「 アイルランドのゴールハンター 」 ロビー・キーン ( アイルランド )
スピード溢れる動きでDFを混乱させ、一瞬の抜け出しから相手ゴールを陥れた。高い技術と創造性を持ち、勤勉な働きで前線のどのポジションからも得点を決めたアイルランドのゴールハンターが、ロビー・キーン(Robert David Keane)だ。
90年代後半アイルランド「黄金世代」の中心選手となり、同国史上最年少の17歳でフル代表デビュー。21歳のとき出場したW杯日韓大会では、ドイツの名GKオリバー・カーンから起死回生の同点ゴールを奪い、一躍その名を世界に知らしめた。
トッテナム・ホットスパーの点取り屋として長らく活躍。得点を決めた後の側転からの前転、立ち上がってのハンターポーズによるゴールパフォーマンスが有名である。
ロビー・キーンは1980年7月8日、アイルランドの首都ダブリンで生まれた。9歳で地元のサッカークラブへ入団。当初右SBとしてプレーしていたが、叔父のアドバイスでFWに転向。ここからストライカーとしての才能を開花させてゆく。
そのあと所属したクラムリン・ユナイテッドでの活躍が注目を集め、16歳でイングランドのウォルバーハンプトン・ワンダラーズのユースチームに移籍。97年8月9日のノリッジ・シティー戦で17歳でのプロデビューを果たすと、さっそく2ゴールを挙げる活躍で話題をさらった。
97-98シーズンはルーキーながら11ゴールを記録してレギュラーに定着。翌98-99シーズンも公式戦16ゴールを決め、マンチェスター・ユナイテッドなどのビッグクラブからも関心が寄せられるようになる。
99-00シーズンの開幕直後、ロビーのコヴェントリー・シティーへの移籍が決まり、ウォルバーハンプトンには10代の選手として当時最高額の移籍金となる600万ポンドが支払われた。
新チームでのお披露目となったカウンター・ダービー戦で早くも2ゴールの活躍。途中加入ながら12ゴールを記録し、若きストライカーとしての実力を証明する。
コヴェントリーでの活躍により、00-01シーズンはイタリアの名門インテル・ミラノへ移籍。しかしロナウド、ヴィエリ、サモラノ、レコバと名だたるFWたちがひしめく中、ロビーに出番が与えられることはなく、カップ戦要員として出場したスーペルコッパ・イタリアーナで先制ゴールを決めたのがインテルでの唯一の見せ場となった。
イタリアの環境にも馴染めず、チームの構想外となったロビーは、シーズン途中に出場機会を求めてプレミアのリーズ・ユナイテッドにレンタル移籍。シーズン後半戦の18試合で9ゴールを挙げ、完全移籍を勝ち取った。
しかし翌01-02シーズンはスランプに陥り、公式戦33試合で記録したのは9ゴール。そのうちの3点は、EFLカップのレスター戦で決めたハットトリックによるもの(試合は6-0の大勝)だった。
ユース年代から代表で活躍したロビーは、98年のU-18欧州選手権優勝に主力選手として貢献。日本が準優勝を果たした99年のワールドユース選手権でも、ベスト16進出に大きな役割を果たした。
フル代表には98年3月にアイルランド史上最年少の17歳で選出され、25日のチェコ戦でデビューを飾った。その年の10月には、マルタ戦でフル代表初ゴールを記録。そのまま順調にキャリアを重ねてゆき、若くして代表レギュラーへ定着する。
98年のWカップ、2000年のユーロと続けてプレーオフで敗退し、あと一歩のところで本大会出場を逃していたアイルランド。00年9月から始まったW杯欧州予選でも、強豪のオランダ、ポルトガルと同組となり、厳しい戦いが予想された。
しかしロビー・キーンら若手と、ロイ・キーンらベテラン組が見事な調和。持ち味の粘り強さで上位をキープし、01年9月のオランダ戦では強敵をホームで1-0と撃破。ポルトガルに続くグループ2位を確保し、大陸間プレーオフでもイランを下して2大会ぶりのWカップ出場を決める。
だが大会を直前に控えた02年5月のサイパン合宿中、主将で大黒柱のロイ・キーンがマッカーシー監督と衝突。監督に暴言を吐いて強制帰国を命じられるという騒動が勃発する。
この事件にチームは大きく揺れたが、新キャプテンのストーントンを中心に選手たちは結束。1週間後に開催されたWカップ・日韓大会に臨んだ。
G/Lの初戦はアフリカの雄、カメルーンと対戦。前半の39分にエムボマの先制弾を許すも、後半の52分に相手クリアを拾ったホランドが同点ゴール。大黒柱不在に攻撃が続かないアイルランドだが、どうにか初戦を引き分けに持ち込んだ。
続く第2戦は強豪ドイツとの試合。開始19分、クローゼのヘディングシュートでドイツが先制。リードを許したアイルランドは反撃を試みるも、屈強なドイツDFに跳ね返され攻め手を欠く。
後半の73分、マッカーシー監督は195㎝の長身FWクィンを投入。空中戦に強いクィンへロングボールを集めて、手詰まりとなった局面の打開を図った。
ストロングプレーの繰り返しが実ったのが、ロスタイムに入った90分。相手DFに競り勝ったクィンが頭でボールを流すと、ゴール前に走り込んだロビーが名手カーンの脇を抜いてシュート。土俵際の同点弾で次戦に望みを繋いだ。
G/L突破を懸けた最終節はサウジアラビアとの試合。立ち上がりから攻勢をかけるアイルランドは、前半の7分にロビーのボレー弾で先制。後半もクィンの投入が効いて2点を追加し、サウジアラビアに3-0の快勝。2大会ぶりのベスト16進出を決めた。
決勝トーナメントの第1回戦はスペインと対戦。前半8分、プジョルのクロスをモリエンテスに合わされスペインが先制。後半の52分にアイルランドがPKを得るが、イアン・ハートのキックを若き守護神カシージャスに防がれ、同点のチャンスを逸してしまう。
これで反撃の気運が削がれてしまったかに思えたが、直後の55分に切り札のクィンを投入。アイルランドは諦めずゴールを狙い続けた。
そしてロスタイムも残り1分、クィンが得意のハイボールに反応すると、DFイエロがユニフォームを引っ張って反則。アイルランドに再びPKが与えられた。これをロビーが確実に決め、土壇場で延長戦に持ち込む。
延長に入りスペインDFが負傷退場。交代枠を使い切り10人となった相手を圧倒するアイルランドだが、必死の守りに防がれゴールを割ることが出来なかった。
120分を終わっても決着はつかず、勝負の行方はPK戦へ。1人目で登場したロビーは冷静にゴールを沈めるが、続く3人がPKを失敗。アイルランドは惜しくも敗退となった。それでも、もう一人のキーンに代ってチームを牽引したロビーはその評価を高めた。
Wカップ終了後、大型補強のあおりで財政難に陥ったリーズ・ユナイテッドを離れ、トッテナム・ホットスパーに移籍。さっそくシーズン13ゴールを挙げてチームのトップスコアラーとなった。
その後もFWのライバルたちとしのぎを削りながら、毎年のように2ケタゴールを記録。07-08シーズンはギャレス・ベイル、ディミタール・ベルバトフとともに強力攻撃陣を形成し、キャリアハイとなる公式戦23ゴールを記録。EFLカップ優勝にも貢献し、初のタイトルを手にした。
08-09シーズン、子供時代からの憧れであったリバプールFCに移籍。だがチーム戦術にフィットせず、リーグ戦19試合で5ゴールと低迷。僅か7ヶ月の在籍でトッテナムに戻ることになった。
しかしトッテナムでも次第に出番を失ってゆき、09-10シーズンは20試合で6ゴール。完全にサブメンバーとなった翌シーズン途中には、出場機会を求めてスコットランドのセルティックにレンタル移籍する。
02年のW杯以降、アイルランド代表は暗黒期に突入。W杯予選、ユーロ予選で敗退を続け、ロビーは長らく晴れ舞台に立つことが出来なかった。
それでも代表ではエースとして奮闘。04年には通算ゴールを24に伸ばし、クィンの持つ代表歴代最多得点記録を更新。06年からは代表キャプテンの重責を担うことになった。
08年、名将ジョバンニ・トラパットーニがアイルランド代表監督に就任。同年9月から始まった南アフリカW杯予選では、持ち前のしぶとさを発揮して10戦無敗(4勝6分け)の内容。イタリアに続くグループ2位を確保する。ロビーはイタリア戦で貴重な同点ゴールを決めるなど、グループ最多の5得点を記録。エースとしての貫禄を見せた。
このあと8年ぶりのWカップ出場を懸け、プレーオフでフランスと対戦。ホームでの第1戦は0-1と敗れてしまうが、敵地サンドニの第2戦はロビーの先制ゴールで1-0。試合は90分を終了し、Wカップ出場国を決める延長戦が続けて行われた。
延長の103分、ギャラスにゴールを決められ1-1の同点。アイルランドは「アンリのハンドによるアシストがあった」と猛抗議を行うが、この訴えは認められず、結局2戦合計で2-1としたフランスが本大会出場となった。
試合後アンリがハンドを認めるような発言をしたため、アイルランドは再試合や特別枠での出場を求めてFIFAに提訴するが、結果が覆ることはなく敗退が決定する。
しかし10年9月から始まったユーロ予選では、ロビーが5ゴールを挙げてチームを牽引。アイルランドを6大会24年ぶりのユーロ本大会出場に導く。ユーロ2012(ポーランド、ウクライナ共催)ではスペイン、イタリア、クロアチアの強豪と同組で戦い、グループ3戦全敗を喫する。
このあと14年W杯予選、ユーロ2016予選にも参加し、16年8月に36歳で代表からの引退を発表。19年の代表歴で刻んだ146キャップ68ゴールは、2位以下を引き離してアイルランド歴代最多記録を持続中である。
クラブではウェストハムでのプレーを経て、11年に北米MLSのロサンゼルス・ギャラクシーに移籍する。ギャラクシーではデヴィッド・ベッカム、ランドン・ドノバンとともに攻撃の主力として活躍。3度のMLSカップ(リーグ上位チームによるプレーオフ)優勝とサポーターズ・シールド優勝(東西カンファレンスの最高ポイント獲得)に貢献し、14年にはMLS最優秀選手賞を受賞する。
17年には元チームメイトのシュリンガムが監督を務めるインドのATKでプレーし、最後の3試合は監督兼選手として出場。シーズン終了後の18年11月、38歳で現役からの引退を表明した。
19年には復帰したマッカーシー監督のもとでアイルランド代表のアシスタントコーチを務め、20年6月に同監督の退任にともなって辞職。現在はフリーの身だが、指導者としての将来を嘱望されている。
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