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2代目 横綱・若乃花(元間垣親方)死去

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「花のニッパチ組」の人気横綱

横綱・照ノ富士の入門時の師匠で、北の湖らとともに「花のニッパチ組」として活躍した元横綱・2代目 若乃花幹士の下山勝則さんが、16日午後に肺がんのため大阪市内の病院で亡くなったことが18日に日本相撲協会から発表された。享年69歳。

1953年生まれの青森県南部津軽郡大鰐町出身。小学校2年で相撲を始め、元横綱・初代若乃花の二子山親方(当時)にスカウトされ、のちの元横綱・隆の里(故人)と同じ夜行列車で上京して二子山部屋に入門。68年名古屋場所で初土俵を踏む。

73年九州場所で新入幕を果し、77年初場所後に大関へ昇進。同年夏場所に13勝2敗で初優勝を果すと、78年夏場所後には第56第横綱へ昇進。このとき「若三杉」から親方の「若乃花」へと四股名を継承する。

懐が深く、足腰の柔らかさは天下一品。切れ味鋭い右上手投げを得意とし、北の湖、輪島らと熱戦を展開した。78年の九州場所では、13日目に輪島との水入り全勝対決を制し、千秋楽は5連覇中の北の湖を破って2度目の賜杯を手にする。

横綱として3度優勝するも、肝臓病やケガなどに苦しんで全盛期は短く、83年初場所に29歳9ヶ月の若さで現役を引退。

色白の甘いマスクで「ニッパチ組」の中でも女性人気が高く、テレビCM出演やレコードデビューを果すなど土俵外でも華々しく活躍した。

波乱の後半生

引退後に二子山師匠の長女とスピード離婚し、このとき子供を身ごもっていた銀座のママとのちに再婚。二子山部屋からは独立して間垣部屋を興し、後進の指導に当たる一方、相撲協会理事として長く春場所担当を務めた。

98年には、当時の境川理事長(元横綱・佐田の山)の年寄名跡改革私案に反対して協会理事長戦に立候補し、無投票が続いていた理事選を初めて投票に持ち込んだ。10年2月には、二所ノ関一門の意向に反して理事に立候補した元横綱の貴乃花親方に賛同し、二所一門を離脱して話題となる。

05年には再婚した妻に先立たれ、07年に脳内出血で倒れてからは車椅子生活を余儀なくされた。さらに自身の弟子に対する暴行問題や、部屋の幕内力士の大麻所持による逮捕などの騒動も続き、体調悪化などを理由に13年に間垣部屋を閉鎖。当時幕下だった若三勝(照ノ富士)は伊勢ヶ浜部屋に転籍している

13年12月には定年前に相撲協会を退職。その後は大阪市内で元弟子の介護を受けて生活していたという。

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