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《 サッカー人物伝 》 カルレス・プジョル

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「バルサ永遠のカピタン」カルレス・プジョル(スペイン)

DFとしてさほどの高さはないが、空中戦や1対1に強く、泥臭いまでの守備で相手のチャンスを潰した。そのタフネスと魂のプレー、クリーンなファイトスタイルで誰からもリスペクトされ、「バルサ永遠のカピタン(キャプテン)」と呼ばれたのが、カルレス・プジョル( Carles Puyol Saforcada )だ。

FCバルセロナのカンテラで育ち、20歳でリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)デビュー。以降メッシ、シャビ、イニエスタらを擁したバルサ黄金期をデフェンスリーダーかつキャプテンとして支え、生涯ワンクラブマンを貫いた。

スペイン代表でも豊富な実績を誇り、2000年のシドニーオリンピックでは銀メダル獲得に貢献。ユーロ08では守備の要としてスペインを44年ぶりの優勝に導く。10年W杯南アフリカ大会では、攻撃陣が停滞したチームをプジョルを中心とした守備で牽引。無敵艦隊の世界初制覇に大きな役割を果す。

信念の男

プジョルは1978年4月13日、カタルーニャ州にある田舎町のラ・ポブラ・デ・セグールで生まれた。両親は牧畜業を営んでおり、プジョル少年は自然豊かな中でたくましく育っていった。

地元クラブでサッカーを始めた頃はゴールキーパーを務めたが、肩の負傷をきっかけにFWへ転向。父ジョセップからの「手を抜くな、全力を尽せ」の教えを胸に刻み、練習に励んだ。だが決して才能に恵まれていたわけではなく、両親に「サッカーより勉強を頑張れ」と忠告されることもあった。

それでもプロへの夢を諦めることなく、15歳のときに名門バルセロナのセレクションに参加。テクニックはそこそこだったものの、ファイターぶりを買われて見事合格となった。

“ラ・マシア” と呼ばれるバルサのカンテラ(育成組織)に入団したプジョルは、高いレベルの競争に晒されながらも日々の研鑽を積み、守備的MFとしてプレー。その努力が実り、19歳となった97年にはバルサBチームへ昇格。ここで潜在能力を見込まれ、ポジションをDFにコンバートされる。

98年にはマラガ(2部リーグ)への移籍話が持ち上がるが、同期であるシャビ・エルナンデスのトップリーグデビューに刺激を受けて残留を直訴。翌99年には念願のトップチーム昇格を果す。

当時バルサの指揮官を務めていたのは、規律にうるさいルイス・ファン ハール監督。トップチームの練習に初めて参加したプジョルは、その長いカーリーヘアーを見た監督から「君は髪を切るお金もないのかね」と促されるが、「この髪型を変える気はありません」とキッパリ答えたという。

そして同年10月のバリャドリード戦でリーガデビューを飾ると、献身的な働きでたちまちレギュラーの座を獲得。右サイドバックとして24試合に出場し、実力を示してその髪型を黙認させた。

バルセロナの新リーダー

00-01シーズン、ホームのカンプノウで行なわれたエル・クラシコでは、バルセロナからレアル・マドリードへ禁断の移籍をしたルイス・フィーゴとマッチアップで対戦。粘り強いマークで世界最高のドリブラーを封じ、一躍その名を上げた。

そして翌02-03シーズンのチャンピオンズリーグ・グループステージのロコモティフ・モスクワ戦では、がら空きとなったゴールの前に立ち塞がり、至近距離からのシュートを胸で弾き出して阻止。ボールが当たったのはちょうどバルサの紋章が縫い込まれている部分だったため、クレ(バルサファンの愛称)には伝説のプレーとして今でも語り継がれている。

03年の夏にはクラブの財政危機が伝えられ、マンチェスター・ユナイテッドから高額オファーが舞い込むも、バルサを愛するプジョルはこれを断り残留。02-03シーズン限りでクラブを退団したフランク・デ ブールに代わり、CBのポジションを任されるようになる。

04年8月には、チームのキャプテンを務めていたルイス・エンリケが現役を引退。プジョルは彼からキャプテンマークを引き継ぎ、名実ともにバルサのリーダーとなった。

スペイン代表の次世代を担うディフェンダー

17歳から各年代の代表チームに名を連ねたプジョルは、2000年9月にシドニーオリンピックへ出場。リーダーとして司令塔のシャビとともにチームを牽引し、スペインを2大会ぶりの決勝戦へ導いた。

決勝はエムボマエトーの2トップを擁するカメルーンと対戦。シャビのFKなどで前半を2点のリードで折り返すが、後半「不屈のライオン」の反撃に遭い2-2と追いつかれる。さらに試合終盤にはスペインの2選手が退場処分。防戦一方の劣勢となるも、プジョルの奮闘で延長120分を乗り切り、PK戦へ持ち込む。

PK戦は全員が成功したカメルーンに対して、スペインは4人目のアヤマが失敗。自国開催の92年五輪以来2度目の金メダルを逃すが、プジョルの雄姿は世界に強い印象を植え付けた。

同年11月にはA代表に招集され、15日のオランダ戦で初キャップを刻む。このまま代表レギュラーに定着し、02年4月の親善試合・北アイルランドでは得意のヘディングで初ゴールを記録。W杯メンバーにも選ばれる。

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。右SBでイエロ、ナダルらとDFラインを組んだプジョルは、3戦全勝によるグループ1位突破に貢献。トーナメント1回戦でアイルランドと対戦した。

開始8分、プジョルの右クロスにモリエンテスが頭で合わせて先制。相手の反撃を凌いで試合は終盤まで進むが、終了直前の90分にイエロが相手のシャツを引っ張りPK。これをロビー・キーンに決められ、土壇場で追いつかれてしまった。

このあと延長戦を無失点で守り切り、勝負の行方はPK戦へ。PK戦では21歳の守護神カシージャスが3本を止める大活躍。スペインが準々決勝へ進む。

だが準々決勝では開催国の韓国にPK戦で敗れてベスト8敗退。モリエンテスのゴールが取り消されるという不運なジャッジはあったものの、エースのラウルを故障で欠いて攻撃陣が沈黙したのが痛かった。

この大会を最後に主将のイエロが代表を引退。万年優勝候補の評価を覆せなかったスペインの雪辱は、次世代を担うプジョルたちに託された。

04年6月にはポルトガル開催のユーロ大会に出場。初戦のロシアには1-0と勝利したが、第2戦では伏兵ギリシャに1-1の引き分け。第3戦で地元ポルトガルに0-1と敗れてしまい、無念のG/L敗退となった。

バルサ永遠のカピタン

04-05シーズン、バルサはロナウジーニョ、エトー、デコらの強力攻撃陣を擁し、シャビ、イニエスタ、ビクトル・バルデスといったカンテラ育ちの生え抜きも主力へと成長。ライカールト監督のもと6季ぶりとなるリーグ制覇を遂げる。

翌05-06シーズンもリーグ連覇を果し、CLではグループステージから13戦無敗の強さで14年ぶり2度目となる優勝の快挙。プジョルは「岩壁」と呼ばれるハードな守りでバルサの主要タイトル2冠達成を最後尾から支え、UEFAのベストイレブンと最優秀DF賞に選ばれる。

エレガントな技巧派揃いのバルサで異色さが際立つプジョルだが、決して最後まで手を抜かない姿勢はチームに力強さを与えた。また対人の強さや果敢なタックルなど激しいプレーを見せながら、相手の足を狙うことなど無縁のクリーンさ。また失言や暴言を吐いたことのない高潔な人柄でも知られた。

その真摯な姿勢とリーダーシップから誰からも尊敬され、クレからは「バルサ永遠のカピタン」と呼ばれた。06年に父ジョセップが農作業中に事故死したときは、敵味方関係なく多くの人々からプジョルと家族に激励のメッセージが送られている。

欧州選手権優勝

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。フェルナンド・トーレス、ダビド・ビジャ、イニエスタ、セスク・ファブレガス、シャビ・アロンソ、セルヒオ・ラモスと新たな世代が台頭したスペインは、G/Lで3戦全勝8得点1失点の圧倒的強さを見せ、余裕の1位突破を果す。

トーナメントの1回戦はフランスと対戦。前半28分にビジャのPKで先制するも、41分にリベリーのゴールで追いつかれてハーフタイムを折り返す。終盤の83分にはジダンのFKからヴィエラに逆転弾を決められ、後半ロスタイムにはプジョルがジダンの突破を許してダメ押しの3点目。あっけなくベスト16敗退となった。

08年6月、スイス/オーストリア共催のユーロ大会が開幕。プジョルは前年に左膝靱帯断裂という重傷を負いながら、驚異的な回復力で戦線への復帰を果していた。

シャビを中心とする「クアトロ・フゴーネス(4人の創造者)」を中盤に並べたスペインは、ポゼッションサッカーを極めた “ティキ・タカ” でゲームを支配。G/L初戦はビジャのハットトリックでロシアを4-1と一蹴する。

第2戦の相手はスウェーデン。前半15分にF・トーレスのゴールで先制するが、24分に守備の大黒柱であるプジョルが負傷退場。これで流れが変わり、34分にイブラヒモビッチのゴールで同点とされてしまう。

後半46分にイブラヒモビッチが負傷交代して主導権を取り戻すも、守りを固めた相手に攻めあぐねる時間が続いた。引き分けに終わるかと思えた後半のロスタイム、ビジャが角度の無い位置からシュートを決めて劇的勝ち越し弾。2連勝でグループ突破を決めた。

主力を温存した第3戦は、前回王者のギリシャを2-1と下して3戦全勝での1位通過。プジョルが先発復帰した準々決勝のイタリア戦は、ともにチャンスの少ない守備的な試合となり、延長120分を終わって0-0。PK戦にもつれた勝負はキャプテンのカシージャスがイタリアの2本を止め、スペインがベスト4へ進む。

そして準決勝はロシアと再び戦い、今大会ブレイクしたアルシャヴィンを完全に抑えて3-0の快勝。7大会ぶりとなる決勝へ勝ち上がった。

決勝の相手はドイツ。相手の厳しいプレッシャーに自慢のパスワークを封じられてしまったスペインだが、33分にシャビからのスルーパスを受けたトーレスが先制弾。後半チームはリズムを取り戻し、ドイツに反撃の隙を与えず1-0の勝利。スペインが44年ぶりに欧州を制し、名ばかりだった無敵艦隊がついにその真価を発揮した。

出場した5試合で2失点の堅守を支えて優勝に貢献したプジョルは、CBコンビのマルチェナとともに大会ベストイレブンに選ばれる。

残されたビッグタイトル

08-09シーズン、グアルディオラ新監督率いるバルサはリーグ優勝、コッパ・イタリア優勝、CL優勝と、スペイン史上初となるトレブル(3冠)達成の快挙。09年の末にはクラブW杯を制して世界一のタイトルを得ると、09-10シーズンはリーグ連覇を果す。

そして迎えた10-11シーズンは、6タイトル独占と前人未踏の偉業を達成。メッシ、ビジャ、シャビ、イニエスタらを擁し「史上最強」と謳われたバルサの攻撃も、後方で奮闘するプジョルの存在なくして成立し得なかった。

クラブですべての栄冠を手中にした彼に残されたのは、スペイン代表での世界王者タイトル。プジョルはバルサでもCBコンビを組むピケという若い相棒を得て、最後のチャンスとなる大舞台に臨んだ。

10年6月、Wカップ・南アフリカ大会が開幕、G/Lの初戦でスイスと戦った。スペインは圧倒的にボールを支配するも、守りを固める相手を崩しきれず前半は0-0。逆に後半の52分、ゴールキックからのロングボールでスイスの抜け出しを許し、カシージャスのこぼれ球を押し込まれて失点。このあとスペインの反撃も空回りし、0-1の敗戦。優勝候補が痛恨の黒星スタートとなった。

それでも第2戦はビジャの2発でホンジュラスを下して体勢を立て直すと、第3戦は難敵チリを2-1と下してグループ1位を確保。無事決勝トーナメントに進んだ。

苦難のW杯初優勝

トーナメントの1回戦は、隣国ポルトガルとのイベリア対決。0-0で進んだ後半の63分、イニエスタとシャビの連携から中央を切り崩し、そこへ走り込んだビジャがゴールを決めて先制。このあと得意のポゼッションサッカーでポルトガルの反撃をかわし、ベスト8へ勝ち上がった。

準々決勝はパラグアイとの対戦。前半は相手の激しいプレスに苦しみ、チャンスらしいチャンスもないままハーフタイムを折り返す。後半の59分、パラグアイCKの場面でピケがファールを犯してPKを献上。だがカシージャスがナイスセーブでゴールを阻止し、危機を逃れる。

そのわずか30秒後、今度はビジャがPエリアで倒されPKを獲得。シャビ・アロンソの蹴ったボールはゴールネットを揺らすが、味方のPエリア侵入が早かったとしてやり直し。2度目のキックは相手GKに止められ、先制点とはならなかった。

試合が膠着状態となった終盤の83分、シャビ、イニエスタのボール交換からチャンスが生まれ、ペドロのシュートのこぼれ球をビジャが豪快に蹴り込んで決勝点。スペインが薄氷の勝利でベスト4に進む。

準決勝の相手は、ユーロ08ファイナルでも戦ったドイツ。スペインはボールを保持して攻めるも、屈強なドイツDFとGKノイアーの好守に阻まれ、ゴールを割ることが出来なかった。前半13分にはイニエスタのクロスをプジョルがダイビングヘッドで捉えるが、ボールはクロスバーを越えていった。

均衡状態が続いた後半の73分、スペインが左CKのチャンスを獲得。シャビの蹴ったキックを、ファーサイドで飛び込んだプジョルが渾身のヘッド。ノイアーの牙城を破って待望の先制点が生まれる。このあとスペインが虎の子の1点を守り切り、初となる決勝進出を決めた。

決勝の相手となったのはオランダ。ともに初優勝を狙うチーム同士のゲームは、イエローカード14枚が飛び交う激しい死闘が繰り広げられた。

一進一退の攻防が続いた後半の62分、オランダの10番スナイデルのスルーパスにロッベンが抜け出しGKと1対1。この試合最大の危機を迎えるが、ロッベンの狙い澄ましたシュートをカシージャスが右足1本でスーパーセーブ。あわやのピンチを逃れる。

決勝は2大会連続の延長に突入。スペインがセスク、トーレスを投入して勝負に出ると、その勢いに押されたのか、延長後半の109分にオランダDFが2枚目の警告で退場。

これでスペインは一気に攻勢を強め、116分にはセスクのパスからイニエスタが決勝弾。ついに無敵艦隊が悲願となる世界王者に輝いた。

プジョルは決勝までの7試合にほぼフル出場。決勝トーナメントの4試合で失点を許さなかったチームの堅守を主将のカシージャスとともに支え、スペインの初優勝に大きく貢献。大会ベストイレブンにも選ばれた。

満身創痍で闘うプレーヤー

10-11シーズンはたび重なる故障に苦しみながらも、驚異的な回復力でバルサのリーグ3連覇に貢献。決勝まで進んだCLは怪我によりファイナルの舞台に立てなかったものの、マンチェスター・ユナイテッドに3-1と完勝して自身3度目となるビッグイアーを手にした。

11年8月には日本で開催されたクラブW杯に出場。決勝ではネイマール擁するサントスFCを完全に封じ、4-0の快勝。2度目のクラブ世界一に輝く。

しかし11-12シーズンの終盤に右膝靱帯損傷の大怪我。手術を受けて翌12-13シーズンは公式戦22試合の出場にとどまり、スペイン代表でもユーロ2012への参加を断念せざるを得なかった。

これまで何度も大きな怪我を克服してきたプジョルだが、さすがに35歳となって彼の身体は満身創痍の状態。13-14シーズンは長期の欠場を余儀なくされ、これ以上の回復が見込めなくなったことから、14年3月にシーズン限りの引退を表明する。

バルサのトップチームでは15年を過ごし、公式戦593試合に出場。21ものタイトル獲得に貢献した。また11年の代表歴で96試合に出場、3ゴールを挙げている。

引退後はバルサのフロント入りをするも、15年1月に退職。現在は後進の育成に当たりながら、次のステージへ進む充電期間を過ごしている。

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