を発売するほどの人気者となっていく。
ナイジェリア代表には、93年5月のW杯アフリカ最終予選、アウェーのコートジボワール戦で公式戦デビュー。このデビュー戦は1-2で敗れてしまったものの、7月のアルジェリア戦では先制点となる代表初ゴールを記録、4-1の勝利に貢献する。
9月のホーム、コートジボワール戦ではオコチャがゲームメーカーとして活躍。グループ最大のライバルを4-1と下し、ナイジェリア初のWカップ出場を決定的なものにした。
94年3月にはチュニジアで開催されたアフリカ・ネイションズカップに出場。フィニディ・ジョージ、エマニュエル・アムニケ、ダニエル・アモカチ、ラシディ・イエキニら豊富なタレントを擁するナイジェリアは、圧倒的な攻撃力で大会を席巻。14年ぶり2度目のアフリカチャンピオンに輝く。
オランダ人監督ベスターホフと折り合いが悪く、G/Lでは出番の無かったオコチャだが、準決勝のコートジボワール戦、決勝のザンビア戦で重要な役割を果たして優勝に貢献。大会ベストイレブンにも選ばれている。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕、G/Lの初戦でブルガリアと対戦する。開始20分、フィニディの折り返しをイエキニが合わせて先制、43分にはイエキニのクロスからアモカチが追加点を決める。さらに54分、フィニディからの右クロスをアムニケがダイビングヘッドでダメ押し点。
ナイジェリアの奔放かつ躍動感溢れるサッカーは、ブルガリアを3-0と圧倒。バルセロナで活躍するストイチコフを引き立て役に追いやった。
第2戦はマラドーナ擁するアルゼンチンに1-2の逆転負け。マラドーナはこのあと禁止薬物服用が発覚し、ナイジェリア戦が代表最後の試合となった。第3戦はフィニディとアモカチのゴールでギリシャに2-0の勝利を収める。
ナイジェリアはグループ1位で決勝Tに勝ち上がったが、若くして代表の10番を背負うオコチャに与えられたのは、試合終盤に投入されるスーパーサブの役割だった。
トーナメントの1回戦はイタリアと対戦。ナイジェリア政府からの強い要請を受けたベスターホフ監督は、渋々ながら代表随一の人気者であるオコチャを先発起用する。
前半25分、フィニディのCKからこぼれ球をアムニケが押し込んで先制。オコチャの足に吸い付くようなボールキープとトリッキーなドリブルは中盤を支配した。しかし彼のボールを持ちすぎるクセは、攻撃のスピードを鈍らせる要因ともなる。
堅く守りながら反撃の機会を窺うイタリアだが、投入されたばかりのゾラが75分に一発退場。劣勢となったアズーリは敗退の瀬戸際に追い込まれた。
だが試合終了直前の88分、ロベルト・バッジオが起死回生の同点弾。延長に入って流れを失ったナイジェリアは、101分にバッジオのPKを許して1-2の敗戦。欧州で活躍するタレントを多く擁しながら、経験不足を露呈してしまった。
それでもタレント軍団ナイジェリアの躍動は強い印象を残し、「スーパーイーグルス」の愛称が世界に認識されるきっかけとなった。
96年7月にはアトランタ・オリンピックに出場。オコチャ、ヌワンコ・カヌー、サンデー・オリセー、ダリボ・ウェストらの若いタレントに加え、アモカチ、アムニケら3人のフル代表組がO/A枠で参加。メダル獲得への体制を整えた。
G/Lは3チームが勝ち点6で並ぶ激戦となったが、得失点差で日本を上回ったナイジェリアがブラジルに続く2位となり、決勝トーナメントに進出。オコチャが日本戦で挙げた2点目のPKが、G/L突破の明暗を分けることになった。
準々決勝はメキシコと対戦。開始20分にオコチャが先制点を挙げると、終盤の84分にはババヤロが追加点。粘るメキシコを振り切って準決勝に進んだ。
準決勝の相手はG/Lでも戦ったブラジル。開始2分、フラビオ・コンセイソンのFKがDFに当たって失点。先制を許したナイジェリアだが、その18分後、ババヤロの放ったクロスがR・カルロスのオウンゴール誘い同点とする。
しかし28分にロナウドが打ったシュートの跳ね返りをベベトーに押し込まれ、再びリードを奪われると、37分にはF・コンセイソンにミドルシュートを決められ、前半は2点をリードされて折り返す。
後半ギアを上げたナイジェリアは63分にPKのチャンスを得るが、オコチャのキックはGKジダに止められ反撃の気運は削がれたかに思えた。
だが73分にイクペバのゴールで1点差、ロスタイムにオコチャのロングスローからカヌーのゴールが生まれ、ナイジェリアは土壇場で追いつく。そして延長の94分、カヌーが鋭いシュートを決めゴールデンゴール、激戦となった試合に決着をつけた。
決勝はアルゼンチンとの戦い。開始3分、オルテガの縦パスからクレスポが抜け出し、折り返しをC・ロペスに決められまたも先制を許す。だが28分にはババヤロのジャンプヘッドで同点、1-1で前半を折り返した。
50分、クレスポのパスから抜け出したオルテガをウェストが倒してPK。これをクレスポに決められ再び1点のビハインドとなる。しかしここから攻勢を強めたナイジェリア、2度のチャンスを逃したあとの74分に、アモカチのループシュートで2-2の同点とする。
さらに押し込むナイジェリアは怒濤の攻撃、ロスタイム直前の90分にオフサイドラインをかいくぐったアムニケが決勝ゴール。若き「スーパーイーグルス」は、ついにアフリカ勢初となる金メダルを手にした。
94年にユップ・ハインケスがフランクフルトの監督に就任すると、彼の厳格な指導に選手たちは不満を溜めていった。そして94年12月、監督から課せられたハードなトレーニングに、オコチャら3人のスター選手が反発。数日後に控えたハンブルグ戦への出場を拒否する。
クラブはボイコットをした3選手に、無期限の出場停止処分を下した。チーム1の人気者だったオコチャを除く2人の選手は、このあと他クラブへ放出されている。
ハインケス監督は1シーズン限りでの退任となったが、この頃からオコチャとクラブとの間にすきま風が吹き始め、アトランタ五輪が終了した96年の夏に、誘いを受けたトルコのフェネルバフチェへ移籍する。
フェネルバフチェに移籍したオコチャは、シュペルリグ(トルコスーパーリーグ)で大爆発。96-97シーズンは33試合16ゴール、97-98シーズンは30試合14ゴールとキャリア最良の時期を過ごす。
96-97シーズンのチャンピオンズリーグでは、名門マンチェスター・ユナイテッドを敵地で撃破する快挙。その人気は首都イスタンブールでも絶頂に達し「オコチャ・マニア」と呼ばれる熱狂的ファンを生む。国の英雄となったオコチャはトルコ国籍を取得、「モハメド・ヤヴス」の名を与えられた。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。ボラ・ミルティノビッチ監督に率いられたナイジェリアは注目チームのひとつと見られていた。
G/L初戦はスペインと対戦。前半は互いに1点ずつを取り合い、後半に入った47分、ラウルのボレーシュートでリードを奪われてしまう。69分には切り札のイエキニを投入、そこから流れが変わり、73分に同点とする。
そしてその5分後、相手のクリアボールを拾ったオリセーが地を這う弾丸シュート。見事26m先のゴールへ突き刺し、鮮やかな逆転勝利を飾った。
第2戦はブルガリアとの試合。オコチャは切れ味鋭いフェイントと、逆サイドへの大きな展開で攻撃をリード。前半26分にはオコチャの起点からイクペバの決勝点が生まれ、4年前の雪辱を期すブルガリアを返り討ちにした。
2連勝でG/L突破を確実にしたナイジェリアは、最終節のパラグアイ戦でオコチャら主力数人を温存。試合は1-3と敗れたが、グループ1位での勝ち上がりとなった。
トーナメントの1回戦はデンマークと対戦。しかしラウドルップ兄弟を中心とした攻撃の前に1-4の大敗を喫し、2大会連続のベスト16に留まってしまった。焦りから組織プレーを忘れ、個人技に走ったナイジェリアサッカーの限界だった。
Wカップ終了後、フランスの名門パリ・サンジェルマンに移籍。ブラジル代表レオナルドとライーの抜けた後釜として、パリSGはWカップで活躍を見せたオコチャに白羽の矢を立てたのだ。
98年8月のボルドー戦でデヴィジョン・アン(現リーグ・アン)デビュー。後半76分に途中出場すると、2人のDFをドリブルで抜いての25mシュート。衝撃のデビューゴールを叩き込んだ。
しかしオコチャの加入は必ずしもチーム力の向上に繋がらず、在籍した4シーズンで大きなタイトルを手中にできなかった。01-02シーズンにはロナウジーニョが加入するも、二人のアーティスト共演は機能しないまま終わってしまう。
02年5月にパリSGとの4年契約が終了。オコチャは背番号10をロナウジーニョに譲り渡し、活躍の舞台をプレミアリーグのボルトン・ワンダラーズに移した。
02年6月、Wカップ・日韓大会が開幕、オコチャはキャプテンマークを巻いて3度目の大舞台に臨んだ。しかしナイジェリアが入ったグループは、アルゼンチン、イングランド、スウェーデンの強豪が同居する「死のF組」だった。
大会前の内紛もあり、チームのまとまりを欠くナイジェリアは2敗1分けの最下位。オコチャはキャプテンとして奮闘したものの、結果を残せず大会を去って行った。
06年のW杯はアフリカ予選で敗退、オコチャはこの予選を最後に代表から退いた。代表歴の14年で73試合に出場、14ゴールを記録している。
ボルトンに移籍した02-03シーズン、31試合に出場して7ゴールを記録。下位に低迷するチームを降格の危機から救った。翌03-04シーズンはチームキャプテンに就任。プレミアリーグ8位浮上とリーグカップ優勝に貢献する。
そのあとカタールのクラブを経て、07-08シーズンにはEFLチャンピオンシップ(英国2部)のハル・シティーでプレー。シーズン終了後に34歳で現役を引退する。
12年にインドで現役復帰を果たすが、1ヶ月後に再び引退。そのあとナイジェリアサッカー協会の技術委員や地方協会の会長を務めるも、17年には脱税容疑で告訴される騒動を起こしている。
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