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イビチャ・オシム氏 死去

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名将の急死

元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が、5月1日にオーストリア・グラーツの自宅で急死。かつて指揮を執ったオーストリア1部のシュトゥルム・グラーツから発表された。死因は不明とのこと、6日に81歳の誕生日を迎える直前の訃報だった。

ユーゴスラビア代表を率いてイタリアW杯に出場したときの中心メンバー、ドラガン・ストイコビッチさん(現セルビア代表監督)は、セルビアサッカー協会の公式サイトで「私のキャリアに深い刻印を残した。知的で鋭い勘を持つ戦術家だったことは忘れる事はないだろう」と追悼の言葉を寄せた。

そして06年に日本サッカー協会会長としてオシム氏を代表監督へ招聘した川淵三郎さんからは、「失言で代表監督を引き受けてくれなくなるかと心配したが、オシムさんは咎めもせず引き受けてくれた」との思い出が語られている。

また “ポリバレント” を体現したオシムチルドレンの代表格、阿部勇樹さんは、SNSで「今の自分があるのはオシム監督の指導のおかげです」のコメントを載せた。

選手時代のキャリア

オシムさんは1941年生まれ、当時ユーゴスラビア連邦だったボスニア・ヘルツゴビナの首都サラエボの出身で、ドイツ系の血筋を引いていた。

13歳で地元FKジェレズニチャルのユースチームに入団、18歳となった59年にトップリーグデビューを果たし、攻撃的選手として活躍。そのかたわら名門サラエボ大学で数学や物理学を学び、優秀な成績を収めた。

64年にはユーゴスラビア代表として東京オリンピックに参加し、4ゴールを記録。5~6位決定戦では地元の日本と対戦して、2点を挙げて6-1の快勝に貢献。このとき、日本唯一の得点を挙げた釜本邦茂さんと共にFWを務めていたのが川淵さん。42年後にオシム氏と再会した川淵さんは、「長身で非常に上手いCFがいたのを覚えている」と当時の事を振り返っている。

68年にはイタリアで開催された欧州選手権に出場し、MFとしてユーゴスラビアの準優勝に貢献。イタリアとの決勝戦は負傷で欠場となったが、エースのドラガン・ジャイッチとともに大会ベストイレブンに選ばれた。

監督としての活躍

78年にフランスのストラスブールで現役を引退、翌年には古巣ジェレズニチャルの監督に就任し、86年までにユーゴリーグ準優勝2回、ユーゴカップ準優勝1回、UEFAカップ(現EL)ベスト4の成績を残す。82年からはユーゴ代表のアシスタントコーチを務め、84年のロサンゼルス五輪に参加。銅メダルを獲得している。

86年にユーゴスラビア代表監督へ就任。当時のユーゴはストイコビッチ、スシッチ、サビチェビッチと3人のファンタジスタを擁するタレント豊富なチームだった。だがオシム監督は組織プレーを不得手としたサビチェビッチを先発から外し、「水を運ぶ選手」であるブルノビッチを重用。90年W杯イタリア大会出場を果たす。

W杯の準々決勝では前回優勝のアルゼンチンと対戦。前半の30分にマラドーナをマークしたDFサバナゾビッチが警告2枚で退場するという危機に陥りながら、オシム監督は守備固めをせず積極的な選手交代策でチームを活性化。数的劣勢の中で互角以上の戦いを繰り広げる。

試合は0-0のまま延長120分を終え、勝負はPK戦へ。しかし1人目ストイコビッチのキックがバーを直撃するなど3人が失敗。ユーゴもマラドーナのPKを止めての健闘を見せるが、2-3で惜しくもベスト8敗退となった。

PK戦を「くじ引きみたいなもの」と嫌っていたオシム監督は、ひとりロッカーに引き上げ勝負の結果を見届けることはなかった。これ以降も、05年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝、07年アジア杯のオーストラリア戦及び韓国戦と、PK戦を避け続ける。

ユーゴ内戦と苦境の日々

W杯終了後にパルチザン・ベオグラード(セルビア)の監督を兼任。91-92シーズンはリーグ2位となり、ユーゴカップ決勝では名門レッドスター・ベオグラード(ツルベナ・ズベズダ)を破っての優勝を果たす。また91年7月にはチームを率いて来日し、日本代表と親善試合を行なっている。

代表監督としてもユーロ92への出場を決めていたが、92年3月にボスニア内戦が勃発。ユーゴ人民軍に故郷サラエボを包囲され、オシム監督はその街に残してきた妻と娘の無事を案じるという、苦境の日々を過ごす。

同年5月、ユーゴ人民軍に対する抗議により、パルチザン・ベオグラードの監督と代表監督を辞任。このあとユーゴ代表は、内戦による制裁処分としてユーロ92への出場権を剥奪された。

ギリシャの強豪パナシナイコス監督を経て、93年にはオーストリアの中堅クラブ、シュトゥルム・グラーツの監督に就任。その理由は妻・娘のいるサラエボと連絡が取り易いというもので、翌94年には二人との再会を果たす。グラーツの監督を務めた8シーズンで、リーグ優勝2回、国内カップ優勝3回、チャンピオンズリーグ出場3回の実績を挙げた。

グラーツでは「シュワーボ(ドイツ野郎)」と呼ばれファンから敬愛されたが、クラブの財政破綻による給料不払いで首脳陣との関係が悪化。事態は裁判沙汰まで発展した。オシム監督はクラブとの和解を望むも、首脳陣の高圧的な対応により、02年に退団を決意することになる。

日本のオシム

03年にはジェフ・ユナイテッド市原(現ジェフ千葉)の監督に就任。オシム監督は「考えて走るサッカー」を標榜し、J1残留争いの常連だったチームを変革。阿部勇樹、巻誠一郎、羽生直剛、佐藤勇人ら「オシムチルドレン」と呼ばれる選手たちを育て上げ、クラブの初タイトルとなるナビスコカップ優勝に導く。

ジーコジャパンが惨敗した06年W杯終了後、川淵会長に請われて日本代表監督に就任。オシムジャパンにはジェフ千葉の選手をベースとして、田中マルクス闘莉王、鈴木啓太、田中達也、前田遼一、今野泰幸、中村憲剛、長谷部誠などの新戦力が起用された。

また「ライオンに襲われた兎が肉離れしますか?」などの哲学的示唆によるオシム語録や、多色ビブスを使った独特の頭脳練習も注目を浴びている。

07年7月には大会2連覇中のアジアカップに臨むも、オシム戦術が浸透しきれていなかった日本代表は3位に終わってしまう。そしてW杯アジア予選を控えた07年11月、千葉の自宅で脳梗塞に倒れて意識不明。一時危篤状態となるも、医療スタッフによる懸命の治療で回復。代表監督は1年半足らずで辞すことになったが、日本サッカーに少なくない功績を残した。

08年にはオーストラリア・グラーツへ帰国。この後も日本では御意見番的存在として知られた。11年には、サッカー協会の分裂により国際大会から閉め出されていたボスニア・ヘルツェゴビナの正常化に尽力。14年のブラジルW杯出場に重鎮として大きな役割を果たしている。

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