《 サッカー人物伝 》 ホセ・ルイス・チラベルト

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「カリスマの咆哮」 ホセ・ルイス・チラベルト ( パラグアイ )

いち選手の枠を超えた圧倒的な影響力と強いリーダーシップでチームを引っ張り、仲間を奮起させ鼓舞しつづけたパラグアイのカリスマ・キーパーが、ホセ・ルイス・チラベルト( José Luis Felix Chilavert Gonzales )だ。

PKストッパーとして名高いチラベルトだが、大事なPKキッカーを任されるキャプテンとしても有名な異色のゴールキーパーだった。そればかりか強烈な左足FKからの得点も少なくなく、GKとして歴代2位となる62得点(うちPK45点)の記録を保持している。

もちろん本業の方も、シュート、クロスへの対応や相手の動きを察知する鋭い読み、そして果敢な飛び出しによるセーブなどで世界No.1のゴールキーパーと呼ばれた。さらに味方へ繋ぐPAからの確実なロングキックも、彼の得意とする武器だった。チームに数々のタイトルをもたらした彼は、96年に南米年間最優秀選手賞を受賞している。

パラグアイからアルゼンチンへ

チラベルトは1967年7月27日、ブラジルとアルゼンチンに挟まれた小国、パラグアイのルケ市で生まれた。父親は、会社で働きながら地元のクラブでプレーするセミプロ選手、チラベルトは兄弟3人とサッカーに熱中しながら育った。

大人に混じってゲームをすることもあったチラベルトだが、兄が怪我を恐れて弟をゴールに張り付かせたことがキーパー人生の始まりとなった。13歳の時に地元クラブへ入団、15歳でプロデビューを果たす。兄も10番を背負う同じチームの主力選手で、FKを得意としていた。

84年、チラベルトは兄と一緒にパラグアイの名門グアラニへ移籍。クラブの一方的な都合で1年間リーグ戦に出られなかったチラベルトだが、ユース代表に選ばれて84年のアメリカ・ユース選手権へ出場する。するとパラグアイ代表は勝ち進み、決勝でブラジルと対戦した。

決勝ではロマーリオ、べべトー、ドゥンガといった後のスターを擁するブラジルに1-2と惜敗、しかしパラグアイは世界ユースの出場権を得て、チラベルトも有望な若手GKとして注目されるようになった。

そんなとき、アルゼンチン5大クラブのひとつ、サン・ロレンソの関係者がチラベルトと接触。マフィアに支配されるパラグアイのプロリーグ事情に嫌気がさしていたチラベルトは、すぐにアルゼンチン行きを決める。

フリーキックへの目覚め

19歳でサン・ロレンソに移籍したチラベルトは、ボカ・ジュニアーズ戦でデビュー、名門クラブを無失点に抑えた。やがて新しい守護神はサポーターからも厚い信頼を寄せられるようになり、クラブがグアラニからパスを買い取っての完全移籍となった。

87年、前年のWカップで開催国メキシコをベスト8に導いたボラ・ミルティノビッチが監督に就任、チームは開幕から9連勝の快進撃を続けた。だがボカ・ジュニアーズに勝利した9戦目の翌日、ミルティノビッチは皆に別れも告げずクラブを去って行く。彼は選手の知らない間にセリエAのヴィデネーゼと契約を交わしていたのだ。

チラベルトがFKの素質に目覚めたのは、ミルティノビッチ監督とコカ・コーラを賭けて遠くのゴールを狙うというゲームを練習後に行ったのがきっかけだった。ミルティノビッチとの関係は短期間だったが、サッカー界について多くの事を学ぶなど、チラベルトに大きな影響を与えた。

88年、クラブと主力選手との間で契約を巡るトラブルが発生。チンピラを雇って脅しをかけようとするクラブのやり方に義憤を覚えたチラベルトは、仲間を守るため彼らと乱闘事件を起こす。

さらにチラベルトは事件を警察に告訴、それを取り下げようとさせるクラブの会長と対立する。クラブと会長に失望したチラベルトは、4年間プレーしたサン・ロレンソを離れることになる。

89年、スペインのサラゴサに移籍。そこでチラベルトは充実した時期を送り、リーグ戦やUEFAカップで活躍、リーガエスパニョーラの最優秀外国人選手にも選ばれた。しかし92年に新会長が就任すると、満了期間を半年残しチラベルトはサラゴサから突然契約を打ち切られてしまう。

このあと南米に戻ったチラベルトはアルゼンチンの中堅クラブ、ベレス・サルスフィエルドと契約、入団の記者会見では「クラブを優勝させるためにやってきた」と宣言する。その言葉は新聞記者だけでなくクラブの首脳陣にも冗談として受け止められたが、シーズンが始まるとチラベルトに鼓舞されたチームは快進撃、優勝まであと一歩という好成績を収めた。

異色の守護神

93年、カルロス・ビアンチが監督に就任。新監督は才能ある若手をチームに引き上げ、さらにチーム力は高まった。そして93年後期シーズンの対デポルティーボ戦。0-0で迎えた後半のロスタイムに、ベレスはFKのチャンスを得る。するとビアンチ監督はチラベルトをキッカーに指名、彼の蹴ったFKは大きな弧を描いてゴール右隅に飛び込んだ。FKを操るGKの誕生だった。

優勝争いも佳境を迎えたシーズン終盤、負ければ終わりとなる大事な一戦でベレスは1点をリードされ、追いつけないまま後半も残り僅かとなってしまった。試合終了の3分前、PA内のファールでベレスがPKを獲得、絶好のチャンスとなった。だが重圧に縛られた選手たちは互いに譲り合い、誰もキッカーの名乗りを上げなかった。

チラベルトは「私に蹴らせて欲しい」と監督に願い出ると、ペナルティースポットへ一直線、GKの左に思いっきり蹴り込んだ。こうして試合は1-1で引き分け、このあとライバルのインデペンディエンテが負けたため、ベレスは25年ぶりのリーグ優勝を果たしたのである。

94年、ベレスはリベルタドーレス杯(南米クラブ選手権)に出場、接戦をしのいで決勝へ進出した。ホーム&アウェーで行われる決勝の相手はブラジルのサンパウロ。ライー、カフー、ミューレルといったスター選手を揃えた、大会2連覇中の最強チームだった。

強豪を相手にベレスは死闘を尽くし、2試合を終えて1-1の同点、優勝の行方はPK戦に持ち込まれた。チラベルトはサンパウロ1本目のシュートを阻止、すぐに2人目のキッカーとしてゴールを決めた。結果ベレスはサンパウロをPK戦で5-3と下し、初の南米チャンピオンに輝く。

南米屈指のゴールキーパー

同年12月、ベレスは東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場。チラベルトはACミランの決定機をことごとく防ぎ、スター軍団相手に2-0の勝利、チームを世界一に導いた。さらに96年には、強豪クラブを集めた南米スーパーカップも制覇。大活躍のチラベルトは南米年間最優秀選手賞にGKとして初めて選ばれ、95年と97年には世界最優秀GKの名誉に輝いた。

97年、知将マルセロ・ビエルサが監督に就任。これまでのチーム戦術を一変させるビエルサの新システムに、戸惑った選手たちは練習をボイコットするなど対立。チラベルトも監督と激しく議論を交わした。

だが互いの理解が深まると、チームは他を寄せ付けない強さを発揮し98年後期リーグを制す。その頃チラベルトはビエルサを「最高の監督」と評価するまでになっていた。

パラグアイ代表には89年に初選出されているが、サッカー協会の不正や選手を商品として扱う態度に反撥して、その後の招集に応じることは少なかった。だがハリソン協会会長の度重なる説得に、条件付きで96年のWカップ南米予選に参加した。

そして9月のアウェー・アルゼンチン戦、バティストゥータのFKで失点を喫してしまったチラベルトだが、終盤に挽回のチャンスが訪れる。パラグアイが35mの位置でFKのチャンスを得ると、チラベルトは短い助走からスピンのかかったキック、GKの前で大きくバウンドし、頭上を越えてボールはゴールへ吸い込まれていった。

パラグアイはこのゴールで得た勝ち点が大きく効いて、3大会ぶりとなるWカップ出場に近づくことになる。

ワールドカップの健闘

98年、Wカップ・フランス大会にキャプテンとして出場。「死のグループ」と呼ばれたD組で最弱と思われたパラグアイだが、スペインとブルガリアには堅守で0-0の引き分け。最終節ではミルティノビッチ監督率いるナイジェリアを3-1と撃破し、G/L2位で決勝Tへ勝ち上がった。

決勝T1回戦では開催国フランスと対決、チラベルトと堅い守備陣は相手の猛攻を防ぎ、試合は0-0のままサドンデスの延長に入る。パラグアイの思惑通りPK戦に持ち込めるかと思った113分、トレゼゲの落としからブランがシュート。チラベルトはとっさの反応で飛びつくが、ボールは脇をすり抜けゴールネットを揺らした。

敗北の痛みに打ちひしがれるチラベルト。だが悲しみでピッチに沈むチームメイトに気がつくと、一人一人を抱きかかえて慰めの言葉で励ました。大会前は何も期待されていなかったパラグアイチームだが、帰国すると国民の大歓迎を受けることになる。

信念の男

99年、パラグアイでコパ・アメリカが開催された。だが国のインフラや医療・教育機関が整っていないのに、スタジアム建設などに莫大な国費が使われることへの疑問を感じたチラベルトは自国開催に反対、ハリソン会長の要請を頑として撥ねつけ大会への参加を拒否した。

また協会が政治の圧力に屈し、サッカーを知らない軍の将軍が利権と名声のためコパ・アメリカの組織委員長に就任したことも反対の理由となった。しかも新しい代表監督が全く尊敬できない人物だったのだ。このことで協会幹部から「非国民」のそしりを受けるがチラベルトは動揺することもなく、30万ドルの報酬を提示されてもその信念は揺るがなかった。

00年、10年在籍したベレスを離れフランスのストラズブールに移籍。02年にチームはフランス・カップの決勝に進む。チラベルトはPK戦のスーパーセーブで相手のゴールを阻み、最後のキッカーとしてPKを成功させチームを優勝へ導いた。

02年、Wカップ・日韓大会に2度目の出場。だが南米予選で、ブラジル・ロベカルの挑発に乗ってしまったチラベルトは唾吐き事件を起こしてしまい、初戦を出場停止処分となっていた。

それでもパラグアイはG/Lを2位で突破、決勝T1回戦でオリバー・カーン擁するドイツと戦う。両キーパーの好守で接戦となるが、終了直前の88分に点を奪われて0-1と敗戦、パラグアイは2大会連続のベスト16に留まった。

この大会前にパラグアイは長野県の松本市でキャンプを行い、チラベルトは市民や地元の子供たちと交流する。それがきっかけで少年サッカー大会の「チラベルトカップ」が開催されるようになり、現在も続いている。

その後チラベルトはベレスに戻り、04年のシーズンを最後に37歳で現役引退した。

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