ワールドカップの歴史 第10回西ドイツ大会

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FIFAワールドカップ、第10回西ドイツ大会(1974年)

「オレンジ旋風の衝撃」

「トータルフットボール」とヨハン・クライフ

ブラジルがメキシコWカップで大会3度目の優勝を達成、ジュール・リメ杯を永久保持する事になった。FIFAはそれに代わる新たなトロフィーを制作、大会の正式名称も『FIFAワールドカップ』となった。そして第10回目となるワールドカップは、64年東京でのFIFA総会で西ドイツでの開催が裁決された。

予選には99の国と地域のチームが参加、前大会ベスト8のイングランドなどが本大会出場を逃し、東ドイツ、ハイチ、ザイール(現、コンゴ)、オーストラリアが初出場を果たした。欧州ではオランダとポーランドが戦前の大会以来36年ぶりとなる出場を決め、この2チームが大会に旋風を巻き起こすことになる。

オランダは欧州予選で苦戦したという経緯もあり、前評判は決して高くなかった。報酬を巡ってチーム内にゴタゴタが起き、またアヤックスとフェイエノールトの2大派閥の折り合いも悪く、チームは纏りを欠いていた。

大会の数ヶ月前に監督解任劇が起き、オレンジ軍団の再建はリヌス・ミケルスに託された。当時オランダ代表の主力は、アヤックスで育った選手たち。そのアヤックスを「トータルフットボール」の戦術でチャンピオンズカップ3連覇に導いた男が、このミケルス監督だった。

トータルフットボールとは、豊富な運動量で頻繁にポジションチェンジしながらボールを回し、繰り返し攻撃を仕掛けながら守備もすかさずカバーする、全員攻撃・全員守備の戦術。ミルケスはアヤックスの監督時代ヨハン・ニースケンスやアリー・ハーンといった選手を鍛え上げたが、やはり最高傑作は今やFCバルセロナの顔、ピッチの支配者ヨハン・クライフだった。

開催国 西ドイツの躓き

大会開幕の3日前、フランクフルトで開かれたFIFA総会で現職のスタンリー・ラウスを破り、ブラジル人のジョアン・アヴェランジェが第7代FIFA会長に選ばれた。欧州以外で初のFIFA会長となったアヴェランジェは、この後次々と大胆な政策を推し進めていくことになる。

西ドイツ大会は、これまでのリーグ戦とトーナメント戦を組み合わせた方式から、4組の1次リーグを勝ち抜いた8チームで2組の2次リーグを行い、それぞれの1位同士が決勝戦を行う方式に変わった。そして第10回ワールドカップは74年6月13日、ミュンヘン五輪テロ事件の影響により厳重な警戒が敷かれる中、フランクフルトで開幕した。

1次リーグ1組は、今まで1度も対戦したことのない西ドイツと東ドイツが同組となり、大会前から大きな話題を呼んだ。西ドイツは当時28歳のベッケンバウアーが、最後尾から前線に上がり、攻撃を活性化するリベロのポジションを確立、攻守の中心として君臨していた。

「爆撃機」ミュラーも健在、その他ゲームメーカーのオベラートや新鋭のブライトナー、堅守を誇る名キーパーのゼップ・マイヤーなどのタレントも揃っていた。地元開催ということもあり、西ドイツは有力な優勝候補に上がっていたが、事前のキャンプで大会ボーナスを巡る内紛が勃発、監督のヘルムート・シェーンも手を焼く状態だった。

西ドイツは初戦の相手チリを攻めあぐね大苦戦、ブライトナーによるロングシュートの得点を守り切り、どうにか1-0と勝利を収めた。第2節の対戦相手はオーストラリア。初出場の格下チームを3-0と退けるが、内容は全く物足りないものだった。

そして第3節、注目の東ドイツ戦は1位通過を争う戦いとなった。試合が始まり西ドイツに何度か好機が訪れるが、どうしても点が入らない。そして69分、観客のコールに応えるように、オベラートに替えギュンター・ネッツァーが投入された。

ネッツァーは72年欧州選手権優勝の立役者で、国民に人気のあるゲームメーカーだった。しかし、ベッケンバウアーとオベラートのコンビネーションの良さという壁に阻まれて、今大会では出場機会を失っていた。

ネッツァーを投入した8分後、西ドイツは東ドイツに絵に描いたようなカウンターを受け失点、0-1で敗北を喫してしまう。こうして東西ドイツが唯一戦った試合は、東ドイツに軍配が上がり1位、西ドイツは2位となった。西ドイツの観客はショックのため無言で会場を去り、これ以降ネッツァーはベンチ入りさえしなかった。

この敗戦に危機感を覚えたベッケンバウアーは、自分の意見をはっきり監督に伝えるようになる。こうして2次リーグから「皇帝」ベッケンバウアーが、チームの采配にも関わるようになった。

大会を席巻するオレンジ旋風

第2組はブラジルとユーゴスラビアが勝ち点4で並び、得失点差でユーゴが1位、ブラジルが2位となった。ブラジルはペレやトスタン、ジェルソンといった優勝メンバーが代表を退き攻撃力が低下、チームの規律も緩んでいた。1次リーグ3試合で挙げた得点は、ザイール戦での3点だけという体たらくだった。

第3組、オランダのミルケス監督は第1節のウルグアイ戦に、負傷した正GKの代役として33歳でタバコ屋が本職のセミプロ選手、ヨングブルートを起用した。オランダは全ての選手が参加する攻撃で、古豪のウルグアイを圧倒、2-0の快勝で世界を驚かせた。

2得点を挙げたのは若手のレップだが、チームの頭脳としてタクトを振るいながら自由にピッチを駆け回り、華麗なプレーで観客を虜にしたのは背番号14のクライフだった。クライフは足元にボールを置くと、ゆっくり動きながら相手ディフェンダーの動きを誘う。そして敵が動く素振りを見せた瞬間、一瞬でトップスピードに乗り、彼らを置き去りにしていった。

そして積極的な攻めを可能にしたのが、大胆なオフサイドトラップの多用。背後に空いたスペースを、飛び出しと足元の技術に定評のあるGK、ヨングブルートにケアさせる。こうして大会本番で「トータルフットボール」はその威力を発揮した。

第2節のスウェーデン戦はスコアレスドローとなったが、第3節ブルガリア戦はその戦術で再び相手を圧倒する。オランダは豊富な運動量で守備の網を張り、パスコースを消し相手にプレスをかける「ボール狩り」を行った。オウンゴールで1点失ったものの、試合はニースケンスの2得点などで4-1と勝利。オランダは難なく1位通過を決め、2位はスウェーデンとなった。

ポーランドの快進撃

第4組、ポーランドはダークホース的存在だったが、ミュンヘン五輪では金メダルを獲得、欧州予選ではイングランドを打ち破りその実力を見せていた。大会前に英雄ルバンスキを怪我で失ってしまったが、代わってカジミエッシュ・ディナが変幻自在のパスで攻撃を操った。

初戦のアルゼンチン戦、ポーランドは開始7分でグジェゴジ・ラトーが先制点を記録、その1分後にもラトーのアシストからシャルマッフが追加点を決めた。持ち味のスピードでテンポの遅いアルゼンチンを凌駕したポーランドは、62分にもラトーが点を決め3-2と接戦をものにした。

第2節ではラトーの2得点とシャルマッフのハットトリックでハイチを7-0と粉砕する。ちなみにハイチはその前の試合で、無失点を続けていたイタリアの名GKディノ・ゾフから、1047分ぶりに得点を奪うという殊勲弾を挙げている。

第3節の相手はイタリア。ともにカウンターを得意とするチーム同士の戦いだが、イタリアにはリベラ、マッツォーラ、リーバ、ボニンセーニャ、ゾフといった前大会準優勝メンバーが残っており、優勝候補の一角だった。

試合開始からラトーが前線で相手を引きつける動きを繰り返していると、一瞬カテナチオに穴が空いた。38分、その空いたスペースにボールが送られると、走り込んだカスペルチャックが中央へ折り返し、そこからシャルマッフのヘディングゴールが生まれた。

さらに45分、同じような形でカスペルチャックが中央にパス、ディナのミドルシュートによる2点目が決まった。終盤ファビオ・カペッロに1点返されたものの、ポーランド優勢のまま試合は2-1で終了した。こうして3組はポーランド1位、アルゼンチンが2位となり、優勝候補イタリアは予選敗退となってしまった。

「空飛ぶオランダ人」

2次リーグA組に入ったオランダは、第1節でアルゼンチンと対戦した。豪雨の中の試合となったがオランダが終始圧倒、クライフが2得点を挙げ4-0の大勝で南米の古豪を退けた。続く第2節、東ドイツにはもはやオレンジ旋風を止める力は無く、ニースケンスの得点などでオランダが2-0と勝利した。

ブラジルは初戦で東ドイツと対戦。0-0で迎えた60分、ブラジルFKのチャンスに東ドイツはゴール前に6枚の壁を築く。その壁の中にブラジルのジャイルジーニョが割り込み、キッカーのリベリーノがセットしたボールを左脚で蹴り上げた。

その瞬間ジャイルジーニョが身をかがめると、ボールはその上に出来た隙間を縫い右へ回転、見事にゴールネットへ吸い込まれていった。この得点を守り切ったブラジルが1-0と勝利するが、このFKが今大会カナリア軍団唯一の見せ場となる。ブラジルは2節で南米の宿敵アルゼンチンに2-0と競り勝つと、次戦では決勝進出をかけオランダと戦うことになった。

A組最終節のオランダ対ブラジル戦。かつて最強を誇ったカナリア軍団も、オレンジ軍団の勢いの前にはなす術がなかった。

50分、クライフのパスを受けたニースケンスが振り向きざまにシュート、GKエメルソン・レオンの頭を越え先制点が決まった。さらにその15分後、クロスに走り込んだクライフがジャンピングボレー、「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」の名にふさわしい鮮やかな追加点を決めた。

84分には暴力行為でブラジルDFが退場処分、オランダは2-0とブラジルに完勝し、初のWカップ決勝進出を果たした。

ゲルマン軍団の目覚め

西ドイツは1次リーグで東ドイツに負けて2位となったことで、オランダとは別のB組に入った。オランダとの戦いを避けられたことは、チームの立て直しを図る西ドイツにとって幸運だった。

西ドイツ第1節の対戦相手はユーゴ。シェーン監督とベッケンバウアーは話し合いでチームの布陣を変更、この試合に22歳の新鋭ボンホフを起用した。ボンホフは活発な動きで前線をサポート、39分にはブライトナーの先制点を呼び込んだ。82分にもミュラーが追加点、西ドイツが2-0と快勝を収めた。

第2節はスウェーデン戦。西ドイツは前半に先制されるも、後半オベラートとボンホフの連続得点で逆転した。しかしすぐに追いつかれてしまい流れが悪くなった所に、ベンチはクラウボウスキを投入した。そしてそのクラウボウスキが76分に勝ち越し弾、89分にもPKを得て西ドイツが4-2と熱戦を制した。

ポーランドは第1節、スウェーデンと戦い苦戦を強いられたが、ラトーの得点を守り切り1-0と勝利した。第2節のユーゴ戦も接戦、1-1で折り返した前半を折り返した62分、ラトーの勝ち越し弾が生まれ2-1と逃げ切った。

そして最終節、西ドイツ対ポーランド戦は、試合前の豪雨でピッチが水浸しになり、スピードを身上とするポーランドの持ち味を失わせることになった。それでもディナのスルーパスにラトーが何度も抜けだしチャンスを作るが、西ドイツの守護神マイヤーが攻守を連発、失点を防いだ。

76分、ボンホフがペナルティエリアにボールを持ち込み、ミュラーへパス。ミュラーはぬかるんだピッチで右に流れながらシュート、貴重な1点を挙げた。こうして1-0と薄氷の勝利を収めた西ドイツは5大会ぶりの決勝進出を果たした。

B組2位となったポーランドは、この後A組2位のブラジルと3位決定戦を行い、1-0で勝利する。この試合でも得点を挙げたラトーが通算7ゴールで、大会得点王となった。

オランダの誤算とベッケンバウアーの戴冠

第10回ワールドカップ決勝は、7月7日ミュンヘンのオリンピック・スタジアムに8万人近い観客を集めて行われた。試合前の予想は、オランダの圧倒的優勢だった。そして開始1分、中盤の深い位置からドルブルで駆け上がったクライフが、Pエリアで倒されPKを獲得。これをニースケンスが豪快に決めオランダが先制した。

しかしこの速すぎる先制点が、オランダに緩みを生じさせてしまう。西ドイツは慌てず反撃を開始、25分には逆にPKを得てブライトナーが確実に沈め、1-1の同点とした。クライフはマンマークに付いたベルティ・フォクツに動きを封じられ、「トータルフットボール」は機能しなくなっていた。

43分、クラウボウスキのパスからボンホフが右サイドをドルブル突破、ミュラーへ折り返しのパスを送る。ミュラーは後方へトラップすると素早く反転しシュート、勝ち越し点が決まった。流れを失ったオランダは後半ロングボールに頼るなど、観客を熱中させた華麗な攻撃は陰を潜めてしまう。

試合は2-1で終了、西ドイツは大会2度目の優勝を果たした。オレンジ軍団の戦術は、「皇帝」ベッケンバウアーを中心とした円熟の試合運びに、その輝きを失ってしまったのだ。

ヨハン・クライフは現役引退後、バルセロナの監督としてもその才能を発揮した。16年に68歳の若さで無くなってしまうが、ミケルスに薫陶を受けたサッカー哲学は、今はジュゼップ・グアルディオラに受け継がれている。

次:第11回アルゼンチン大会(1978)

カテゴリー サッカー史

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