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《 サッカー人物伝 》 サミュエル・エトー

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「 カメルーンの黒い宝石 」 サミュエル・エトー ( カメルーン )

アフリカ選手特有のポテンシャルを活かし、抜群のスプリント能力でDF裏へ抜け出した。軽快なフットワークとボール扱いの巧みさ、高い決定力で得点を量産するだけでなく、豊富な運動量とオフ・ザ・ボールの動きでチャンスを創出。飛び抜けた実績からアフリカ最高のストライカーと呼ばれたのが、サミュエル・エトー( Samuel Eto’o Fils )だ。

若くしてヨーロッパに渡り、マジョルカでの活躍を認められて名門FCバルセロナへ移籍。ロナウジーニョ、メッシ、アンリら世界的FWと共演し、05-06シーズンはリーガ・エスパニョーラ得点王を獲得。08-09シーズンはクラブ初となるトレブル(3冠)達成に大きく貢献し、インテル・ミラノに移籍した09-10シーズンも2季連続でトレブルに輝いた。

16歳の誕生日前日にA代表デビューを飾ると、98年W杯メンバーにも選出。カメルーン史上最年少となる17歳3ヶ月で大舞台のピッチを踏んだ。2000年にはエムボマと強力2トップを組み、アフリカ・ネイションズカップ優勝とシドニー五輪金メダル獲得に貢献。通算3度のW杯に出場し、4度のアフリカ年間最優秀選手賞に輝くなどの活躍を見せた。

欧州での活躍を夢見る少年

エトーは1981年3月10日、カメルーンの首都ヤウンデ郊外にある町ンコンに生まれた。父ダビデは会計士の仕事をしており、サミュエルは6人兄弟(男3人、女3人)の一人。やがて一家は大都市のドゥアラへ引っ越し、ギニア湾に面したニューベル地区に定住する。

小さい頃からサッカーに熱中し、でこぼこの空き地で手製のボールを蹴って友達とゲームに興じる姿が父親を動かして、地元クラブのUCBドゥアラに入団。同国の英雄であるロジェ・ミラのプレーを真似しながら、サッカーへのめり込んでいった。

ここでFWとしての技を磨いたエトーは、たちまち才能を発揮して13歳で地元2部リーグの試合に出場する。欧州での活躍を夢見るエトー少年は、家族とともにフランスへ渡航。数ヶ月の滞在期間にパリ・サンジェルマンのトライアルを受けるも、合格とはならずカメルーンへ戻ることになった。

帰国後は、ドゥアラに創設されたばかりのカジ・スポーツアカデミーに入団。カジSAはフランスのサッカークラブと提携しており、ここでの活動を通じてASサンティティエンヌやASカンヌの練習に参加した。しかしこれらのクラブからスカウトされるまでに至らなかった。

そのうちカメルーン・ジュニア代表に選ばれ、遠征試合でコートジボワールに2-3と敗れたものの、エトーは2得点を記録。そのプレーが試合を観戦していたレアル・マドリード関係者の目に止まり、トライアルを受けるよう勧められる。

96年にスペインへ渡ったエトーは、名門レアルのトライアルを受けてみごと合格。カメルーンから来た若きFWは、夢の実現に向けて大きな一歩を踏み出すことになった。

しかしエトーまだ16歳。外国人選手枠の関係もあり名門クラブでの出場機会はなく、レガネス(2部リーグ)、エスパニョール、マジョルカと、レンタル移籍の繰り返しで経験を積んだ。

99-00シーズンにプレーしたマジョルカで13試合6ゴールと芽を出し、完全移籍を果した00-01シーズンは28試合11ゴールを記録してレギュラーへ定着。代表での活躍と合わせてアフリカ年間最優秀若手選手賞に輝く。

カメルーンの新星

16歳の誕生日の前日となる97年3月9日、親善試合のコスタリカ戦でフル代表デビュー。翌98年にはフランスW杯メンバーに選ばれ、G/L第2節イタリア戦の後半66分にエムボマに代わって初出場。17歳3ヶ月という同国史上最年少の記録をつくり、カメルーンは最下位で敗れ去ったものの、将来を嘱望されたエトーは大きな経験を積んだ。

2000年1月、ガーナ/ナイジェリア共催のアフリカ・ネイションズカップ(AFCONアフコン)に出場。地元ガーナと1-1で引き分けたあとの第2戦、18歳のエトーは欠場となったFWに代わって先発出場。エムボマの先制ゴールに続く追加点を決めて、コートジボワール戦3-0の快勝に貢献する。

だが、エトーが先発を外れた最終節のトーゴ戦で0-1と敗れ、4チームが勝点4で並ぶという大混戦。辛うじて得失点で上回ったカメルーンが、1位突破となった。

準々決勝のアルジェリア戦では先発に復帰し、開始7分に先制点を挙げて2-1の勝利に貢献。準決勝はエムボマが2得点、エトーが1得点、チュニジアに3-0の完勝を収める。

決勝の相手は、カヌーオコチャ、オリセーらのタレントを擁する「スーパーイーグルス」ナイジェリア。前半26分、エムボマの得たFKのチャンスをエトーが決めてカメルーンが先制。31分にもエトーのスルーパスからエムボマの追加点が生まれた。

しかしハーフタイム直前に1点を返され、後半開始直後の47分にオコチャのロングシュートを浴びて同点。エトーのシュートがポストを叩くなどカメルーンは再三の好機を逃し、延長でも決着がつかず決勝はPK戦へ。

そしてPK戦を4-3と制し、カメルーンが7大会ぶり3度目の優勝。エムボマとともに得点ランキング2位となる4ゴールを記録したエトーは、大会ベストイレブンに選ばれた。

シドニー五輪金メダル

同年9月、シドニー五輪に出場。エトーはオーバーエイジ枠のエムボマと2トップを組み、カメルーンの決勝ステージ進出に貢献。準々決勝で優勝候補のブラジルと対戦する。

開始17分、エムボマがFKを決めてカメルーンが先制。だがこのあとブラジルの猛攻を耐える時間が続き、75分に右SBのジェレミが2枚目の警告を受けて退場。16歳のGK・カメニの好守連発でピンチをしのぐも、勝利を目前にしたロスタイムにMFヌギムバットが一発退場。ここで与えたFKをロナウジーニョに決められてしまい、試合は延長戦にもつれ込んだ。

延長はゴールデンゴール方式。9人での戦いを強いられるカメルーンの敗北は時間の問題と思われたが、守護神カメニを中心とした粘りで必死の防戦。ブラジルの焦りが見えてきた延長後半の113分、一瞬の隙を突いて抜け出したMFエムバミが決勝点。カメルーンが奇跡の勝利を収めた。

準決勝は1ゴールのほかPKを誘ったエムボマの活躍で、サモラノ率いるチリに2-1の逆転勝利。決勝はシャビ、プジョル、マルチェナを擁するスペインとの対戦となった。

開始1分、Pエリア右側に与えたFKをシャビに放りこまれ、早くもリードを奪われる。さらに前半ロスタイムにも追加点を許し、2点のビハインドでハーフタイムを迎えた。

後半の52分、エムボマの折り返しがスペインDFアマジャに当たってオウンゴール。これでカメルーンは息を吹き返し、58分にもエムボマが右サイドを破りクロス。そこへ走り込んだエトーが巧みなボールコントロールから同点弾を決める。

このあと終盤にスペインの2人が退場処分。カメルーン優勢と思えたが、スペインの粘りで延長120分を戦ってもスコアは動かなかった。PK戦ではスペイン3人目のアマジャが外したのに対し、カメルーンはエムボマ、エトーを始め5人全員が成功。「不屈のライオン」と呼ばれるアフリカの雄が、初めて金メダルを手にした。

バルセロナのエースストライカー

マジョルカで頭角を現していき、02-03シーズンはリーグ戦30試合14ゴールの好成績。コパ・デル・レイ(国王杯)では、決勝の2得点を含む6試合5ゴールの活躍。クラブの初タイトル獲得に大きく貢献した。

03-04シーズンも32試合17ゴールを記録し、トップストライカーの実力を証明したエトーは、「黒い宝石」の異名で呼ばれるようなった。そして保有権の半分を所持するR・マドリードからの買い戻しの話もある中、もうひとつの名門であるFCバルセロナと契約する。

バルサではロナウジーニョと息の合ったコンビを組み、1年目の04-05シーズンから37試合25ゴールの大活躍。ピチーチ賞(最多得点賞)はビジャレアルのフォルランに譲ったものの、チームの6季ぶりとなるリーグ制覇に中心的役割を果した。

翌05-06シーズンも快調に得点を重ね、34試合で26ゴールを記録して初のピチーチ賞を獲得。チームはリーグ2連覇とスペイン・スーパーカップ制覇を成した。チャンピオンズリーグもチェルシー、ACミランなどの強敵を下して12季ぶりの決勝へ進出。決勝ではCL初制覇を狙うアーセナルと戦う。

前半18分、ロナウジーニョのスルーパスに抜け出したエトーを、アーセナルの守護神レーマンがPエリア直前で倒して一発退場。バルサは数的不利となった相手を一方的に攻め立てた。

しかし37分、セットプレーからソル・キャンベルのヘディングシュートを許しアーセナルが先制。反撃を試みるバルサだが、アーセナルは堅く守ってからのカウンターで対抗。試合は0-1のまま終盤戦へと進んでいった。

その76分、ラーションからのパスを受けたエトーがついに同点弾。その5分後にはベレッチが逆転ゴールを決め、このまま逃げ切ってバルサが2-1の勝利。クラブ14季ぶりとなるビッグイアーを手にした。エトーはロナウジーニョの大会7ゴールに続く6ゴールを記録し、ビッグタイトル2冠に大きく貢献。アフリカ年間最優秀選手賞にも3年連続で選ばれた。

代表での不振

02年1月にはマリ開催のAFCONに出場。カメルーンは圧倒的強さでG/Lを勝ち上がり、大会無失点のまま決勝へ進出。決勝では新興セネガルと0-0の接戦を演じ、PK戦を制して2大会連続の優勝。だがいまひとつ不調だったエトーは大会1ゴールにとどまり、決勝のPK戦にも参加しなかった。

02年6月にはWカップ・日韓大会に出場。初戦でアイルランドと1-1で引き分けた後、第2戦はエトーのW杯初ゴールでサウジアラビアに1-0と勝利する。

第3戦の相手はドイツ。イエローカード16枚、レッドカード2枚が飛び交う荒れた試合となったが、オリバー・カーンの堅守に阻まれ0-2の敗戦。カメルーンはグループ3位で敗退となった。

03年のコンフェデレーションズカップで準優勝の好成績を残し、04年のAFCONではベスト8。このあとカメルーンは5大会連続出場を目指してW杯アフリカ予選に臨むが、ドログバ擁するコートジボワールに1ポイント及ばず敗退。エトーは25歳のピークで迎えるはずだったドイツW杯を逃してしまう。

06年1月に出場したAFCONも、コートジボワールに敗れてベスト8止まり。それでも大会5得点を挙げたエトーは、初の得点王を獲得する。

異なるチームでの2年連続トレブル達成

06-07シーズン、メッシ、ロナウジーニョとの「マジックトリオ」が結成されるが、エトーは右膝半月板損傷の重傷を負って19試合11ゴールと入団以来最低の成績。リーグ優勝もR・マドリードに奪い返され、タイトル無冠に終わる。またライカールト監督とは起用法を巡って対立、さらに前年バロンドールに輝いたロナウジーニョの生活態度を批判するなど、チーム内に亀裂を生じさせてしまう。

07-08シーズンにはアンリが加入し、「ファンタスティック4」と呼ばれる魅惑の攻撃陣を形成。しかしエトーは大腿部を痛めてまたも長期離脱。それでも18試合16ゴールと決定力の高さを見せた。

08-09シーズン、ジョゼップ・グアルディオラがバルサの監督に就任。ペップ新監督は、チームの和を乱すと考えるエトー、ロナウジーニョ、デコら3人へ戦力外通告。ロナウジーニョはミランへ、デコはチェルシーへと去っていたが、エトーは彼を必要とするチームメイトの説得工作により残留。プレシーズンマッチで8ゴールを挙げ、指揮官の評価を改めさせた。

最後までペップとの確執は解消されなかったが、持ち前の反骨心で36試合30ゴールの大活躍。23ゴールを挙げたメッシ、19ゴールを挙げたアンリとともに世界最強の3トップを形成。リーグ優勝を奪還すると、コパ・デル・レイも11季ぶりに制覇。CLはチェルシー、バイエルン・ミュンヘンらの強豪を倒し、決勝へ進んだ。

大会連覇を狙うマンチェスター・ユナイテッドとの決勝は、前半10分にエトーが先制点。後半70分にはメッシが追加点を決め、2-0の完勝。バルサはスペイン史上初となるトレブルを達成する。

翌09-10シーズン、モウリーニョ監督からの熱いラブコールを受け、イブラヒモビッチとのトレードでインテル・ミラノへ移籍。インテルでは左サイドに配され、32試合12ゴールと得点を減らすが、戦術理解度の高さで守備から攻撃までこなし、セリエA5連覇に貢献した。

さらにコッパ・イタリアも4季ぶりに制し、CLでは準決勝でバルセロナを退けてファイナル進出。エトーは異なるチームで2年連続して晴れ舞台のピッチに立つことになった。そして決勝ではバイエルン・ミュンヘンを2-0と打ち破り、イタリア初となるトレブルを達成。

そのうえインテルはイタリア・スーパーカップとFIFAクラブワールドカップも制覇し、5つのタイトルを独占。4度目のアフリカ年間最優秀選手賞を受賞したエトーは、キャリアの頂点を極めた。

ワールドカップで輝けなかったエース

08年1月、ガーナ開催のAFCONに出場。カメルーンは決勝でエジプトに0-1と敗れて準優勝に終わるが、5ゴールを叩き出したエトーは2大会連続の得点王。AFCON通算では歴代最多となる16ゴールを記録し、アフリカNo,1ストライカーとしての貫禄を示した。

10年6月、2大会ぶりとなるWカップ・南アフリカ大会に出場。初戦は日本の守備に動きを封じられ、0-1の敗北。第2戦はエトーが先制点を挙げるも、デンマークに1-2の逆転負け。連敗で早くも敗退が決まってしまった。第3戦もオランダに1-2と敗れるが、エトーはPKを決めて一矢を報いた。

このあとチームの内紛などでしばらく国際舞台から遠ざかるが、14年6月には自身4度目となるWカップ・ブラジル大会にキャプテンとして出場。しかし膝の故障を抱えていたエトーは、初戦のメキシコ戦に出場したのみ。カメルーン代表は第2戦のクロアチア戦で仲間割れを起こし、世界に醜態を晒すなど散々な内容。3戦全敗で大会を去って行った。

W杯終了後の8月、33歳のエトーは代表からの引退を発表。18年間の代表歴で118試合に出場、56ゴールを挙げた。このゴール数は、ロジェ・ミラの通算43ゴールを大きく上回る代表歴代最多得点記録である。

カメルーン・サッカー連盟会長

10-11シーズンは35試合21ゴールを挙げてストライカー復活を印象づけたが、モウリーニョの去ったインテルはリーグ6連覇を逃す。

11-12シーズン、破格の条件提示を受けてロシアリーグのアンジ・マハチカラへ移籍。そのあとイングランド、イタリア、トルコ、カタールと各国クラブを転々としながらも、常にストライカーとしての存在感を保ち続けた。

19年9月、カタールSCでのプレーを最後に38歳で現役を引退。引退後の21年9月、エトーはカメルーン・サッカー連盟会長選への立候補を表明。そして同年12月の選挙で現職のセイドゥ・ムボンボ・ンジョヤを破り、サッカー連盟新会長に当選。22年1月からエトー体制が発足している。

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