《 サッカー人物伝 》 ポール・ガスコイン




「悪童の涙」 ポール・ガスコイン (イングランド )

ぽっちゃり体型のベビーフェイスという外見からは想像し難い、巧みなボールコントロールとドリブル、そして鋭いパスワークで中盤をリード。フィジカル主体のイングランドサッカーの中で、高いスキルとイマジネーションで違いを見せたゲームメーカーが、ポール・ガスコイン( Paul Jhon Gascoigne )だ。

90年のWカップメンバーに選ばれると、その才能を発揮して大活躍。イングランド代表を66年の自国開催大会以来のベスト4に導いた。そして準決勝で流した悔し涙がテレビで中継され、その姿が「ガッザの涙」と名付けられて世界中の反響を呼んだ。

いたずら小僧のような愛嬌と見た目に似合わない繊細さ、そしてピッチ上で魅せるプレーの数々で、イギリス国民のアイドルとなったガスコイン。だが私生活では飲酒や問題行動などで度々トラブルを起こし、それが結局選手としてのキャリアを蝕んでしまうことになった。

引退後十数年経っても、ゴシップ誌のネタを提供し世間を騒がせるガスコイン。それでも古きよき“ イングランドサッカー ”の象徴として、今でも「ガッザ」の愛称で親しまれる彼の人気は衰えない。


1965年5月27日、ガスコインはイギリス北東部の町ゲーツヘッドで生まれた。名前のポール・ジョンは、熱狂的なビートルズファンだった母親によって付けられている。貧しい労働階級の家庭に生まれた彼は、幼い頃から勉強もせずにサッカー三昧。少年時代からその才能は飛び抜けていた。

13歳で憧れだったニューカッスルの下部組織に入団、16歳の時に練習生として契約を結び、ユースチームでプレーするようになった。太めの体型ながら優れたテクニックで頭角を現し、主力としてチームの優勝に貢献した。そして18歳となった85年シーズンからは、トップチームの遠征に帯同するようになる。

翌年には早くもレギュラーに定着、31試合に出場して9得点を挙げた。こうして若手の有望株として注目されるようになったガスコインのもとには、有力クラブからのオファーが殺到する。中でも激しい争奪戦を繰り広げたのが、マンチェスター・ユナイテッドとトッテナム・ホットスパーだった。

ファーガソン監督の熱心な誘いを受け、一時はマンU入りに気持ちが傾いたガスコイン。するとトッテナムは彼の両親に12万ポンド(1600万円超)の邸宅をプレゼントするなど、攻勢を仕掛けてきた。その好条件に心を動かされたガスコインは、結局トッテナム入りを決める。

89年の夏にトッテナムへ移籍、さっそくチームの中心選手として活躍し、その年の最優秀若手選手に選ばれた。そして89-90シーズンは、バルセロナから移籍してきたガリー・リネカーとのコンビでチームをリーグ3位に導く。

イングランド代表には89年に選ばれ、6月7日の親善試合デンマーク戦でデビューを果たした。続くワールドカップ予選でも結果を残し、代表のレギュラーメンバーに定着する。

90年のWカップ・イタリア大会、イングランドは1次リーグでミラントリオ擁するオランダと同組になった。23歳のガスコインは司令塔として中盤をコントロール、強豪オランダと0-0で引き分けた。最終節のエジプト戦ではガスコインのFKからマーク・ライトによる決勝点を引き出し、グループリーグ1位での突破に貢献した。

決勝Tの1回戦、イングランドはベルギーと戦う。試合は膠着状態となり0-0のまま延長へ突入、それでも両チームに得点は生まれず、勝負の行方はPK戦で決まるかに思えた。だが終了寸前の119分、FKのチャンスにガスコインが絶妙の浮き球、それをデビッド・プラットがダイレクトでゴールを決め、イングランドが劇的勝利を収めた。

準々決勝は、大会に旋風を起こしたカメルーンとの戦い。試合はイングランドが先制するが、後半にロジェ・ミラが投入されると大乱戦。ようやく延長の105分にリネカーのPKが生まれ、「不屈のライオン」を3-2と振り切った。

準決勝の対西ドイツ戦も熱戦となり、試合は1-1で延長戦に入った。延長前半の8分、ガスコインがボールを奪った相手にスライディング・タックル、イエローカードを受けてしまう。これで次戦は累積警告による出場停止となってしまい、試合中にもかかわらず少年のような涙を流した。

結局イングランドはPK戦で破れ大会4位に終わってしまうが、悔し涙を流したガスコインは、帰国後に英雄的扱いを受けて人気者となる。

91年、トッテナムはFAカップの決勝へ進出、ガスコインは初タイトル獲得を目指してピッチに立った。試合開始の17分、相手DFに激しいタックルを見舞ったガスコインだが、反対に右足靱帯断裂という重傷を負ってしまう。この大怪我により、1年半に及ぶ期間を治療とリハビリに費やすことになる。これが影響して、彼は以前のようなパフォーマンスを発揮出来なくなってしまった。

92年にはイタリアのラツィオへ移籍。1年目はそれなりの活躍を見せたが、2年目は体重管理の失敗などで調子を落とし、次第に出番は減っていった。またイングランド代表も低迷し、94年のWカップ出場を逃してしまう。

そして94年のセリエA開幕前、ガスコインは練習中にタックルを仕掛け(相手は当時18歳のアレッサンドロ・ネスタ)、1シーズンを棒に振ることになった。95年にはスコットランドのグラスゴー・レンジャーズに移籍。このチームで彼はようやく復調の兆しを見せる。

96年には地元開催のユーロ選手権に出場する。グループ・リーグ第1節でスイスと1-1で引き分けたあと、第2節で古い対戦歴を持つスコットランドと戦った。個々の力では劣っても、気迫では相手を上回るスコットランド。持ち味の堅いDFでイングランドを手こずらせ、素早いカウンターで試合の主導権を握った。

しかし0-0で折り返した後半の53分、ガリー・ネビルのクロスにシアラーが頭で合わせてイングランドが先制する。それでもスコットランドの勢いは衰えず、再三あわやのピンチを迎えるが、GKシーマン必死のセーブで失点を防いだ。

スコットランドがPKを失敗した2分後の67分、左サイドから持ち込んだアンダートンがPエリア前にグラウンダーのパス、DFが身体を寄せてくるのを察知したガスコインは、巧みにボールを浮かせると相手の頭上を越して入れ替わり、落下するボールをダイレクトで捉えてゴールを打ち抜いた。

スコットランドを2-0と破ったイングランドは続くオランダ戦にも4-1の勝利。準々決勝ではスペインをPK戦で下し、ベスト4に進んだ。準決勝ではドイツに敗れてしまったが、ガスコインのスコットランド戦でのプレーは「世紀のゴール」と呼ばれ、後世の語りぐさとなった。

レンジャーズでは主力としてリーグ2連覇に貢献したが、離婚問題や不審人物からの脅迫、相手サポータに対する挑発行為(フルートを吹く真似が宗教的な侮辱とされた)が問題視されるなど、様々なトラブルに見舞われてしまう。ついに鬱病も患ってしまったガスコインは、ストレスの解消をアルコールやクスリに求めるようになり、それがプレーにも悪影響を及ぼすことになる。

98年、イングランド2部のミドルズブラに移籍。代表ではゲームメーカーとして充分な働きを見せ、2大会ぶりとなるWカップ出場へ貢献した。しかしガスコインの体調と精神面に不安を感じた代表監督のグレン・ホドルは、直前のスペイン合宿で彼を本大会のメンバーから外す。

監督からメンバー落ちを告げられたガスコインは感情を爆発、部屋の物を手当たり次第に破壊したと伝えられている。問題行動の多かったガスコインだが、ベッカムやオーウェンら若手にとっては良い兄貴分。代表のムードメーカー的存在でもある彼の離脱は、チームに暗い影を落とした。

それからは輝きを取り戻すことなく、いくつかのクラブを転々としたあと04年に37歳で引退する。そして下部リーグの監督に就任するが、飲酒によるトラブルで解任、さらにはカメラマンに対する暴力行為で逮捕されてしまう。

現役時代に稼いだ財産もギャンブルで使い果たし、鬱による自殺未遂騒動や深酒による度々の入院、繰り返される暴言等でゴシップ誌を賑わせ続けるガスコイン。それでも断酒宣言をしてまで再起を図るが、最近も電車内の暴行行為で女性に訴えられ、無罪判決が言い渡されると法廷で涙を流すなど、お騒がせぶりは相変わらずのようだ。

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