両脚の長さが違うというハンディを逆手にとり、予測不能な動きでピッチを切り裂いた伝説のドリブラー。立ち塞がる敵を踊るようなステップで揺さぶり、魔術の如く曲がるキックでゴールを脅かした。変幻自在にボールを操り、挑んで来る者に尻もちをつかせたブラジルの名選手が、ガリンシャ( Garrincha/Mamoel Francisco dos Santos ) だ。
リオのボタフォゴで頭角を現し、21歳でブラジル代表に選出。58年W杯で母国の初優勝に大きく貢献し、相手を翻弄するドリブルで世界に衝撃を与える。62年W杯では、初戦で負傷したペレの穴を埋め、得点王の活躍で大会2連覇の立役者となった。時にペレ以上の選手と言われ、「脚の曲がった天使」と呼ばれてブラジル国民に愛された。
晩年は己の名声を浪費し、様々なトラブルや不幸に見舞われて、栄光から転落への人生を歩むことになったガリンシャ。しかしその刹那的で破滅的な生き方、そして哀しくも滑稽な人間味が、ガリンシャという男の魅力だった。
ガリンシャは1933年10月28日、リオ・デ・ジャネイロ近郊の山地パウ・グランデで、インディオの父親とムラート(白人と黒人の混血)の母親の間に5人兄弟の末っ子として生まれた。産婆がこの赤子を取り上げたとき、すでに両脚は左側へねじ曲がっていたという。
繊維工場で働いていた父アマロはアルコール中毒者。マヌエウ(愛称マネ)と名付けられた少年は6歳の時にポリオ(小児麻痺)を患うが、貧乏な家庭では満足な治療が受けられるわけなく、若い外科医が無料で手術にあたるも完治せず。生まれつきによる背骨のS字湾曲も、両脚の曲がりもそのままだった。
その影響で左右の脚に長さの違い(6㎝)が生じ、軽度の知的障害や斜視という後遺症も残ったマネ少年。それでも自然に恵まれた山裾の田園地帯で遊びまわりながら、狩り、釣り、サッカーなどに明け暮れ、野生児のように伸び伸び育っていく。
この少年に付けられたのが、「ガリンシャ(小鳥のミソサザイ)」というニックネーム。それは姉のローザが末弟を「ミソサザイのように小さい」と言ったことが由来とも、小石を使ったパチンコ遊びで小鳥を仕留めるの得意だったからともされる。またすでにこの頃から、飲酒や喫煙を楽しんでいた。
勉強が出来なかったガリンシャは、読み書きが出来ないまま小学校を中退。14歳になると地元の繊維工場で働き始める。怠け者のうえミスばかりのおよそ役に立たない従業員だったが、クビにならなかったのは工場経営者の支援するクラブ、ECパウ・グランデの有望選手であったからだ。
ハンディの代わりに直感的な才能を持つガリンシャは、誰も止められないドリブルの技術を身につけ、瞬く間に町いちばんの選手として活躍する。しかし素朴で暢気な彼は、母国で開催された50年W杯にまるで無関心。ブラジルがウルグアイに敗れて初優勝を逃した「マラカナッソ」の日には、世間の喧騒をよそにラジオ放送も聞かずに釣りに出かけたほど。
当然プロに興味を示すことなく、フラメンゴの入団テストを受けに行ったのもしぶしぶだった。ヴァスコ・ダ・ガマのテストでは、スパイクを持って行かなかったため追い返されている。フルミネンセのテストでは、「最終電車に間に合わなくなる」と途中で帰ってしまうこともあった。
だが19歳となった53年6月、以前ボタフォゴの選手だった男がガリンシャのプレーを見て、彼を引きずるようにして古巣のスタジアムへ連れて行く。こうしてボタフォゴの入団テストを受けることになったガリンシャに相対したのは、ブラジル代表DFのニウトン・サントス。サッカーの “いろは” を知り尽くす、「百科事典」と呼ばれた名選手だった。
いざテストが始まると、ブラジル屈指のDFをあっという間にドリブルで抜き去るガリンシャ。さらには一瞬の隙を突き、股間を抜くパスを通してさえみせた。そのプレーは周りの者を驚かせ、憮然とするN・サントスに「あいつとは契約したほうがいい」と言わせてしまう。
ボタフォゴに入団したガリンシャは、53年7月のカリオカ選手権(リオ州選手権)ボンスセッソFC戦でプロデビュー。右ウィングに入ると、ハットトリックの活躍で6-3の逆転勝利に貢献した。身体的ハンディを負いながら相手選手を次々とフェイントでかわし、巧みなドリブルでチームを勝利に導くプレーは、たちまちカリオカ(リオ市民)たちからの人気を博す。
ガリンシャの左右に体を揺らして軽快なステップを踏むフェイントに、抜かれまいとして思わず尻餅をつくマーカーが続出。この動作が仕掛けだと分かっていても、一連の動きの速さで誰も彼を止めることが出来なかったのだ。
長らくタイトルとは無縁だったボタフォゴだが、57年のカリオカ選手権で決勝に進出。そして決勝のフルミネンセ戦では、ガリンシャが4ゴールを挙げる大活躍。チームをカリオカ選手権制覇に導く。
この決勝の終盤には、フルミネンセFWのテレ・サンタナ(のちブラジル代表監督)がN・サントスに、「すでに勝負は決まったのだから、もうDFをなぶらないでくれとガリンシャに伝えて」と懇願。もはや向かうところ敵なしのドリブラーに、誰も抵抗する術はなかった。
ブラジル代表には55年9月の親善試合、チリ戦でデビューを果たす。だが当時のセレソンには当代最高の右ウィンガーと言われたフリーニョがおり、プレーが自由すぎると批判もあったガリンシャが代表に定着することはなかった。
57年3月にはペルー開催の南米選手権に出場。大会は参加7チームによる総当たり形式で行なわれ、ブラジルはシボリ、マスキオ、アンジェリノの「死のトリオ」を擁するアルゼンチンに0-3の完敗。宿敵の後塵を拝して準優勝に終わる。主力ではなかったガリンシャの出番は、エクアドル戦とコロンビア戦の2試合にとどまっている。
この直後に始まったW杯南米予選にも参加。ブラジルはペルーとのホーム&アウェイ戦を制して6度目のW杯出場を決めた。
悲願のW杯初優勝を狙うブラジルは、万全を期して本番への準備を進める。そして過去の大会では精神的脆さを露呈して敗退を喫した反省を踏まえ、専門家による選手への適性テストを行なった。
その際ガリンシャに下された判定結果は、「知能が低く行動が幼稚。責任感が欠如している」というもの。また当時17歳のペレも精神的に未熟だと判定されたが、代表のテクニカルスタッフだったパウロ・アマラルが強く推したため、二人ともサブ要員としてW杯メンバーに残る。
58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。初戦はアルタフィーニとN・サントスのゴールでオーストリアに3-0と快勝するも、第2戦でイングランドを攻めあぐねてスコアレスドロー。正念場となった最終節のソ連戦を控え、ビセンテ・フィオラ監督はガリンシャとペレの起用を決断する。
開始直後、右サイドをかき回したガリンシャのシュートが左ポストを叩いてゲームは開始。その1分後にはガリンシャのパスからペレがシュートを放つが、またも右ポストに嫌われてしまった。しかし二人の動きはソ連DFを混乱させ、前半3分にはババのゴールで先制。後半77分にもババの追加点が生まれ、2-0の快勝を収める。
ガリンシャに翻弄されたソ連の選手たちは、腹を立てるどころか試合後ブラジルの練習場を訪れ、彼の肩に手を掛けて「ようやく捕まえたぞ」と冗談を言ったという。ガリンシャの変幻自在なドリブルは、対戦相手をも魅了したのだ。
グループを首位突破したブラジルは、準々決勝のウェールズ戦をペレの初ゴールで1-0の勝利。準決勝はコパとフォンティーヌの攻撃コンビを擁するフランスとの戦いになった。2-1のリードで進んだ試合後半、怪我で一人少なくなった相手にペレがハットトリック。強敵を5-2と下してついに決勝へ進む。
決勝の相手は地元スウェーデン。開始4分にリードホルムの先制点を許すも、その5分後には右サイドを突破したガリンシャの折り返しからババが同点弾。32分にもDFを置き去りにしたガリンシャのパスから、ババが逆転ゴールを叩き込む。
後半52分にはペレの芸術的ゴールでリードを広げると、そのあとブラジルがゲームを支配して5-2の勝利。南米の雄が悲願のW杯初制覇を果たした。
ガリンシャにゴールこそなかったものの、セレソンを優勝に導く働きで大会ベストイレブンに選出。「ピッチに魔法を起こす天使だ」と称賛され、ペレと並ぶブラジル国民のヒーローとなった。
59年7月にはアルゼンチン開催の南米選手権に出場。若きエースとなったペレが7試合8ゴールと爆発するも、宿敵アルゼンチンの2連覇を許して準優勝に終わる。この大会4試合に出場したガリンシャはまたもノーゴールだったが、翌60年4月に行なわれた親善試合のエジプト戦で初得点。代表デビューから5年目にして生まれた国際Aマッチ初ゴールだった。
62年5月30日、Wカップ・チリ大会が開幕。ブラジルは優勝候補の本命として大会に臨んだ。初戦はザガロとペレのゴールでメキシコに2-0と快勝し、前回王者が順調なスタートを切る。
だが続くチェコスロバキア戦、前半25分にガリンシャのパスを受けてシュートを打とうとしたペレが、DFともつれて太腿を負傷。試合は0-0と引き分け、重症と診断されたペレはチームを離脱。大会2連覇を狙うブラジルに暗雲が漂った。
グループ突破を懸けた第3戦は、後半途中までスペインにリードされる苦しい展開。しかし終盤に入った72分、ガリンシャの突破からペレの代役として起用されたアマリルドが同点ゴール。86分にもアマリルドがゴールを決め、2-1の逆転勝利。グループ首位でベスト8に進む。
準々決勝ではイングランドと対戦。前半32分、CKにガリンシャが高い打点のヘッドで合わせて先制点。36分に追いつかれて1-1で折り返すも、後半の54分、ガリンシャのFKが弾かれたところをババが詰めて勝ち越し点。その4分後にはガリンシャが鋭く曲がるロングシュートを叩き込み、3-1とサッカーの母国を粉砕した。
準決勝の相手は地元チリ。開始9分、ガリンシャの左足シュートが炸裂し先制。32分にはザガロのCKにガリンシャが頭で2点目を入れる。42分に1点を返されるも、後半47分にはガリンシャのCKからババが3点目を決めた。このあと両チーム1点ずつを取り合い、ブラジルが4-2の勝利。2大会連続の決勝進出となった。
だが荒れ模様となった試合終盤、チリのラフプレーに怒ったガリンシャが相手DFの尻を蹴って退場処分。さらに退場の通路へ向かう途中に観客席からビンを投げられ、頭部を負傷してしまう。
チリの規律委員会は、ガリンシャの決勝戦出場停止処分を発表。しかしブラジル大統領の働きかけによりその決定が覆され、4日後に行なわれたチェコスロバキアとの決勝のピッチには、ガリンシャの姿があった。
試合は前半15分にマソプストの先制点を許すも、直後にアマリルドがゴールを決めて同点。後半69分にはアマリルドのクロスからジトの勝ち越し点が生まれ、78分にはババが追加点。ブラジルが3-1の快勝を収め、大会2連覇を達成する。
されども頭部を負傷していたガリンシャは39度の発熱に苦しみ、当日の体調は最悪。ここまでセレソンを牽引した男のプレーは精彩を欠いてしまった。それでも負傷したペレの穴を埋めて連覇の立役者となったガリンシャは、得点王(4ゴール 他にババ、フローリアンら5人が同点)と大会MVP(メディア選定)に輝く。
ボゴダフォは61、62年とカリオカ選手権を2連覇。この時期がガリンシャのキャリアのピークとなった。湾曲した脚は彼の膝の軟骨に負担をかけ、激しい動きを繰り返すうちに擦り減ってしまい、プレーに支障をきたし始めたのだ。医師からは手術の必要性を告げられたものの、信仰療法士に「2度とサッカーが出来なくなる」と言われたのを信じて治療を拒否する。
またクラブはガリンシャの無邪気さにつけこみ、不当に安いギャラしか支払っていなかった。世間知らずのガリンシャを心配した友人が、知り合いの銀行員を助言者としてよこすが、W杯のヒーローとは思えない酷い暮らしぶりに、その男はショックを受けたと言われている。
63年、ガリンシャの膝の状態は深刻さを増しており、遊離した軟骨のまわりに溜まった水を定期的に抜かなければならないほどだった。それでも彼は手術を拒否し続けるが、ついに無理が効かなくなり膝へメスを入れざるを得なくなる。
ついに64年に手術が行われるが、もう以前のようなプレーが蘇ることはなかった。すると翌65年には、無情にもボタフォゴから契約を打ち切られてしまう。
66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕。32歳となっていたガリンシャもメンバーに選ばれ、3度目となるW杯に参加する。かつてのようなキレ味など望むべくもなかったが、ブラジルサッカー協会は国民的人気を誇る男を無視できなかったのだ。
それでも2-0と勝利したブルガリア戦ではFKを決め、往年の力を見せたガリンシャ。だがペレが欠場した第2戦でハンガリーに1-3と完敗。最終節のポルトガル戦ではガリンシャも外れ、エウゼビオの前に1-3と敗れたブラジルはG/Lで消えていった。ガリンシャにとっては、ハンガリー戦が国際Aマッチ50試合目にして唯一の敗戦。またこれが、セレソンとして最後の試合となった。
12年間の代表歴で、60試合17ゴール(うち非公式戦10試合5ゴール)の記録を残している。
W杯連覇を果たした62年には、18歳のときに結婚した妻と8人の子供を放りだし、歌手のエルザ・ソアレスと再婚。この結婚は国民から批判を浴び、彼の名声を暴落させたが、養育費の支払いなどで財産も失うこととなった。
フラメンゴでプレーしていた69年、ガリンシャの運転する車がトラックと激突。同乗していた妻エルザの母親を死なせてしまう。スピード狂の彼は日頃から運転が荒く、これまで何度も事故を起こしていたのだ。選手生命をも絶たれてしまったガリンシャは、この事故から塞ぎ込むようになり、何度も自殺未遂を繰り返した。その結果ますますアルコールに逃げていくことになる。
73年にはガリンシャの感謝試合が行われ、その収益は生活に困窮する元ヒーローへ与えられた。これで得た資金をもとにレストランを開業するが、案の定経営に失敗。ついにはヤケ酒から妻エルザにも暴力を振るうようになり、やがて二人は離婚した。
その後3度目の結婚をするも生活態度は改まらず、酒に溺れる日々を送る。83年1月19日、酔って自宅に帰り、体調不良を訴えて横になると、そのまま昏睡状態に陥ってしまう。その知らせで駆けつけた医者は、アルコールで変わり果てた男の姿に、患者がガリンシャとは気づかなかったと言われる。
そのまま精神病棟に移されたガリンシャは、2度と目を覚ますことなく、翌朝6時に帰らぬ人となった。まだ49歳の若さだった。