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《 サッカー人物伝 》 ロナウジーニョ

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「 微笑みのファンタジスタ 」  ロナウジーニョ  ( ブラジル )

あざといまでのノールックパスと、相手GKの意表を突くループシュートが十八番。ボールと戯れながら信じられないような足技で観客を魅了した微笑みのファンタジスタが、ロナウジーニョ( Ronaldinho Gaúcho  / Ronaldo de Assís Moreira )だ。

バルセロナではライカールト監督が押し進める攻撃的戦術の中心となり、クラブを6年ぶりのリーグ優勝に導く。その活躍で05年のバロンドール賞を獲得、FIFA年間最優秀選手賞は2年連続で受賞し、世界で最も注目されるフットボーラーとなった。

99年のコパ・アメリカで鮮烈な国際デビューを飾り、00年のシドニー五輪にも出場。02年日韓W杯ではブラジル「3R」の一翼として優勝に貢献した。特に準々決勝のイングランド戦で披露した軽快なステップからのアシストは、世界中のファンをうならせた。

グレミオのロナウド

ロナウジーニョは1980年3月21日、リオグランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレで生まれた。本名はロナウド・ジ・アシス・モレイラ。のちに「フェノメナ」ロナウドと区別をつけるため、ロナウジーニョ(小さなロナウド)と呼ばれることになる。

元サッカー選手だった父ジョアンの手ほどきを受け、幼い頃からボールに親しんだロナウジーニョ。生活は苦しく貧しい幼年期を過ごすも、10歳年上の兄ロベルトがグレミオとプロ契約。一家はクラブから提供された邸宅に移り住み、当時6歳のロナウジーニョもグレミオの下部組織に入団する。

8歳のときに父ジョアンが家のプールで頭を打って溺死、それ以降兄ロベルトが父親代わりとなり、弟の人生に深く関わることになる。92年にグレミオを退団したロベルトは世界各地のクラブを転々、99年にはアシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍している。

グレミオユースでドリブラーとしての才能を発揮したロナウジーニョは、アンダー世代の代表に選ばれ、エジプトで開催された97年U-17世界選手権に出場する。U-17選手権では2ゴールを挙げてブラジルの優勝に貢献、ブロンズボール賞に輝いている。

その活躍が認められ、17歳でグレミオとプロ契約。98年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューを果たす。翌99年には攻撃的MFとしての才能を大きく開花、公式戦47試合で22ゴールの大活躍を見せる。

世界への登場

99年の4月にはナイジェリアで開催されたワールドユース選手権に出場。3ゴールを挙げたものの準々決勝でウルグアイに敗れベスト8に終わる。2ヶ月後の6月にはブラジルA代表に初選出、親善試合のラトビア戦でデビューを果たす。

その数日後にはパラグアイで開催されたコパ・アメリカに出場。初戦のベネズエラ戦で後半途中からピッチに立つと、シャペウ(帽子)と呼ばれる浮き球を使った技でDFを抜き去り、さらに右足アウトでもう一人かわしてからのシュート。フル代表初ゴールを決める。

その後の試合もスーパーサブとして途中出場し、ブラジルの優勝に貢献。ベネズエラ戦での「神業」と言われたスーパープレーで、ロナウジーニョの名前は世界に知られるようになる。

コパ・アメリカが終わった一週間後、メキシコで行われたコンフェデレーションズカップにも出場。ロナウジーニョは初戦のドイツ戦から4試合連続得点、サウジアラビア戦ではハットトリックを記録し合計6得点を挙げた。決勝では地元メキシコに敗れてしまったものの、顕著な活躍で大会得点王とMVPを獲得する。

U-23代表として参加したオリンピック南米予選でも、7試合9ゴールの大活躍。王国ブラジルがまだ手にしていない金メダル獲得を目指し、同年9月から始まったシドニー五輪に臨む。

初戦のスロバキア戦は3-1と勝利するも、続く南アフリカ戦では1-3の不覚。第3戦で日本を1-0と下し、ベスト8進出を決める。

準々決勝はエムボマ、エトーの2トップを擁するカメルーンとの戦い。開始17分にエムボマの先制点を許すも、試合終盤にカメルーンは2人の選手が退場処分。後半ロスタイムに得たFKのチャンスをロナウジーニョが見事に決めて、土壇場で延長戦に持ち込んだ。

しかし延長戦は9人となったカメルーンを攻めあぐね、113分にエムバミのゴールデンゴールを許して1-2の敗戦。メダルにも届かない期待外れの結果に終わった。

パリ・サンジェルマンへの移籍

2000年のシーズン、ロナウジーニョは公式戦49試合で41ゴールと大爆発。すでに有名選手となっていた彼の元には、欧州有名クラブからのオファーが数多く舞い込んでいた。

ロナウジーニョはグレミオとの契約延長交渉を引き延ばしつつ、欧州クラブと秘密裏に接触。その裏で画策を進めていたのは、フランスのモンペリエでプレーしていた兄アシス(ロベルト)だった。

01年春、パリ・サンジェルマンがロナウジーニョとの5年契約を発表。しかし寝耳に水の発表に驚いたグレミオは、パリSGへ移籍金4300万ユーロ(約45億円)を要求。移籍交渉は難航し、ついにはブラジルサッカー協会が介入。ロナウジーニョの移籍は半年待たされることになった。

ようやく移籍金500万ユーロでパリSGと契約がまとまり、8月4日のオセール戦でフランスリーグ・デビューを果たす。しかし半年間に及ぶブランクの影響は大きく、調子の上がらないままシーズン前半は先発と途中出場を交互に繰り返し。10月13日のリヨン戦でようやく初ゴールを記録する。

01年の末、主力のアネルカがリバプールに移籍。ゲームメーカーのオコチャがアフリカ・ネイションズカップ出場のためチームを離脱し、攻撃の中心を任されたロナウジーニョは覚醒したかのような働きを見せる。

02年の年明けから4試合連続ゴールを記録し、3月のトロワ戦では2得点を挙げて勝利に貢献。華麗な足技はパリのファンを歓喜させた。結局01-02シーズンを終えて公式戦48試合に出場、13ゴール10アシストの成績を残す。

ワールドカップ・日韓大会の大活躍

この活躍により、02年W杯の代表メンバーへ選出。最後で選外となったロマーリオに代り、ブラジル攻撃陣「3R」の一翼を担うことになった。

02年6月、Wカップ日韓大会が開幕。初戦はトルコに先制されながらも、大怪我から復活したロナウドのゴールで2-1の逆転勝利。続く中国戦は、ロベカルを加えた「4R」揃い踏みのゴールで圧勝。ロナウジーニョもPKでWカップ初得点を決めた。

最終節はコスタリカを5-2と下し、3戦無敗で決勝トーナメントに進出。トーナメント1回戦ではベルギーを2-0と退け、準々決勝に進む。

準々決勝はベッカム擁するイングランドとの戦い。前半23分、頭脳的な動きでDFのミスを突いたオーウェンが先制ゴール。そのあとイングランドは堅い守りでブラジルの反撃を防いだ。

しかし前半ロスタイムの2分、ハーフウェイ手前でボールを奪ったロナウジーニョが中央をドリブル突破。細かいステップを踏んで相手をかわすと、ゴール前近くに持ち込み右足アウトで流すようなパス。これをもらったリバウドが同点弾を決めた。

さらに後半の50分、ゴール右サイド30mの距離から、ロナウジーニョがクロスを警戒するGKシーマンの裏を狙ってのFK。慌てて腕を伸ばしたシーマンの頭上を越え、逆転のゴールが左上隅に突き刺さった。

ところがその7分後、ゴール前の競り合いでロナウジーニョが相手選手の足を踏みつけ退場処分。次戦への出場が出来なくなってしまった。10人になったブラジルは巧みなボール回しでイングランドの反撃をかわし、2-1と逃げ切る。

欠場となった準決勝はトルコに1-0の勝利、ブラジルは3大会連続の決勝に進んだ。決勝の相手はWカップ初の対戦となるドイツ。先発に復帰した復帰したロナウジーニョは、巧みなパスで再三の好機を演出。後半ロナウドが「闘将」オリバー・カーンの牙城を破り2得点、ブラジルが2大会ぶり5度目のW杯優勝を果たした。

スペインの名門クラブへ

W杯優勝後、故郷ブラジルでバカンスを満喫したロナウジーニョは、予定遅れでシーズン開幕前にチームへ合流。これをルイス・フェルナンデス監督に咎められ、5試合ベンチ入り禁止の罰を科せられる。

「練習はサボっても、夜遊びは欠かさない」と批判する監督との関係はこじれてゆき、02-03シーズンは12ゴール8アシストとまずまずの数字を残すも、内容が伴わずチームは前年の4位から11位に沈んだ。こうして不満を募らせていったロナウジーニョは、移籍を志願するようになる。

03年の春、マンチェスター・ユナイテッドのベッカムが、ファーガソン監督との確執により退団を決意。バルセロナとレアル・マドリードの間でベッカムの争奪戦が行われた。

ベッカムはレアルとの契約を選択。イングランドのスター選手を獲り損ねたバルセロナは、マンUが狙うロナウジーニョの争奪戦に参入。こうしてバルサは獲得競争を制し、3000万ユーロの移籍金でロナウジーニョとの契約に成功する。ビッグクラブへの移籍を願っていたロナウジーニョにとっても、満足の結果だった。

バルサで迎えた絶頂期

03-04シーズン、攻撃サッカーを標榜するバルサでロナウジーニョは躍動。3トップの一角として閃きに溢れる妙技を連発し、チームの攻撃に新たなリズムを生み出した。シーズン前半は負傷で一時戦線を離れるも、彼の復帰後チーム成績は12位から2位へと急上昇する。

ライカールト監督は「彼がボールを持つたびに特別の輝きを放つ」と手放しで絶賛。ロナウジーニョのプレーはグアルディオラフィーゴ、リバウドと要の選手を次々と失い、低迷が続いたバルサに光明をもたらした。そして彼の陽気な個性と遊び心に溢れた超絶テクニックは、カタルーニャのファンを虜にする。

翌04-05シーズン、バルセロナは6季ぶりとなるリーグ優勝を達成。5月の試合ではバルサの新星、リオネル・メッシの初ゴールをアシストしている。チームの中心選手として優勝の立役者となったロナウジーニョは、この年のFIFA最優秀選手賞に輝く。

円熟期を迎えた05-06シーズンも、公式戦26ゴール23アシストの大活躍。11月に行われた伝統のエル・クラシコでは、敵地サンティアゴ・ベルナベウで2得点を挙げ3-0の勝利に貢献。レアルのファンからも拍手で称えられた。

バルサはリーグを連覇。チャンピオンズリーグでも決勝でアーセナルを破って、14年ぶり2度目の優勝を成し遂げる。ロナウジーニョは得点王シェフチェンコ(9得点)に続く7ゴールを記録、決勝ではエトーの同点弾をアシストしCL優勝の原動力となった。

この活躍により、同年のバロンドール賞を受賞。またFIFA最優秀選手賞にも2年連続で輝き、欧州年間最優秀選手賞も3年連続で獲得。個人タイトルを独占する。

勢いの翳り

05年6月、キャプテンとして出場したコンフェデレーションズカップで優勝。決勝のアルゼンチン戦では4-1の勝利に大きな役割を果たし、マン・オブ・ザ・マッチに輝く。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。ブラジルはロナウジーニョ、ロナウド、カカ、アドリアーノによる「カルテット・マジコ」で連覇を狙うが、準決勝で自慢の攻撃陣がフランスに封じ込められて0-1の敗戦を喫する。

大会を通じて低調だったロナウジーニョは無得点。大勝した日本戦で1アシストを記録したのみと、期待外れの結果に終わった。帰国後すぐにアドリアーノとパーティーに興じる姿が報じられ、国民のヒンシュクを買うことになる。

06年12月には日本で行われたクラブワールドカップに出場。決勝でアレッサンドロ・パト擁するインテル・ナシオナル(ブラジル)に0-1と敗れてバルセロナの優勝はならなかったが、ロナウジーニョはブロンズボール賞に輝く。

06-07シーズンはリーグ戦21ゴール8アシストと好調さを維持するも、攻撃の主力エトーとメッシが怪我で長期離脱。3年連続のリーグ優勝を逃してしまう。

しかしロナウジーニョのパフォーマンスは20代後半を迎えて急激に低下。07-08シーズンは故障に悩まされリーグ戦17試合に出場、8ゴール2アシストの低調な成績に終わってしまう。夜遊びにふけり、トレーニングを怠る彼には、クラブの内外から非難の目が向けられた。

ライカールト監督は成績不振によりシーズン限りで解任。ロナウジーニョは新指揮官に就任したグアルディオラ監督によって戦力外とされ、ACミランに移籍する。

07年7月にはO/A枠として北京オリンピックに出場。準決勝でメッシ、リケルメ、アグエロ、ディ・マリアの豪華攻撃陣を誇るアルゼンチンに0-3と敗れ、銅メダル獲得に終わった。

キャリアの後半生

ミランでは一時輝きを見せるも、ナイトライフ好きの生活は相変わらず。その不摂生ぶりが嫌われ3年目は出番が激減、孤立したロナウジーニョは10-11シーズン途中にミランを退団する。古巣グレミオとの契約も噂されたが、代理人を務める兄アシスが選んだのはリオの名門フラメンゴだった。

10年にはWカップ・南アフリカ大会のメンバー候補として名前が挙がるが、最終選考で落選。3度目のWカップ出場は叶わなかった。

フラメンゴでは2シーズンを過ごすも、給料の支払い不足を訴えて一方的に契約を解除。12年6月にアトレチコ・ミネイロに移籍する。アトレチコ・ミネイロではコパ・リベルタドーレス制覇に貢献。モロッコで行われたクラブワールドカップにも出場し2得点を記録し、この年の南米年間最優秀選手に選ばれた。

その栄光の一方、兄アシスが脱税とマネーロンダリングの罪で告訴され、5年5ヶ月の実刑判決を受けるという不祥事を起こしている。

アトレチコ・ミネイロは14年に退団。その後メキシコのクラブで1シーズン過ごしたあと、ブラジルに戻りフルミセンネで2ヶ月間プレー。無所属となった15年からはフットサル・プレーヤーとして現役を続けた。

18年1月、代理人を務めるアシスから38歳での現役引退が正式発表される。最盛期を過ごしたバルセロナでは公式戦207試合に出場、94ゴール69アシストの記録を残した。また15年の代表歴で97試合に出場、33ゴールを挙げた。

墜ちてゆく英雄

引退後はイベントマッチのゲストプレーヤーとして活動。しかしロナウジーニョ兄弟の起こすトラブルは世間を騒がし続けることになる。

15年、故郷のポルト・アレグレで兄弟購入した土地に “環境保護法” に抵触する違法建築があったとして、税金の未納分と併せて約2億円の罰金を命ぜられるが、これを拒否して銀行口座を差し押さえ処分。しかし預金残高は僅か640円、日頃からの浪費癖と事業失敗で、お金など持っていなかったのだ。

国外逃亡を阻止するため兄弟のパスポートは没収。裁判所へ1560万円を払い19年9月にパスポートは返却されるが、20年2月には怪しげなネット通貨サイトで広告塔を務めたとして、世間の批判を受ける。

そして翌3月、チャリティー・イベントで訪れたパラグアイで、偽造パスポートと偽造IDカードを使用し、兄アシスと共に逮捕されるという衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。

兄弟は現地で5ヶ月間拘束。保釈金と罰金を支払ってようやく8月に解放された。この事件の裏には犯罪組織が関与していたと噂されるが、真相はまだ明らかになっていない。

20年10月、新型コロナウィルスの検査で陽性反応が出たことをロナウジーニョが公表。その12月、母親が新型コロナに感染し入院。翌21年2月に合併症を患い71歳で死去した。ショックを受けたロナウジーニョは自宅に引きこもり、酒浸りの生活を送っていることが伝えられている。

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