スポンサーリンク
スポンサーリンク

《 サッカー人物伝 》 マティアス・ザマー

スポンサーリンク
スポンサーリンク

「 疾風怒濤のフォアリベロ 」 マティアス・ザマー ( ドイツ )

強靱なフィジカルと豊富な運動力で守備を安定させ、疾風怒濤の攻撃参加で得点機に絡んだフォアリベロ。その攻守におけるオールラウンドな能力で、90年代ドイツの代表的プレーヤーとなったのが、マティアス・ザマー( Matthias Sammer )だ。

90年に東西ドイツが統一されると、東ドイツ出身の選手として初めて統一代表チームに選出。94年のアメリカW杯に初出場を果たし、96年の欧州選手権ではリベロとしてチームを統率。攻守への大きな働きで優勝の立役者となった。

ボルシア・ドルトムントでチームをブンデスリーガ連覇に導き、代表での活躍と合わせてバロンドール賞を受賞。96-97シーズンの欧州チャンピオンズリーグ決勝では、守備の要としてユベントスの攻撃を封じ、クラブ初となるビッグイアー獲得に貢献している。

東の若武者

マティアス・ザマーは1967年9月5日、チェコ国境に近いドレスデンの町に生まれた。父クラウスは東ドイツの古豪ディナモ・ドレスデンでプレーしたサッカー選手。息子マティアスは9歳でドレスデンのジュニアチーム加わり、本格的なサッカーのキャリアを開始する。

恵まれたフィジカルでFWとして頭角を現したザマーは、18歳となった85年、トップチームの監督を務めていた父に引き上げられオーバーリーガー(東ドイツ1部リーグ)デビュー。若きFWは、持ち前の闘争心あふれるプレーで1年目から18試合8ゴールの好成績を残した。

86-87シーズン、エドゥアルド・ガイヤー新監督の指導により左ウィングへコンバート。ここでレギュラーとしての地位を確立すると、87-88シーズンは中盤でゲームメーカーの役割も担った。

88-89シーズン、ドレスデンは11年ぶりのリーグ優勝。UEFAカップ(現EL)ではベスト4入りを果たした。翌89-90シーズンはリーグ連覇と東ドイツカップの二冠獲得を達成。主力としてチームを牽引したザマーは、西ドイツのクラブから注目される存在となっていた。

東ドイツ代表でのキャリア

有望選手として早くからその名を知られていたザマーは、東ドイツU-16代表からU-23代表までのアンダーカテゴリーすべてに選出。86年のU-18欧州選手権では、準決勝で西ドイツを1-0と破り決勝へ進出。3-1と勝利した決勝のイタリア戦では、ザマーが決勝点を挙げ優勝に貢献した。

翌87年にはチリ開催の世界ユース選手権(現、U-20ワールドカップ)に出場。準決勝でボバンシュケル、プロシネツキ、ミヤトビッチらを擁するユーゴスラビアに2-1と敗れてしまったが、3位決定戦で地元のチリをPK戦で下すという殊勲。ザマーはチーム最多の4得点を挙げた。

東ドイツのフル代表には86年の11月に19歳で初選出。ユーロ予選のフランス戦で先発による初出場を果たした。その後ソウル五輪出場を目指すチームに加わるも、東ドイツは欧州予選敗退。88年にフル代表へ戻ったザマーは、8月31日のギリシャ戦で初ゴールを記録する。

そこからフル代表のレギュラーに定着し、89年から始まったW杯欧州予選では2ゴールを記録。しかし東ドイツはグループ4位に沈みあえなく敗退した。

89年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌90年に東西ドイツの統一が決定。9月12日には東ドイツ代表最後の親善試合ベルギー戦が行なわれ、ザマーはダブルヘッダーとなった両方のゲームで得点を決めて有終の美を飾った。フル代表デビューからの5年間で23試合に出場、6得点を記録している。

飛躍の時期

東西統一が決まると、オーバーリーガーは西ドイツのブンデスリーガに吸収併合されることになり、旧共産圏のトップ選手たちは西側のクラブに次々と引き抜かれていった。

ザマーは90-91シーズンにブンデスリーガのシュツットガルトへ移籍。ブンデスの1年目から30試合11ゴールと活躍し、翌91-92シーズンも33試合9ゴールと安定した働きを見せ、クラブのリーグ初優勝に貢献。ザマーは中盤に君臨し、DFギド・ブッフバルトの堅い守備に支えられ、果敢な攻め上がりからの強烈なミドルシュートで相手ゴールを脅かした。

その活躍はイタリア名門クラブの関心を引き、92-93シーズンはセリエAのインテル・ミラノへ移籍。インテルは88-89シーズンにマテウスクリンスマン、ブレーメの「ドイツ・トライアングル」を擁して9年ぶりのスクデット獲得を果たしており、ザマーへの期待は高かった。

しかしイタリアのシステマティックな守備戦術は、前線に飛び出しての状況打開を持ち味とする彼のプレースタイルに合わず、ザマーはフラストレーションを募らせていく。

ユベントス戦でゴールを決めるなど11試合4得点の成績を残すが、熱狂的なイタリアのファンや習慣の違いにも馴染めず、たった3ヶ月での退団を決意。93年1月にドイツへ戻り、契約したボルシア・ドルトムントでの復権を図る。

移籍したドルトムントでは、シーズン後半の17試合に出場して10ゴールを記録。伸び伸びとしたプレーを取り戻し、チームの優勝争いに大きな役割を果たした。

翌93-94シーズン、ヒッツヘルド監督の要請によりリベロへとポジションを移行。すると最初は緊急措置だったこの配置が当たり、攻守に高い適応力を見せて活躍。ハードワークを厭わない働きと強靱なフィジカルで、ピッチを縦横無尽に駆け回った。

統一ドイツ代表

90年10月に東西ドイツが統一され、新生となったドイツ代表チームが誕生。実質的には旧西ドイツ代表で構成されたチームだったが、ザマーは東ドイツ出身の選手として唯一選出。12月のスイス戦でドイツ代表デビューを飾る。

92年6月、スウェーデンで開催されたユーロ92に出場。ザマーにとって初の代表メジャー大会だった。中盤下がり目の位置に配され、ドイツ3大会ぶりの決勝進出に貢献するも、伏兵デンマークに0-2と敗れて準優勝。統一ドイツ初のビッグタイトル獲得はお預けとなった。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。代表復帰したローター・マテウスがリベロを務めたため、ザマーは中盤底でアンドレアス・メラーとともにゲームメークを担当する。

G/Lを順当に1位で勝ち上がり、トーナメント1回戦ではベルギーを3-2と下して準々決勝に進む。連日の猛暑でベテランを主体としたドイツチームの動きは鈍かったが、ザマーは驚異的なスタミナで随所に顔を出して奮闘。停滞しがちなチームに推進力を与えた。

しかしベルギー戦でザマーが負傷し、準々決勝のブルガリア戦は欠場。代わって33歳のブッフバルトが出場した。試合は後半47分にマテウスのPKでドイツが先制。しかし75分、ブッフバルトがストイチコフを倒してFKのチャンスを与えると、ストイチコフ自身に決められて同点。その3分後にはレチコフの決勝弾を許し、1-2と思わぬ逆転負けを喫してしまった。

ユーロ96優勝の立役者

96年6月、イングランド開催のユーロ96に出場。G/Lの初戦はネドベド、ポボルスキー、ベルガーら若いタレントが躍動するチェコと対戦した。開始14分、守備の要であるユルゲン・コーラーが負傷退場。ザマーは彼に代わってDF陣を統率し、メラーの得点などで2-0と勝利する。

続くロシア戦はザマーが先制弾、そのあとクリンスマンが2点を決め3-0の快勝を収める。これでグループ勝ち抜けを決め、最終節はイタリアと0-0の引き分け。善戦を見せたチェコと共にノックアウトステージに進んだ。

準々決勝はボバン、シュケルを擁した新興クロアチアと対戦。ドイツは前半20分にクリスマンのPKで先制。しかし39分に負傷したクリンスマンが退場を余儀なくされた。後半開始間もない51分、シュケルが相手のパスミスをつきゴール、1-1の同点となる。だが59分、右からのクロスにザマーが飛び込み決勝弾。ドイツが激戦を制して準決勝に勝ち上がった。

準決勝はウェンブリー・スタジアムで地元イングランドとの戦い。開始3分、ポール・ガスコインの左CKをトニー・アダムスがヘッドでそらし、それをアラン・シアラーが頭で押し込みイングランドが先制。しかし16分、負傷のクリンスマンに代わって出場したクンツが、ヘルマーからのパスで同点弾を決める。

後半はザマーを中心に守備を固め、延長120分を戦って1-1のまま終了。PK戦はそれぞれ5人全員が決めてサドンデスとなるが、イングランドの6人目を守護神ケプケがストップ。最後にメラーが決めてついにドイツが決勝へ進出した。

決勝の相手は、スピードあふれるサッカーで大会に旋風を起こしたチェコ。ドイツはクリンスマンが戦線に復帰するも、メラーが負傷欠場となった。0-0で折り返した後半の59分、ザマーがスピードでゴールに迫るポボルスキーを倒してPKを献上。これをベルガーに決められリードを許してしまう。

劣勢となったドイツは69分にオリバー・ビアホフを投入。その4分後、FKのチャンスからビアホフが高い打点での同点ゴールを叩き込む。決勝は延長戦に突入。その延長前半の95分、ビアホフの放ったシュートがGKの手をかすめてネットを揺らし、ゴールデンゴールによる決着。西ドイツの2回を含めて3度目となる優勝の立役者となったザマーは、大会MVPに選ばれた。

バロンドール受賞

ヒッツヘルド監督のもと、90年代前半から徐々に力をつけていったドルトムント。イタリアでプレーしていたザマーを始め、メラー、コーラー、シュテファン・ロイター、カール=ハインツ・リードレら、ドイツ代表級の選手を呼び戻して補強を進める。

他にもスイスのステファン・シャプイサ、ポルトガルのパウロ・ソウザ、ブラジルのジュリオ・セザールなどを加え、分厚い選手層による常勝チームが出来上がっていった。

94-95シーズン、ザマーはDFラインの前に位置するフォアリベロとして攻守を牽引。ドルトムントをブンデスリーガ初優勝に導き、ドイツ年間最優秀選手賞を受賞する。

翌95-96シーズンは圧倒的強さでリーグを2連覇、ボルシア・メンヘングラッドバッハとのスーパーカップも制す。チャンピオンズリーグでは初のベスト8入りを果たし、ドルトムントの中心的役割を果たしたザマーは、代表での活躍と合わせてバロンドール賞に輝いた。

96-97シーズンはリーグ3連覇を逃すも、CLではプレミア最強王者のマンチェスター・ユナイテッドを破るという快挙で決勝へ進出。決勝で前年チャンピオンのユベントスと優勝を争うことになり、ドルトムントは挑戦者として大舞台に臨んだ。

試合は序盤からユベントスに主導権を握られるも、29分にCKの流れからリードレの先制点が生まれる。さらにその5分後には、またもリードレがCKを頭で決めて2点目。圧倒的不利と見られていたドルトムントが、2点をリードして前半を折り返す思いがけない展開となった。

戦況の打開を図るユベントスは、故障でベンチスタートとなったデル・ピエロを後半開始から投入。その65分、ボクシッチからのクロスにデル・ピエロがヒールで合わせて1点差。反撃を受けたドルトムントは、70分に19歳の新星ラース・リッケンを投入。するとそのリッケンが、ファーストタッチでGKの頭上を越えるループシュート。出場わずか16秒で貴重な3点目を挙げた。

こうしてドルトムントが3-1と勝利し、クラブ初となるビッグイアーを獲得。膝に故障を抱えていたザマーは守備へ専念し、司令塔ジダンに決定的な仕事をさせなかった。

引退後のキャリア

こうした数々の栄光に輝きながら、20代後半から膝の負傷に苦しむようになり、何度も手術を繰り返してパフォーマンスは低下。そして97年10月に受けた手術で悪性の細菌に感染し、選手生命どころか命の危険にも晒される事態となってしまう。

どうにか一命は取り留め、98年W杯出場を目指してリハビリの日々を送るも、完全復活を果たせなかった。結局2シーズンをほとんどプレーすることなく、99年に31歳の若さで現役を引退。ドイツ代表では7年間で51試合に出場、6ゴールの記録を残した。

引退後は指導者の道へ進み、2000年7月にドルトムントの監督に就任。2年目の01-02シーズンにはリーグ制覇を果たし、ブンデスリーガ史上最年少(34歳)の優勝監督となった。

そのあとシュツットガルトの監督を経て、06年4月にドイツサッカー協会のテクニカルディレクター(技術委員長)に就任。育成から代表強化策の見直しまで主導的な役割を果たし、14年W杯優勝の成果に繋げた。

12年7月にはバイエルン・ミュンヘンのスポーツディレクターに就任。グアルディオラ監督の招聘に成功するなど手腕を発揮するも、16年に軽い脳卒中を患って役職を辞任。現在はテレビコメンテーターとして活動するほか、ドルトムントの顧問を務めている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました