《 サッカー人物伝 》 レオニダス・ダ・シウバ




「ビシクレタの神話」 レオニダス・ダ・シウバ ( ブラジル )

小柄ながらビシクレタ(英語でバイシクル・キック)の名手として知られ、その柔軟性とアクロバチックなプレーで「ゴム男」の異名を持つブラジルの黒人選手が、レオニダス・ダ・シウバ( Leônidas Da Silva )だ。

1938年のフランス・ワールドカップでは卓越した技術と敏捷性でヨーロッパの観客を魅了、大会得点王とMVPに輝き、現地のジャーナリストは尊敬の念を込めて「黒いダイヤモンド」と呼んだ。空中に止まり、頭を下にしてペダルを踏むように回転するレオニダスのビシクレタは芸術品、少年時代のペレを夢中にさせた。

サッカー界で絶大な名声を誇り、現役時代は彼に関する多くの記事が残されたが、現在そのプレーが見られるのはフランス・ワールドカップで記録された僅かな映像のみ。90歳の大往生を遂げたレオニダスは、人生の大半を生ける神話として過ごしたのだ。


レオニダスは1913年9月6日、リオ・デ・ジャネイロの商業地帯にあるサン・クリストバンで生まれた。小さい頃からジュニアチームでプレー、すでに13歳の時には街一番の若手選手として注目されるようになっていた。

16歳の時に、地元クラブCRサン・クリストバンでプロとしてのキャリアを開始。その後リオ郊外にある小クラブ、ボンスセッソ・リオに移る。ボンスセッソではバスケットボール選手としても活躍し、選手権の優勝に貢献したと伝えられている。

31年にリオ州選抜チームのメンバーとなり、ハンガリー・チャンピオンクラブであるフレンツ・バロスとの親善試合に出場。その試合で得点を挙げるなどの活躍が認められ、早くも18歳でブラジル代表に招集される。

しかし当時はまだ黒人選手に対する偏見が強かった時代。32年のリオ・ブランコ杯(ブラジルとウルグアイの対抗戦)のメンバーとしてウルグアイ行きの船に乗ろうとするレオニダスに、ブラジルスポーツ連盟会長のレナート・パシェコからストップがかかった。

だが代表監督のルイス・ヴィニャエスは「レオニダス抜きでは、誰もブラジルから出発しない」の言葉をパシェコ会長に伝え、毅然とした態度を示したのである。こうしてレオニダスは、代表チームとともに試合の行われるモンテビデオに向かうことになった。

そして12月4日に試合が行われ、代表デビューを果たしたレオニダスは、当時世界チャンピオンのウルグアイを相手にいきなり2得点の活躍。そのうちの1点は得意技のバイシクル・キックによるものだった。そのプレーを目撃したウルグアイの名門クラブ・CAペニャロールのは、すぐさまこの有望若手選手の獲得に動く。

こうしてペニャロールに移籍したレオニダスだが、怪我に見舞われ1年で帰国。34年にリオの強豪ヴァスコ・ダ・ガマへ入団し、リオ州選手権優勝に貢献する。直後に行われたWカップ南米予選では参加辞退や途中棄権が相次ぎ、ブラジルとアルゼンチンの出場が決定。レオニダスも34年Wカップ・イタリア大会のメンバーとなった。

この時のWカップは、ノックアウト方式の完全トーナメント制。若手主体で臨んだブラジルは、第1回戦でスペインと戦った。試合を支配したのはスペイン、ブラジルは前半で3点を失い、名手リカルド・サモラの前にゴールも阻まれてしまった。

それでも後半に入るとレオニダスが1点返すが、結局1-3とスペインに完敗。はるばる南米から船に揺られて大会に参加したブラジルだが、僅か1試合を戦っただけででヨーローパの地を離れることになってしまった。

翌35年にはボゴダフォに移籍。だがボゴダフォでは差別的な扱いを受け、屈辱の1年を送る。36年にCRフラメンゴへ移籍、クラブ初の黒人選手だったが、レオニダスはようやく活躍の場を得た。フラメンゴの赤と黒のユニフォームを着たレオニダスは、泥臭いまでのゴールへの執着とアクロバティックなプレーでチームを勝利に導き、たちまちリオ市民の人気者となる。

第3回Wカップの南米予選は、2大会続けてヨーロッパでの開催になったことで、アルゼンチンを始めとする米大陸各国の反発を呼んだ。そのためほとんどの国が予選をボイコット、参加を辞退しなかったブラジルとキューバのWカップ出場が決まった。

ブラジルのエースとして招集を受けたレオニダスだが、本番前の練習には2週間遅れで現れた。合宿所のある鉄道駅で待ち受けていた新聞記者から、代表を外されるかもという噂を聞いたレオニダス。記者の問いかけに「それはない。だって俺はレオニダスだから」と答えた。尊大ではあったが、それだけチームに不可欠な選手となっていたのだ。

38年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。この大会もノックアウト方式のトーナメント制で行われ、ブラジルは1回戦でポーランドと戦った。激しい点の奪い合いとなった試合は、開始18分にレオニダスが先制弾、だが直後にビリモフスキのPKで同点となる。

だがその後ブラジルが2得点を挙げ、前半を3-1のリードで折り返した。しかし後半に入った50分に1点返されると、59分にはビリモフスキの同点ゴール、ポーランドに3-3と追いつかれてしまった。それでも雨の降り出した72分にブラジルが得点を決め、このまま逃げ切るかと思えたが、終了直前の89分にビリモフスキのハットトリックとなる同点ゴールを許してしまう。

試合は延長に突入。だがその前半94分にレオニダスが勝ち越し弾、さらに102分にはハットトリックの追加点を決めブラジルが2点をリードする。延長終了直前の118分、ビリモフスキが4点目となるゴールを入れ追いすがるポーランドだが、逃げ切ったブラジルが6-5と勝利、辛くも準々決勝へ進んだ。

準々決勝は、こけら落としとなったボルドーの新スタジアムで、ブラジルとチェコスロバキアの試合が行われた。だがこの対戦は後に、「ボルドーの戦闘」と呼ばれる大荒れのゲームとなった。開始直後の暴力行為で退場処分を受けて一人少なくなったブラジルだが、30分にレオニダスが先制点を決める。

だが荒れ気味の試合は次第にエスカレートし、ついには殴り合いに発展、ブラジルとチェコの両選手が退場となる。64分にネイエドリー(前大会得点王)のPKでチェコが同点。だがその後ブラジルのラフプレーに遭い、ネイエドリーは脚を骨折してしまう。

試合は1-1のまま延長に突入する。しかし今度は交錯プレーでチェコのGKプラニツカが負傷、右腕を折ってしまった。結局延長を終わっても勝負はつかず(当時はPK戦がない)、2日後に再試合が行われることになった。当時のブラジルは洗練さとはかけ離れた、ラテン気質の荒っぽいチームだったのだ。

再試合ではブラジルが9人、チェコが5人の選手を入れ替えて行われた。前半はチェコが1-0とリード、しかし後半に入るとブラジルがテクニックとラフプレーで攻勢をかけ、56分にレオニダスのゴールで追いつく。60分にはブラジルが勝ち越し点、エースのネイエドリーと守護神のプラニツカを欠いたチェコに余力は無く、ブラジルが2-0と勝利する。

準決勝は前回王者イタリアとの戦い。だがブラジルのアデマール・ピエンタ監督はこの大事な試合に、エースのレオニダスを決勝に備えて温存するという作戦に出る。だがレオニダスの代わりにエースを務めたペラシオが2度の絶好機を外すという大ブレーキ、ブラジルは巧者イタリアに1-2と敗れてしまった。

3位決定戦ではレオニダスが復帰、ブラジルはスウェーデンを4-2と下し過去最高の3位となった。レオニダスもこの試合で2ゴールを決め、計7ゴール(一説には8ゴール)で大会得点王。「黒いダイヤモンド」の称号が現地のジャーナリストから送られた。

39年、レオニダスはリオ州選手権の得点王に輝き、フラメンゴを11年ぶりの州選手権優勝に導く。だがそのあと膝の故障に苦しみ手術も受けるが、怠けているという謂われのない非難をクラブの幹部から浴びせらられてしまう。さらには兵役逃れの文書偽造を疑われて逮捕されるなど、この時期どん底の日々を過ごすことになった。

42年、ブラジル最高の移籍金が支払われ、CRフラメンゴからサンパウロFCに移籍。新天地で輝きを取り戻したレオニダスは、在籍8年間で5度のサンパウロ州選手権優勝に貢献する。再びサンパウロで名声を得たレオニダスの称号「黒いダイヤモンド」は、チョコレートや時計など様々な商品のPRネームとして使われるほどの人気を得た。

世界大戦終了後にWカップが再開されることになり、ブラジルでの開催が決まると、根強い人気を誇っていたレオニダスの代表復帰も噂されるようになった。しかし既に37歳となっていたレオニダスが代表に呼ばれることはなく、50年にWカップ・ブラジル大会が開幕。開催国は「マラカナンの悲劇」に沈んでいった。

翌51年、レオニダスは38歳で現役を引退。そのあとはラジオとテレビの解説者を務めながら、神話に彩られた人生を送る。そして2004年の1月24日、アルツハイマー病により90年の生涯を終えた。

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