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《 サッカー人物伝 》 エル = ハッジ・ディウフ

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「 シリアル・キラーと呼ばれた悪童」 エル = ハッジ・ディウフ ( セネガル )

俊足を活かしたアグレッシブなドルブル突破でチャンスを作り、ゴールを狙いながら味方を使う術にも長けたFW。チームを動かす存在感とプレースタイルから「セネガルのクライフ」の異名を取ったのが、エル = ハッジ・ディウフ( El – Hadji Ousseynou Diouf )だ。

02年日韓W杯の開幕戦では、初出場セネガルが前大会王者フランスを下すという世紀の大金星を演出。ディウフにゴールこそ生まれなかったが、攻撃の先鋒としてチームを牽引。ベスト8進出の立役者となって世界に名を轟かせた。

しかし生まれつきのトラブルメーカーとして、行く先々で衝突や騒動を起こしては英仏の各クラブを転々。粗野で暴力的な言動を繰り返し、「シリアル・キラー(連続殺人鬼)」と呼ばれる厄介者として知られるようになった。

フランスから始まったキャリア

ディウフは1981年1月15日にセネガルの首都ダカールで生まれ、そのあと世界遺産にも登録されている同国最大の都市サン・ルイで育った。

父親はセネガル代表経験もある元サッカー選手だったが、決して暮らしは豊かではなく、暴力と犯罪が日常だったスラム街の環境で少年期を過ごす。

そんな環境でも10歳の頃からサッカーに打ち込み始め、地元クラブASCカーニ・ギーでプレー。最初はGKを努めていたが、すぐにFWへ転向する。14歳の時には4年に一度開催されるユース大会に出場すると、MVPの活躍で注目を集めた。

そのプレーがフランス人スカウトの目に止まり、RCランス育成組織のトライアウトを受けるため1年後に渡仏。しかし12日間行われたテスト期間で実力を出し切れずに、不合格となってしまう。

それでもディウフはフランスに留まり、自分を採ってくれるクラブを探してFCソショーへの入団を果たす。当時ソショーはデヴィジョン・アン(現リーグ・アン)に所属していたものの、1部と2部を行ったり来たりの弱小クラブだった。

ソショーのユースで力をつけたディウフは、17歳となった98年にトップチームデビュー。デビューシーズンは15試合に出場してノーゴールに終わるも、将来性のあるプレーを見せた。

悪童人生の始まり

その一方で早くも悪童ぶりを発揮。監督やコーチにことごとく反発し、プロ契約により手にしたお金で夜遊び三昧。そんな問題児の扱いに首脳陣は頭を抱え、翌99-00シーズンには中堅クラブ、スタッド・レンヌへの売却となった。

レンヌではリーグ戦28試合に出場するも、記録したのは僅か1ゴール。そしてシーズンが大詰めを迎えた00年3月、無免許運転による交通事故で、同乗の女性を負傷させるという不祥事を起こしてしまう。

まだ未成年という事を考慮して軽微な罰処分に収まったが、入団時からの悪童ぶりに愛想を尽かしたレンヌは、ディウフをレンタルでRCランスへ放出する。

だが移籍したランスでも結果が出せず、苛立ちを募らせたディウフは主審に食って掛かってレッドカード。1ヶ月の出場停止処分を受けただけでなく、リーグから罰金を課せられてしまった。

しかしこれがいい教訓となったのか、シーズン後半戦は見違えるような活躍。8ゴールを挙げてチームのトップスコアラーとなり、完全移籍を勝ち取った。翌01-02シーズンは10ゴールと幾つものアシストを記録し、リーグ2位とCL出場権獲得に貢献。ようやくトッププレーヤーの一人と認められるようになる。

アタッカーの覚醒

セネガル代表には00年4月に19歳で初招集。23日のベナン戦でデビューを果たし、同年6月から始まったW杯アフリカ予選にも参加する。

セネガルはかつての宗主国フランスとの結びつきが強く、ディビジョン・アンに多くの選手を送るなどタレント力も高かったが、代表ではこれといった実績を残していなかった。

エジプト、モロッコ、アルジェリアらの難敵が揃ったW杯グループ予選も、第1戦から3試合連続引き分けて、チームで記録したのは僅か1点という低調な内容。その流れを一変させたのが、00年10月に就任したフランス人監督、ブルーノ・メツだった。

メツ監督は、組織戦術を構築しながらも選手の個性を尊重。高い個人能力にチームワークを融合させ、それまでの粗いサッカーを改善した。そして選手とは壁を作らないメツ監督の指導の下で、ディウフは覚醒していく。

01年3月のナミビア戦、ディウフは前半24分に代表初ゴールを記録。さらに44分、52分と立て続けに得点を挙げハットトリック、4-0の勝利に貢献する。4月のアルジェリア戦でも連続ハットトリックを達成、強敵を3-0の圧勝で退けた。

このあとの試合もディウフが大活躍。セネガルは予選を1位で突破し、同国史上初となるW杯出場を決める。以前は独りよがりのプレーが目立っていたディウフだが、チームプレーを覚えて急成長。予選で8得点を挙げてW杯初出場の原動力となり、この年のアフリカ最優秀選手に選ばれた。

02年1月にはマリで開催されたアフリカネイションズカップに出場。セネガルはG/Lを1位で突破し、準々決勝はディウフのゴールなどでコンゴに2-0の勝利。準決勝では強豪ナイジェリアを延長戦で2-1と下し、決勝に進んだ。

決勝はカメルーンと0-0の延長戦。勝負はPK戦に持ち込まれたが、ディウフとキャプテンのシセ(現セネガル代表監督)ら3人が外してしまい、初のメジャータイトル獲得はならなかった。

世紀のジャイアントキリング

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。ソウル・ワールドカップ競技場で行われたオープニングゲームで、セネガルは大会連覇を狙うフランスと戦った。フランスは司令塔ジダンを直前の怪我で欠いていたが、2年前のユーロも制した王者の優位は揺るがないかに見えた。

そこでセネガルは、9人による強固な守備ブロックを築いてフランスのパス回しに対抗。数人で囲み素早い寄せでボールを奪うと、ワントップのディウフを走らせカウンターを仕掛けた。

開始5分、右サイドを破ったディウフがデサイーをぶっちぎりセンタリング。14分にもその圧でルブフのミスを誘った。そこからフランスDFは、もはやファールでしか快速FWを止められなくなる。かつて欧州随一の堅守を誇った世界王者も、高齢化による衰えが現れていたのだ。

前半30分、ディウフがカウンターから左サイドを疾走。ルブフを抜き去り中央へ折り返すと、走り込んだB・ディオプが倒れ込みながらも先制ゴールを押し入れた。

ボール支配率とシュート数で上回るフランスだが、ジダンの不在で攻撃にリズムが生まれず、トレゼゲのシュートは右ポストに、アンリのシュートはバーに弾かれ無得点。ついにセネガルが虎の子の1点を守り切って、ジャイアントキリングを成し遂げた。

セネガルの快進撃

第2戦の相手は北欧の雄デンマーク。前半16分、トマソンが自ら得たPKを決めてデンマークが先制。後半セネガルはアンリ・カマラとスレイマン・カマラを投入、FWの枚数を増やして攻勢を強めると、52分にはカウンターからディアオの同点弾が生まれ、引き分けに持ち込む。

第3戦は南米の古豪ウルグアイとの対戦。前半20分、ディウフのスピードが相手GKのファールを誘いPK、これをファティガが沈めてセネガルが先制する。さらに26分、38分とディオプが続けて得点を決め、前半を折り返して3-0と大きくリードする。

しかしこれで油断してしまったのか、後半開始直後に失点。69分にはフォルランの鮮やかなシュートで1点差とされてしまう。終了直前の88分にレコバのPKで追いつかれ3-3の引き分け、詰めの甘さを露呈してしまった。

それでも大会無得点に終わったフランスの体たらくもあり、セネガルはデンマークに続くグループ2位を確保。初出場でベスト16に進んだ。

トーナメントの1回戦はスウェーデンとの試合。開始11分にラーションの先制ヘッドを許すが、37分にH・カマラのゴールで同点。延長に入った104分、再びH・カマラがシュートを叩き込んでゴールデンゴール。セネガルの快進撃は続いた。

準々決勝は、同じく大会で台風の目となったトルコとの戦い。しかし連戦の疲れからかそれまでの組織力が陰を潜め、個人技に走るセネガルの攻撃は空回りしていった。

試合は0-0のまま延長に突入。その直後の94分、ユミト・ダバラのクロスからイルハン・マンスズがゴールデンゴール。トルコ劇的勝利の前に、セネガルはアフリカ勢初のベスト4を逃してしまった。

それでもセネガル快進撃の立役者となったディウフは、大会ベストプレーヤーの23人に選ばれ、アフリカ最優秀選手賞にも2年連続で輝いている。

リバプールからボルトンへ

Wカップ大会終了後、イングランドの名門リバプールに移籍。入団当初こそ良い働きを見せたが、やがてそのトラブルメーカー体質を露にしていく。

03年3月、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)の準々決勝でスコットランドのセルティックと対戦。敵地パークヘッドでの第1レグは1-1の引き分けとなったが、ボールを追っかけスタンドに突っ込んだディウフは、セルティックのサポーターに囲まれ唾吐き(一説には痰とも)行為。ディウフには2試合の出場停止と罰金処分が科せられた。

結局02-03シーズンは、公式戦46試合で僅か6ゴールと期待を大きく裏切る成績。それでも己を改めることのないディウフ、翌03-04シーズンは33試合に出場して1点も挙げられないばかりか、13枚のイエローカードと1枚のレッドカードでさらに評判を落としていく。

またいつものように監督やチームメイトたちと軋轢を起こし、主将のスティーブン・ジェラードとはハーフタイムで罵り合う始末。のちにジェラードは、「人生で出会った最低の選手」と述懐している。

トラブルだらけで結果を残せなかったディウフは、03-04シーズン終了後にボルトン・ワンダラーズへ放出となった。

ボルトンでは豪放磊落なサム・アラダイス監督のもと再生。04-05シーズンはランス時代の10ゴールに続く9得点を記録し、チームのプレミアリーグ最高成績となる6位に貢献。これによりボルトンは初のUEFAカップ出場権を得た。

05年9月にホームで行われたUEFAカップ1回戦では、ボルトンの大会第1号ゴールを記録。2-1の勝利に貢献し、地元サポーターから大きな歓声を受けている。

変わらぬトラブルメーカーぶり

セネガル代表では04年のアフリカネイションズカップでベスト8、06年の同大会でベスト4と好成績を収めるも、W杯は予選敗退を喫して2大会連続の出場はならなかった。

06年秋に代表キャプテンを任されるが、ボールボーイへの暴言、11歳少年への唾吐き、妻への暴行容疑による逮捕(のち不起訴)など、素行の悪さは相変わらず。07年にはセネガルサッカー協会の腐敗体質を理由に、代表からの引退を表明する。

そのあと国民からの再考嘆願を受け、08年のアフリカネイションズカップで代表復帰。しかしセネガルは2敗1分けの成績でG/L敗退。W杯予選でも低迷し、前回に続いて本大会出場を逃してしまった。

11年7月にはラジオ番組で、アフリカサッカー協会の金権体質を「モンキービジネス」と批判。このあとディウフは懲罰委員会の審問出席を拒否し、5年間の代表活動禁止処分を申し渡される。翌年この制裁処置は解かれるも、ディウフが再び代表でプレーをすることはなかった。代表歴9年で69試合に出陽、22ゴールを記録している。

キャリアの晩年

ボルトンではキャリア最長となる4シーズンを過ごし、08年7月にサンダーランドへ移籍。しかしこれといった成績を残せず、09年1月にはブラックバーン・ロジャーズに移った。

そのあとスコットランドのレンジャーズへのローン移籍を経て、11年10月に英国下部リーグのドンカスター・ロバーズと短期契約。その半年後の12年4月、マンチェスターの会員制バーで暴行事件を起こし、33歳の男性を負傷させたとして5人の仲間と共に逮捕され1週間の拘留。7月の契約終了を持ってドンカスターからもフリーとなる。

翌8月、2部リーグに所属するリーズ・ユナイテッドのトライアルを受けテスト生入団。リーグ戦36試合で5ゴールを挙げて正式契約を勝ち取るが、数々の問題行為でニール・ウォーノック監督から「下水道のネズミ以下だ」の酷評を浴びたディウフは、翌13-14シーズンには出番を失ってしまう。

14年11月にはマレーシアリーグのサバFAと1年契約を結ぶが、またもや問題を起こして15年7月に退団。明確な意思表明はなかったが、当時34歳だったディウフはこれが事実上の現役引退となった。

引退後はスポーツメディアやスポーツ施設の運営を行う一方、将来のセネガル大統領を目指して政治家転身への準備を進めているという。

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